茨木市内に郡山城というお城があったことをご存知ですか。郡山城は郡正信が城主。郡正信とは高槻城城主和田惟政の家臣で、郡村、中河原村、宿河原村、上野村、下井村、五ヶ市村、七ヶ村を領地にしていたようである。郡山城の沿革についてはほとんどが不明で、いつ築城され、いつ廃城になったのか解っていない。白井河原合戦で和田惟政、池田勝正の連合軍と、荒木村重、中川清秀連合軍が戦ったが、その時荒木村重、中川清秀連合軍が郡山の馬塚という地域に陣取たが、それは郡山城ではなかったかという指摘もあるが、ここから北へ約200m先の「本頂寺」周辺との指摘もあり、詳しくは解っていない。
城郭についても不明な点が多いが、明治時代初期に作成されたと思われる『東摂城址図誌』に郡山城の絵図がある。これによると城跡とされる部分は南北六十間(約110m)、東西六十七間(約120m)あり、現在の浪速少年院の大半が郡山城跡と推定されている。またこの『東摂城址図誌』には約三分の一が「山地」、約三分の一が「畠地」、約三分の一が「田地」とあり、この時にはすでに城跡としても消失し、一部が田畑化していたと思われている。浪速少年院は小高い丘の上にあり、このような場所が城郭として選地されたと思われている。また、茨木市教育委員会が建てた案内看板の下に、郡山城で使用されていたと思われる石垣の石が置いてある。これは大正11年(1922年)に浪速少年院の工事中に大量の石垣が発見され、その中に郡家の家紋と推定されている、三ツ鱗や三ツ星の刻印された石も出土した。またこの周辺(西に200メートル程いったところにある公団住宅内)には「城の内」、「門口」など城跡を思わせる地名が残っている。
所在地:大阪府茨木市郡山1丁目
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