2012年1月30日月曜日

蔵屋敷

蔵屋敷とは、江戸時代に大名(藩)が年貢米や領内の特産物を販売するために設置した倉庫兼邸第の事である。一般的に大坂にあったものが著名であるが、江戸・敦賀・大津・堺・長崎など、交通の要所である商業都市に設置される場合もある。また、大名のみならず有力な旗本・公家・寺社の中には自前の蔵屋敷を持つものもいた。
○概説
豊臣政権が全国支配を完成させた頃から政治の中心であり有力商人たちが在住していた大坂・堺に諸大名の蔵屋敷が立てられ始めた。やがて江戸幕府が成立すると、政治の中心は江戸に移転したものの商業の中心はそのまま大坂に留まったために以後も諸藩の蔵屋敷は大坂に集中した。大坂には延宝年間(1670年代)には80、天保年間(1840年代)には125の藩の蔵屋敷があったとされ、小藩や大名以外のものも含めると600近くはあったのではないかという説もある。なお、商業を賎しむ儒教的観念の影響を受けて、ほとんどの大名が自己所有の蔵屋敷であっても有力商人を表向きの名義人(名代(なだい/みょうだい))としてそこから借り受けている事としており、大坂では安濃津藩・伊予松山藩の2藩のみが自己所有の蔵屋敷の存在を公然としていただけだったとされている。また、奥州や関東地方の諸藩の間にはより領国に近い江戸(主に隅田川下流や江戸湾に注ぐ小河川の河口付近)に蔵屋敷を建てるものがいたが、江戸では幕府や旗本所有の蔵米の売却も行われるために幕府の米価政策によって、諸藩保有の年貢米の売却に対して制約が加えられる事でもあり、仙台藩や平藩など同地域の有力諸藩は大坂にも蔵屋敷を有して江戸・大坂両方の商人と取引関係を持っていた。西日本の藩の中には江戸の藩邸(特に下屋敷)に蔵屋敷の機能を有していたものも存在していた。
○蔵屋敷の構成
蔵屋敷の運営は藩から派遣された武士である蔵役人と立入人と呼ばれる商人から構成されており、立入人の中でも名代・蔵元・掛屋・用聞・用達と分かれていた。蔵役人は蔵屋敷の管理を担当し、その責任者である留守居は商人達との交渉の総責任者でもあった。名代は前述のように蔵屋敷の名義人であり、蔵元が兼ねる事もあった。蔵元が蔵屋敷の内部の品物の管理・売却を行う実務責任者であり、藩役人が兼ねる場合と米問屋や両替商などの有力商人が務める場合があった。前者を役人蔵元、後者を町人蔵元と呼ぶが、次第に後者が一般的となった。掛屋は売却代金などの管理・出納を行う役職で特に金融・為替を扱う両替商が任命される場合もあり、蔵元が兼ねる場合もあった。蔵元・掛屋は藩から扶持米が与えられ、売買の際には手数料を取る事が許された。藩によっては名字帯刀などの武士身分への取立てを行う場合もあった。用聞・用達はその他一般の出入り商人である。蔵元や掛屋は藩に損害を与えない事、必要な出納にいつでも応じる事を前提に預かった資金などを自由に運営する事が許され、それを元手に投機を行って莫大な利益を上げるものもいた。このため、有力商人の中には複数の藩の蔵元や掛屋を兼務する者もいた。だが、後述の大名貸の引き受けに応じざるを得ない場合もあり、その焦げ付きによっては破産の危機に見舞われる場合もあった。
○蔵屋敷と米切手
大坂には年間200万石ともいわれるほどの米が入ってきていたが、その3/4が蔵屋敷に入る蔵米であったとされている。蔵屋敷はまず入札の期日と払い下げ量を公示して米仲買(蔵名前)を集めて入札させ、落札者は保証金を納める。その後7-10日以内に掛屋で残り代金を払って受領書にあたる銀切手を引き取って、それを30日以内に蔵屋敷に呈示して更に「米切手」と交換した。米切手を持参人が蔵屋敷に呈示すれば、いつでも記載された量の米を下げ渡される権利を有していた。ただし、事務処理の関係もあり蔵屋敷側に一定猶予が許されており、当初は30日の猶予とされていたが、次第に期日が延びて後には1年ないし1年半の猶予をとるものまで現われた。ただし、銀切手や米切手に猶予が与えられた事は決してマイナスなだけではなかった。それらは第三者への譲渡が許されていたため、換金や第三者への支払にあてる事も可能であり、為替の代用として用いたり米を必要とする米問屋が期日の到来した米手形を購入して米を受領するなどの応用が可能であった。
○蔵屋敷と大名金融
江戸時代も中期に入ると諸藩の財政は悪化して、蔵元や掛屋を務める商人からの借金(いわゆる「大名貸」)が頻繁に行われるようになり、また猶予期間を利用して見通しが不明な来年入荷の米と引換に出される空米切手の発行などが行われるようになった。大名貸は表向き信用貸しであったが、実際には蔵米が担保となり得るものであったし、空米切手は将来的には藩の年貢米から返済しなければならなかった。天明の大飢饉などの際には大名貸や空米手形の決済に迫られた藩の中には、飢餓で苦しむ領民を放置して大坂への廻米を実施して多くの餓死者を出した挙句、農村が荒廃してしまった為に財政が更に逼迫して更なる借金を築いた藩もあったと言われている。また、蔵元や掛屋が逆に藩の経済や財政にも影響力を行使する場合も出現した。ただし、蔵元や掛屋にとって良い話ばかりではない。蔵元や掛屋としての契約を打ち切られる(実際に借金踏み倒しを目的に蔵元や掛屋を交代させる例があり、実際に天保6年(1835年)と安政4年(1857年)に大坂町奉行から諸藩にこうした行為の禁止が言い渡されている)ことを恐れて大名からの無理な借入に応じた結果、破産するものもおり、また薩摩藩のように武士身分である事を逆手に取られて一方的な債務の繰り延べが行われる場合もあった。
○蔵屋敷の諸機能
蔵屋敷の基本的な機能は、上記で述べたように年貢米・特産物の売却や、これらを担保とした金融の管理であるが、この他にも多彩な機能を持つものが存在した。とりわけ規模の大きな大坂の蔵屋敷の中には、参勤交代の途上で藩主が滞在するための御殿を設けたものもあった。またこうした大坂の蔵屋敷の役人が、国元の商人と大坂の商人や幕府の大坂町奉行所との間の仲介を行ったり、また幕府の役所が蔵屋敷を通じて諸藩に伝達を行う例もみられ、蔵屋敷は領国と大坂そして中央政権(幕府)を繋ぐ情報の結節点としても機能していた。幕末に入ると、産品の輸出や海外からの武器調達を目的とした商会所を併設する藩も現われて、蔵屋敷の機能が低下を始める。また、大坂の蔵元や掛屋の藩の経済政策への介入を防ぐために藩から大坂以外の大都市への直接販売や備中松山藩のように蔵屋敷自体を廃止してしまう藩も現われた。明治維新後の廃藩置県によって諸藩の蔵屋敷は新政府によって接収され、また旧藩債務の大幅切捨てを断行したために、多額の債務を焦げ付かせた元の蔵元・掛屋が次々と破産して特に大阪(大坂)経済は大混乱に陥った。続く地租改正によって農民が直接政府に対して金納による納税を行う事になったために、農民が地元で米を売却・換金するようになり、農民→藩→蔵屋敷という江戸時代に長く続いた米の流通構図が崩壊した。このことが東京に比べて経済の近代化を遅らせ、「天下の台所」と呼ばれてきた大阪が日本経済の中心から転落する一因ともなったとされている。

2012年1月25日水曜日

多田神社

多田神社は兵庫県川西市にある神社。多田院として国の史跡に指定されている。
○概略
同地は清和源氏武士団発祥の地であり、この地に居城を構えた源満仲によって天禄元年(970年)に天台宗寺院として建立される。鎌倉時代に幕府から造営の督励をうけた僧忍性による再建以降真言律宗に転じ、明治以前までは多田院と称した寺院であったが、神仏分離の際に神社となった。その際、南大門にあった金剛力士像が満願寺に移されるなどした。多田神社は清和源氏の霊廟として、源満仲、源頼光、源頼信、源頼義、源義家を祀る。源氏の流れを汲む足利氏や、源氏を称した徳川氏も、多田神社を源氏霊廟と認めており、歴代将軍の遺骨を多田神社に分骨している。また、現在の社殿は、寛文年間に徳川家綱が再建したものであり、それ以前は天正5年(1577年)の津田信澄の手による焼失のため(有岡城の戦い)荒廃していたという。四月には、源満仲や源頼光、源頼信、源義家から源実朝までの歴代の源氏の武将の武者行列のある「源氏まつり」が盛大に行われ、巴御前や静御前らの女性は公募で選ばれた美女たちが扮する。源氏の霊廟の性格から、源氏の個々の武士ではなく、清和源氏の武士がほぼ全員登場するところが特徴。また、『平家物語』では鹿ケ谷の密告者として評判のよくない多田行綱も、当社の源氏まつりでは、源頼朝や源義経、源義仲などと同じく源氏の主要な武将の一人として馬上の武者行列に登場する。人気があるのは公募で選ばれた美女が扮する巴御前などの女性陣。
○文化財
重要文化財(国指定)
本殿 - 入母屋造、檜皮葺。寛文7年(1667年)の建立。
拝殿 - 入母屋造、檜皮葺。本殿と同時期の建立。
随神門 - 切妻造の三間一戸八脚門、本瓦葺。本殿と同時期の建立。
兵庫県指定有形文化財
南門 - 切妻造の三間一戸八脚門、本瓦葺。延宝4年(1676年)
東門・西門 - 切妻造の高麗門、本瓦葺。江戸時代初期の建立。
六社神社本殿 - 三間社流造(唐破風付き)、檜皮葺。江戸時代初期の建立。
厳島神社 - 一間社流造、檜皮葺。江戸時代初期の建立。
○アクセス
能勢電鉄 多田駅下車徒歩西へ15分
阪急バス川西バスターミナル又はJR川西池田から「多田神社前」下車 徒歩北へ2分
○拝観時間
拝観時間 : AM6:00-PM5:00/日・祝のみAM9:00-PM4:00(宝物殿)
○所在地
兵庫県川西市多田院多田所町1-1
○例祭:春季例大祭(4月10日)秋季例大祭(10月27日)
○主な神事:神幸式(4月第2日曜日)

小戸神社

小戸神社は、兵庫県川西市小戸に鎮座する神社。摂津国河辺郡の式内社。『特選神名牒』には「おべ」とあるが、現在は「おおべ」と呼ばれている。
○祭神
大山津見尊
素盞嗚命
天児屋根命
○歴史
『摂津名所図会』に「小戸村にあり。『延喜式(神名帳)』に出づ。小戸・栄根・小花等の産土神なり。土人、小部天神と称す」とあり、猪名川の西岸一帯の産土神として崇敬されていた。
明治6年(1873年)8月村社となる。
明治42年(1909年)八阪神社と細川姫神社を合祀。
昭和42年(1967年)本殿新築。
平成20年(2008年)修復。
○境内社
藤森神社 大月姫命
稲荷神社 白龍大神
鹿嶋神社 武甕槌神
○文化財
大楠 兵庫県指定天然記念物 (昭和41年3月22日指定) - 根回り約12メートル、樹高約30メートル、推定樹齢500年。
○交通
阪急宝塚本線川西能勢口駅下車、徒歩8分
○所在地
兵庫県川西市小戸1丁目13-17
○例祭
10月18日





鴨神社

鴨神社は、兵庫県川西市加茂にある神社。摂津国河辺郡の式内社.
○歴史
姓氏録にある摂津国神別の「鴨祝部」の祖神を祀ったもので、天明年間(1781年~1788年)の火災により記録は失われているが、宇多天皇の皇孫篠の君が奉納したと伝える白羽の矢一筋を所蔵している。
明治6年( 1873年)8月村社となる。
明治14年(1881年)2月郷社に昇格す。
昭和45年(1970年)社殿を新築。
○祭神
別雷神
○境内社
春日神社 手力雄命
天照皇大神社 日若宮尊
愛宕神社 天香具土神
多賀神社 大国主神
荒神社 天香具土神
熊野神社 伊弉諾尊
稲荷神社 大月姫命
八幡神社 応神天皇
松尾神社 八十神
○史跡
加茂遺跡 (国の史跡、平成12年7月31日指定)
旧石器・縄文時代から平安時代にかけての集落跡。出土遺物は川西市文化財資料館に展示。
○交通アクセス
西日本旅客鉄道福知山線川西池田駅下車、徒歩8分
○所在地
兵庫県川西市加茂1丁目4-2
○例祭
10月16日・7月31日(夏祭)



2012年1月11日水曜日

大阪城残念石

このあたりの山々では大坂城を築城するために大量の石が採取されていたという。別名=「残念石」。残念石とは、大坂城の石垣に選ばれながら、石垣になれなかった石のこと。運搬の途中に落ちてしまったりとか、なんらかの理由で大坂城に運ばれなかった石を、研究者たちはそう呼んでいる。実はこの残念石、大阪のあちこちで見かけられるが、石に残る大名の家紋やくさびの跡で見分けるのだとか。
住所 〒579-8001 大阪府東大阪市善根寺町6-6
アクセス JR学研都市線「住道駅」よりバスに乗り換え「善根寺北」下車 徒歩12分

2012年1月4日水曜日

中山寺

中山寺は、兵庫県宝塚市にある寺院。真言宗中山寺派大本山。山号は紫雲山。本尊は十一面観音。西国三十三箇所第24番札所。本尊は十一面観世音菩薩であり、インドの勝鬘夫人(しょうまんぶにん)の姿を写した三国伝来の尊像と伝えられる。左右の脇侍も十一面観世音菩薩で、本尊と脇侍をあわせて三十三面となり、西国観音を総摂すると共に法華経に説く観音の三十三権変化身を表象し、真の三十三所巡拝と同じ功徳がえられるという。普段は秘仏となっているが、毎月18日に開扉される。地元では「中山さん」と親しみを込めて呼ばれている。
○歴史
寺伝では聖徳太子が建立したとされる日本最初の観音霊場。「極楽中心仲山寺」と称されていた。現在の本堂(慶長8年・1603年再建)や阿弥陀堂は豊臣秀頼が片桐且元に命じて再建した。羅漢堂には約800体の羅漢像が並ぶ。安産祈願の霊場として皇室、源頼朝など武家、庶民より深く信仰を集めた。豊臣秀吉が祈願して豊臣秀頼を授かったとされる。また、幕末には中山一位局が明治天皇を出産する時に、安産祈願して無事出産したことから、日本唯一の明治天皇勅願所となり、安産の寺として知られる。中山という山が背後にあり、山麓にある中山寺奥之院には厄神明王がまつられ、本堂脇にある湧水は大悲水と呼ばれている。中山寺の境内からは18丁、徒歩50分程度で参拝する事ができる。毎月の戌の日は、安産祈祷会があり、安産を願い、また、鐘の緒(かねのお)(祈祷を受けた腹帯)の授与を求めて、日本各地から多くの参詣者が訪れる。
○文化財
・重要文化財(国指定)
木造十一面観音菩薩立像(本尊) - 平安時代前期
木造薬師如来坐像 - 平安時代後期
木造聖徳太子勝鬘経講讃坐像 附:経机、経巻、台座、礼盤(各木造) - 鎌倉時代~室町時代
木造大日如来坐像 - 平安時代後期
・兵庫県指定重要有形文化財
本堂 - 慶長8年(1603年)豊臣秀頼の命で片桐且元が再建
護摩堂 - 慶長8年再建
大門 - 天保3年(1646年)徳川家光の再建
木造十一面観音立像 2躯 - 鎌倉時代
・兵庫県指定史跡
白鳥塚古墳
・宝塚市指定文化財
木造薬師如来坐像
木造愛染明王坐像
鉄製吊燈籠
銅製鰐口
「豊国大明神」神号 - 豊臣秀頼筆
町石
星下り祭
○行事
8月9日の夜に西国三十三箇所の観音が星に乗って中山寺本堂に集まるとされ、星下り大会式が行われる。8月9日の夜には、梵天(御幣)が中山寺の塔頭に納められる。この8月9日に中山寺に参詣すると四万六千日参拝したのと同じ功徳があるとされる。
2月3日節分には、毎年宝塚歌劇団生徒を招いての追儺(ついな)豆まき式が行われる。
彼女たちが扮する観音様が三毒(貪(とん/むさぼり(欲張る心))・瞋(しん/いかり(怒る心))・痴(ち/おろか(迷う心)/人間の諸悪の根源である)の象徴・三匹の鬼をさとし、福・禄・寿に変身させるというショーが行われる。
 札所 [編集]西国三十三箇所第24番
摂津国八十八箇所第69番(大師堂)
摂津国八十八箇所第70番(納経所)
摂津国八十八箇所第71番(奥の院)
摂津国三十三ヶ所第1番
阪急沿線西国七福神(寿老神堂)
真言宗十八本山
聖徳太子御遺跡26番(開山堂)
近畿三十六不動尊霊場21番(護摩堂)
神仏霊場巡拝の道兵庫15番
御詠歌
野をもすぎ 里をもゆきて 中山の 寺へまいるは のちの世のため
群雲のかかる浮世の中山に 慈悲の光やひとり晴れゆく
○所在地・アクセス
〒665-8588 兵庫県宝塚市中山寺2丁目11番1号
阪急宝塚線 中山駅 下車すぐ
JR宝塚線 中山寺駅 徒歩15分















清荒神清澄寺

清荒神清澄寺は、兵庫県宝塚市にある真言三宝宗の寺院(大本山)。摂津国八十八箇所第72番。896年(寛平8年)に宇多天皇の勅願寺として静観僧正により建てられた。本尊は大日如来。鎮守社として三宝荒神社があり、竃の神の荒神などを祀る神仏習合から「清荒神清澄寺」の名称がある。本尊は大日如来で、国の重要文化財に指定されている。山内には画家富岡鉄斎の作品を集めた鉄斎美術館が1975年に設立された。
○信仰
近隣地域では、「荒神さん」と呼び慣わされ、かまど神の一種として、ここで受け取ったお札を台所の神棚に祀るなどの信仰が根付いている。門前の緩やかな坂道には、屋台を含め200近い店舗が軒を並べて門前町を形成している。
○境内
山門 - 1891年築
眷属堂 - 布袋尊安置
本堂(本堂・霊牌堂と練行堂) - 江戸時代末期築、本尊大日如来像、不動明王像、高祖弘法大師像、四天王像安置
天堂 - 三宝荒神王、大聖歓喜天、十一面観世音菩薩他安置
護法堂 - 大勝金剛転輪王(如来荒神)、歓喜童子、弁財天安置
護牛神堂 - 牛頭天王安置
宝稲荷社
一願地蔵尊
龍王堂
荒神影向の榊
火箸納所
右崖庵
練行堂
池苑 - 池泉回遊式庭園、江戸時代初期
聖光殿
龍王滝
眼神祠
宝蔵
鐘楼
庫裏
鉄斎美術館
○文化財
・重要文化財(国指定)
木造大日如来坐像
絹本着色千手観音菩薩像
絹本着色釈迦三尊像 - 良全筆
・宝塚市指定天然記念物
自然林
イチョウ
○所在地
〒665-0831兵庫県宝塚市米谷字清シ1番地
○交通
阪急宝塚線 清荒神駅 徒歩20分(駅前より山門まで、店舗と露店が約200軒並ぶ)
年末年始と1月の土日祝日は、宝塚駅・歌劇場前より阪急の臨時バスが参道入口(駐車場)まで運行。パークアンドライドのため。
駐車場:有り。ただし、大晦日から正月三が日と1月の土日祝日は交通規制がしかれ、周辺は車の乗り入れが出来ないので、宝塚駅近辺の駐車場を利用すること。
2009年2月からは、宝塚~清荒神駐車場まで、日曜祝休日に限り6往復運行。








売布神社

売布神社は、兵庫県宝塚市にある神社である。式内社で、旧社格は郷社。旧川辺郡米谷村(まいたにむら)の産土神。 正式には旧字体を用い「賣布神社」と記す
○祭神
下照姫神(高比売神)を主祭神とし、天稚彦神を配祀する。一帯は物部氏一族の若湯坐連(わかゆえのむらじ)が拠点としていた地であり、本来の祭神は若湯坐連の祖である意富売布連[1](おおめふのむらじ)と見られる。
○歴史
推古天皇18年(605年)の創建と伝える。下照姫神は当地の里人が飢えと寒さで困窮しているのを愁い、稲を植え麻を紡ぎ布を織ることを教え、その後豊かになった里人が下照姫神を祀ったという伝承が残る。 米谷村の由来もこの伝承にちなみ、米種(まいたね)か売布谷(めふたに)が転訛したといわれている。延喜式神名帳では小社に列格している。中世以降、貴布禰神社や貴布禰明神(貴船大明神)と称していたが、元文元年(1736年)、寺社奉行大岡忠相より地誌編纂を命じられた並河誠所の調査によって当社が式内・売布神社に比定され、以降は売布神社と称するようになった。明治6年(1873年)、郷社に列格した。
○社殿・境内
本殿は桧皮葺流造で、文化13年(1816年)の建立。兵庫県南部地震で被災、修復された。
末社は、豊玉神社、稲荷社、市杵島比売命(弁才天)。
○例祭
10月18日・19日に行われるだんじり祭は八坂神社(宝塚市清荒神)と共催で、米谷東(売布、米谷)、米谷西(清荒神)の2基の地車が宮入りする。
○文化財
1736年に立てられた「賣布社」の標石と、4,100m2の社叢が宝塚市文化財に指定されている。
○所在地・交通
兵庫県宝塚市売布山手町1-1
阪急宝塚線売布神社駅から徒歩5分





○例祭
10月19日

源立寺

源立寺は、大阪市池田市に所在する日蓮正宗の寺院だが、正信会僧侶が居住・占有している。山号は恵日山。
○起源と歴史
1583年(天正11年)2月15日 - 大石寺僧中納言日誉師により摂津国長柄に建立される。
1876年 大石寺とともに日蓮宗興門派(本門宗)の設立に参加。
1877年(明治10年) - 現在地に移転
1900年- 大石寺とともに本門宗を離脱し、日蓮宗富士派(日蓮正宗)の発足に参加。
1962年(昭和37年)2月15日 - 改築される。
1982年(昭和57年)2月5日 - 第25代住職が第67世法主日顕上人の法主としての地位を否定したため、日蓮正宗の宗制宗規に違背したことにより破門されたが、源立寺を占有し、居住している。
源立寺は日蓮正宗の末寺である。現住職(代表役員)も日蓮正宗の僧侶(豊中市の本教寺住職が兼務)である。また、総代(責任役員)も日蓮正宗の信徒であり、土地建物も源立寺の所有するところである。ただし裁判所の第25代住職の地位保全の決定によって、存命中は源立寺を占有することは認められているため、何らかの理由で退去しない限りは日蓮正宗は源立寺においては宗教活動をすることはできない状態である。
○所在地
大阪府池田市槻木町1-10


山本奥古墳群C支群

山本奥古墳群は長尾山丘陵に数多く築かれた古墳時代終わりごろの群集墳のひとつで、全体で28基ほどの古墳が確認されています。この群は7つのグループに分かれていますが、その1つのC支群は1987年にはkkつ調査を行い、11基からなるグループである事が分かりました。C支群の古墳は全て横穴式石室を持つ円墳で、規模の大きなものから小さなものへと順に作られていったようです。出土物としては棺に使われた鉄釘や支社に供えられた須恵器などが見つかっていますが、それらの特徴から古墳は7世紀の始頃に築かれたものと考えられます。群集墳はいくつかの家族の古墳が集まったものと言う事ができますが、古墳の規模が小さくなっていく事や、副葬品の量が少ないことなど、古墳時代の終り頃の様相を示しているといえるでしょう。調査終了後、一部に変更を加えたい害はおおむねもとの姿のまま、良く似た地形を持つ当地へ移築復元し、古墳のある後援として利用する事になりました。なお、この近隣の尾根には中期古墳である長尾山古墳も存在しています。
所在地:宝塚市山手台東1丁目4(長尾山古墳の東に数メートル)