2019年8月25日日曜日

松島遊廓

松島遊廓は、かつて大阪府大阪市西区にあった遊廓、赤線。松島新地とも呼ばれる。現在もちょんの間が存在する。
○概要
戦前と戦後で場所が異なる。戦前は現在の千代崎1・2丁目にあったが大阪大空襲で焼失。戦後は現在の本田2丁目・九条1丁目に場所を移して赤線として復活。1958年(昭和33年)の売春防止法施行以降、届出上は「料理店」となっているが、「仲居と客との自由恋愛」と称する行為が行なわれている。2018年時点で料金は30分16000円から、1日平均7人の客で、10万円ほどの売り上げが平均的であり、約8万平方メートルの敷地内に104店舗の「料理店」が存在する。
○歴史
旧広島藩士の有田徳一、新町遊廓の大垣屋、船場淀屋小路の侠客堤仁三郎が、木津川と尻無川 に挟まれた寺島の北部(現在の千代崎1・2丁目)への遊廓の開設を願い出て、大阪府知事渡辺昇より1868年(明治元年)2月に振興策として設置が許可された。 寺島の北端(現在の松島公園の北端あたり)に樹齢300年とも言われる松の大木があったことから、寺島の北端は「松が鼻」と呼ばれていた。「松島」の地名は、松が鼻と寺島の一字を取ったと言われている(『松島新地誌』松島新地組合・1958年)。寺島の木津川沿いは江戸時代から市街化され、木津川町、九条村町、寺島町が成立し、船大工の多い地域だった。その他は西成郡九条村字寺島の田地が広がっていた。翌1869年(明治2年)には上記の場所を統合して松島町が成立し、南隣の西成郡岩崎新田との境には堀川が開削され、松島遊廓が誕生した。遊廓の中心となる仲之町の目抜き通りには桜が植えられ、桜筋とも通称された。また、南端の花園町に遷座された大阪天満宮行宮の境内にも桜が植えられ、松島遊廓は桜の名所としても知られていた。このころの料金は、美醜に応じて、上等8銭、中等6銭、下等4銭に分けられていた。松島遊廓の誕生により、江戸時代から続いた新町遊廓は衰退の一途を辿ることとなり、1890年(明治23年)9月5日の大火(新町焼)で大半を焼失。一方、大阪市電第1期線の築港線(1903年開通)と第2期線の東西線(1908年開通)が松島経由で結ばれるなど、交通の便にも恵まれた松島遊廓は活況を呈した。花園橋西詰から西へ伸びる九条通(いわゆる九条新道)には商店街が発達し、昭和初期には心斎橋筋商店街に比肩するほどの賑わいを見せていた。
1869年(明治2年) 松島遊廓開設。『御免遊女街松島廓の園』によると、明治初期には遊女屋や茶屋など計270軒があり、松島橋と梅本橋に大門が設置され、東京の吉原に倣って奇麗壮観な目を驚かすような景観だった。
1871年(明治4年) 市内20ヶ所の遊所に対し茶屋渡世を禁じ、松島へ移住希望者のみ継続営業を許可する通達出される。
1872年(明治5年) 娼妓の性病検査治療のため松ガ鼻に駆黴院開設。町名を松島町・松島上之町・仲之町・高砂町・緑町・十返町(とがえりちょう)・花園町・月見町・雪見町の9町に改編。
1875年(明治8年) 大阪天満宮行宮が本田二番町より花園町へ遷座。
1876年(明治9年) 廃業者続出し一時廃れた。
1878年(明治11年) 西南戦争後の好景気により娼妓約1000人となる。
1879年(明治12年) 松島上之町を松島町に編入、緑町を高砂町に編入、月見町・雪見町を花園町に編入し、松島町・仲之町・高砂町・十返町・花園町の5町に改編。
1881年(明治14年) 清国女性を3名雇い入れる。
1883年(明治16年) 駆黴院が性病専門病院「府立難波病院」に刷新
1884年(明治17年) 松島事件(陸軍兵士と警察官の乱闘事件)が発生。
1894年(明治27年) 娼妓約3200人。
1900年(明治33年) 娼妓の自由廃業が認められた娼妓取締規則成立により約1000人が廃業
1916年(大正5年) 娼家計267軒、娼妓4103人を数え関西第一の遊廓となる
1926年(大正15年) 松島遊郭疑獄
1938年(昭和13年) 登楼時間が制限され、午前1時までとなる
1939年(昭和14年) 午後11時以降の歌舞音楽禁止
1940年(昭和15年) 貸座敷取締規制改正により昼間の登楼禁止となる
1945年(昭和20年) 大阪大空襲により全焼
1947年(昭和22年) 九条へ場所を移し、松島新地として営業再開
1948年(昭和23年) 三業(置屋・待合・料亭)分立の制度成る
1952年(昭和27年) 尻無川の上流区間(境川運河以北)埋立。
1958年(昭和33年) 売春防止法施行により廃止 - 以後、料亭街「松島料理組合」ということになっているが、料亭の仲居との自由恋愛との名目により営業形態はそれほど変わっていない。なお、大阪府は条例でソープランドを許可していない。
2012年(平成24年)3月 女性の訴えにより悪質なスカウトと売春強制を繰り返していた経営者らが逮捕された。
○交通
Osaka Metro中央線 九条駅下車
Osaka Metro長堀鶴見緑地線 ドーム前千代崎駅下車
阪神なんば線 九条駅、ドーム前駅下車
阪神高速道路16号大阪港線 九条出口、本田入口



2019年8月24日土曜日

八朔大祭2019

農家の節を祝う八朔祭とあわせて、道明寺天満宮で毎年9月1日(旧暦8月朔日)に奉納相撲が行われます。御本殿と土師社で執り行われる祭典は、道真公の遠祖天穂日命(あめのほひのみこと)を氏神として祭祀して以来、古記録にも残るほど古くから伝わる神事です。奉納相撲が行われるようになったのは、道真公の祖先に相撲の祖といわれる野見宿祢(のみのすくね)がいたことに由来するとされます。江戸時代より伝承されてきた奉納宮相撲が、現在は小学生による子供相撲大会として奉納され、青少年の加護を祈念するお祭りとなっています。
所在地:〒583-0012大阪府藤井寺市道明寺1-16-40
開催期間:2019年9月1日祭典/10:00~、奉納子供相撲大会/14:00~
交通アクセス:近鉄「道明寺駅」から徒歩3分
問合せ先:道明寺天満宮072-953-2525
http://www.domyojitenmangu.com/


2019年8月23日金曜日

百舌鳥八幡宮秋祭りふとん太鼓2019

豊作祈願を祝う風習が例祭となった「百舌鳥八幡宮秋祭り」が、仲秋の名月にあたる旧暦8月15日に行われます。旧暦8月15日に神社の祭典(神事)が執り行われ、この日に近い土日曜に「ふとん太鼓」が奉納されます。ふとん太鼓は、台座部には荘重な彫り物が、その上に積み重ねられた朱色のふとん部には、金縄や大小の房で華麗な装飾が施され、運行時には高さ約4m、重さ約3tとなります。氏子9町からそれぞれ大小1基ずつのふとん太鼓が奉納され、順に境内を練り歩きます。
所在地:〒591-8037大阪府堺市北区百舌鳥赤畑町5-706
開催期間:2019年9月14日~15日【14日】ふとん太鼓宮入/11:00~22:00【15日】ふとん太鼓宮出/9:30~22:00、放生祭(稚児行列)/11:05~11:30
交通アクセス:JR阪和線「百舌鳥駅」東出口から南東へ徒歩10分
問合せ先:百舌鳥八幡宮072-252-1089
http://www.mozu8.com/

2019年8月17日土曜日

お滝まつり2019

葛城修験の根本道場として知られる犬鳴山七宝滝寺で、毎年8月第4日曜に「お滝まつり」が開催されます。午前10時より行者ヶ滝のご宝前にて柴燈大護摩供が行われ、行者の指導のもとで一般希望者も滝行を受けることができます。この日の滝行は100日の滝行に値するといわれています。※滝行は全員がすみ次第終了です。
所在地:〒598-0023大阪府泉佐野市大木8
開催期間:2019年8月25日柴燈大護摩供/10:00、滝行/受付は11:00頃まで
開催場所:犬鳴山七宝滝寺
交通アクセス:JR阪和線「日根野駅」から南海バス約20分「犬鳴山」~徒歩25分
主催:犬鳴山七宝滝寺
料金:滝衣貸出/1人500円が必要
問合せ先:犬鳴山七宝滝寺072-459-7101
http://www.inunakisan.jp/

2019年8月8日木曜日

大阪市立愛日小学校

大阪市立愛日小学校は、かつて大阪府大阪市中央区(旧東区)北浜四丁目にあった公立小学校。
○概要
御堂筋に面しビジネス街の真ん中にあった。しかし都心部の夜間人口減少により1990年4月に大阪市立集英小学校と統合され大阪市立開平小学校となった。1990年3月をもって閉校となった。 1929年に竣工した校舎は、建築家・横浜勉が設計を担当した。閉校後しばらくは旧校舎に大阪市の関連施設が、校庭は市営今橋駐車場が入居していたが、旧校舎は2005年に解体された。跡地には、「淀屋橋地区第一種市街地再開発事業」として2008年3月に事務所及び商業施設(淀屋橋odona)の多目的高層ビル(三井住友海上大阪淀屋橋ビル、淀屋橋三井ビルディング)が建設された。 校名は古典文献の一節に由来しているといわれるが、どの文献から採用したのかという正確な出典については複数説が提示されているためはっきりしていない。校名を決定する際、当時の東区は地名から校名を付けるのが望ましいと指導したが、学校関係者は地域に愛珠幼稚園があることなどを理由として、「愛」の字をとった「愛日」の校名を強く主張して認められたという話が伝えられている。また学校の閉校記念誌によると、明治時代初期に社会教育や社会見学を初めておこなった学校と記されている。
○沿革
山片蟠桃の屋敷跡が学校敷地である。1872年8月、「升屋」八代当主山片重明は小学校設立のため、大阪北浜にある自らの邸宅を、土地、家屋、建具ごと学校に寄贈した。この中に、山片家旧蔵の書籍類があり、山片重賢・重芳らの収集した書籍、山片蟠桃の学問上の研究書、山片重賢・重芳らの収集した書籍、山片蟠桃の学問上の研究書、蟠桃が仙台藩主や白川藩主松平定信から拝領した貴重書の数々も小学校に寄贈された。昭和時代に入り、1940年代前半の大阪市は中等学校の入試難を緩和するための方策として中等学校の増設を図った。この際、既存の小学校(国民学校)を近隣校へ統廃合して、空いた校舎を転用することで中等学校を新設する方法をとった。その一環として、1942年に船場国民学校校舎を転用して大阪市立船場高等女学校(戦後大阪市立東高等学校に統合されて廃校)を設置した。これにより、船場国民学校は愛日国民学校に統合された。また太平洋戦争終戦直後には、戦災被災により久宝小学校を統合している。1970年代頃から児童数の減少傾向が目立つようになり、同様に児童数減少が目立っていた大阪市立集英小学校との統合の話が持ち上がった。大阪市教育委員会や両校の学校・地域関係者らが折衝を進め、1989年9月に大阪市教育委員会から2校の統合が正式発表された。統合で開平小学校が設置されたことに伴い、愛日小学校は1990年3月に閉校となった。
○年表
1872年8月1日-東大組第十三区小学校として創立。
1872年9月12日-大阪府の巡講師が学校を訪問し、地域住民向けの講話をおこなう(学校記念誌では社会教育の始まりとされている)。
1872年10月17日-ロシア皇子来阪。宿舎の北御堂が西洋人宿舎として一般公開されたことに伴い、学校として見学をおこなう(学校記念誌では社会見学の始まりとされている)。
1879年2月-東区公立北浜小学校と改称。
1886年7月-東区道修小学校と合併。東区愛日小学校と改称。
1889年10月-大阪市の市制施行により、大阪市愛日尋常小学校と改称。
1923年4月-高等科を併設。大阪市愛日尋常高等小学校と改称。
1928年4月-高等科を廃止。大阪市愛日尋常小学校と改称。
1928年5月24日-木造校舎を取り壊す。解体された校舎は黒山高等実践女学校(のちの大阪府立登美丘高等学校)へ移築。
1941年4月1日-国民学校令により、大阪市愛日国民学校と改称。
1942年4月1日-大阪市船場国民学校を合併。
1944年8月31日-滋賀県蒲生郡朝日野村・桜川村(いずれも現在の東近江市)へ集団疎開。
1945年3月14日-大阪大空襲により、この日に予定されていた卒業式は中止。
1945年4月1日-学校での授業を停止。
1945年9月1日-学校での授業を再開。
1946年4月1日-戦災に伴い、大阪市久宝国民学校を合併。
1947年4月1日-学制改革により、大阪市立愛日小学校と改称。
1958年2月5日-インドネシア大統領スカルノが当校を視察。
1959年-講堂の建て替え。解体された旧講堂は大阪市立茨田中学校へ移築。
1976年12月-「当校敷地が大阪市役所第二庁舎の候補地となった」と一部新聞が報道(数日後誤報と判明)。
1980年4月15日-大阪市教育委員会から算数科の研究校に指定される(1981年度までの2年間)。
1989年9月28日-大阪市教育委員会、愛日・集英2小学校の統合を正式発表。
1990年3月24日-閉校式を実施。
1990年3月31日-閉校。
2005年-校舎解体
2008年3月-跡地に建設された再開発ビルが竣工(淀屋橋odona, 三井住友海上大阪淀屋橋ビル, 淀屋橋三井ビルディング)
○所在地
大阪府大阪市中央区北浜四丁目3番8号







加島屋本家跡

江戸時代に活躍した大坂の豪商・加島屋。 広岡姓の久右衛門家と長田姓の作兵衛家の2系統があった。 久右衛門家は、大坂御堂前で米問屋・両替商をはじめ、後に十人両替に任命された。明治時代、政府に対して援助を行い、加島銀行を設立したが世界恐慌により廃業。作兵衛家は、大坂で米仲買として玉水町に店を構え、肥後藩蔵元掛屋、宇和島藩紙方蔵元掛屋を勤めた。大川町に移転後、諸藩に貸付を行い、万延御用銀は鴻池、玉水町加島屋とともに最高額3000貫目を引き受けた。明治時代、政府に対して財政的な援助を行ったが、陸軍省預り金の即時上納を命ぜられ、果たすことができず、倒産・閉店。

所在地:大阪府大阪市西区江戸堀1-2-1大同生命大阪本社ビル





旧安田邸

この安田邸は、アメリカの有名な建築家ウィリアム・メレル・ヴォ―リスの設計だそうです。花屋敷駅のすぐ横にあるお屋敷、旧安田邸です。1921年(大正10年)製。もと所有者の安田辰治郎さんが海外から帰国後、その印象をもとに 設計されたそうです。とてもモダンな建物。現在は宝塚市所有なのだそうですが、使われていないので痛んでいくのが早そうです。
住所:兵庫県宝塚市雲雀ケ丘1丁目2-26




ギャラリーRERUN

阪急山本駅から東へ進む線路沿いにある建物。大正時代から昭和初期まで神戸銀行として使われていた建物をリノベーションし現在陶芸ギャラリー&陶芸工房として使われている。
住所:〒665-0883兵庫県宝塚市山本中1-10-21






市杵島姫神社

〇御鎮座地
当神社は、宝塚市の中心部に近い、中山寺(地名)の住宅地の中に鎮座されております。大本山・中山寺のすぐ近くで、山門の前の道を西に200mのヤマモモなどの鎮守の森の囲まれています。
〇御由緒
当社の創建は、慶長八年(1603)三月と伝えられているそうです。御祭神の市杵島姫命(いちきんえしまひめのみこと)は、安芸の宮島・厳島神社や京都の松尾大社の御祭神でもありますが、どこから勧請されたかは不詳のようです。

住所:兵庫県宝塚市中山寺2-11-21
最寄り駅:中山観音駅[北出口]から徒歩約4分







葱生城

葱生城は大阪府大阪市旭区生江にあった城である。荒生城とも書く。
【遺構】
淀川南岸、城北公園の東側にあったとされるが、淀川の氾濫による度重なる洪水や宅地化により現在はその遺構を確認することはできない。かつて大字「荒生(なぎ)」の東方に古城があったと伝承され(『顕パ』)、同地に建つ常宣寺(大阪市旭区生江3-27-18)には大阪市顕彰史跡第209号として、門前に史跡パネルが設置されている。
【歴史】
『信長公記』によると、元亀元年(1570)から天正8年(1580)までおよそ10年間をかけて行われた石山本願寺と織田信長との「石山合戦」で、本願寺方が石山本願寺を中心に51に及ぶ出城を構築したとされ、葱生城もその中の1つであるという。推定地とされる常宣寺の創建は応永4年(1397)に遡り、室町時代中期には蓮如(本願寺第8世)が立ち寄り近郷に教化伝道したと伝えられることから、同地が石山合戦以前から本願寺と強い結びつきを持っていたことが窺われる。
所在地:大阪市旭区生江3-27-18







西船場小学校創設之地

明治5年(1972)大阪市立西船場小学校の前身である玉水小学校・西大組一番小学校が創設され、統合変遷を繰り返し昭和22年(1947)大阪市立西船場小学校と改称。現在は西区江戸堀1丁目21-28に所在。
所在地:大阪府大阪市西区江戸堀1丁目21-28