2012年10月31日水曜日

銅鐸出土地

昭和41年、如意谷団地造成現場で、近くに住む本城寿男氏がブルトーザーによって一部破損した銅鐸を発見した。この発見によって、銅鐸は人為的に埋められたものであることが初めて明らかになり、如意谷銅鐸は全国的に有名になった。4世紀頃に猪名川流域に展開していた為奈物部氏が埋納者であろうと考えられている。
所在地:箕面市如意谷3丁目


金竜寺


永正16年(1519)の創建と伝える浄土真宗の寺。元禄年間から、境内に雌雄一対のナギの大木があったが、現在は実生の若木が育っている。
所在地:箕面市桜5丁目6-21

郷倉と力石





牧の荘4か村を所領した旗本青木氏の年貢収納倉(郷倉と云う)がここにあった。前に置かれた力石は、年貢を納めに来た若者たちが力比べのために持ち上げた石。4斗、5斗、6斗の3つの石がある。(1斗は15kg)
所在地:箕面市牧落2丁目-14

教学寺

浄土真宗の寺で、天文年間に始まった俗道場が、江戸時代の元禄2年(1689)に寺になったものである。明治時代の中頃、住職の子息三島海雲氏が中国で教師として勤務中、蒙古人から乳酸飲料カルピスの製法を学び、大正8年帰国後、東京にカルピス製造会社を設立した。いま境内には顕彰碑が立てられている。
所在地:箕面市稲2丁6-15
072-723-4192


牛回し塔

牛回しは牛が病気に罹らないように、昭和10年代まで農村で行われていた習俗で、農耕作業の始まる春先に、特定の樹木や石の回りを牛を牽いて回るもの。ここ半町では大威徳明王と刻まれた笠塔婆で牛回しをした。大威徳明王は五大明王の一つで、牛に乗り西方を守護する明王である。
所在地:箕面市半町2丁目

 

安養寺

浄土真宗(本願寺派)の寺院である。
天文3(1534)年看風直大夫が、本願寺10代証如に帰依し、浄名と法号して創建されました。享保2(1717)年消失しましたが、同6(1721)年に再建され現在に至っています。康雲作の本尊阿弥陀如来立像を始め、聖徳太子、親鸞・蓮如上人画像等の貴重な文化財が伝え残されています。
大阪府箕面市牧落2-11-10



素盞鳴尊神社

祇園の神で防疫神である牛頭天王を祀り、粟生天王社と称していたが、明治初期の神仏分離によって素盞鳴尊神社と改名したものである。大正7年、神社統合において、この社が粟生村の総社とされ、粟生村内の全ての神社がここに統合されたが、戦後それらは再び元の場所に戻った。参道脇に愛宕社がある。平安時代にここにあった菩提寺との関係は明らかでない。境内はコジイ・ヤマモモなどの保護樹林である。
所在地:箕面市粟生間谷西





豊川稲荷大阪別院

豊川稲荷大阪別院は、大阪市天王寺区にある曹洞宗の寺院である。正式な寺号は観音寺。豊川稲荷 妙厳寺(愛知県豊川市)の別院である。
○沿革
明治31年(1898年)、付近の地主であった萩田利平が、当時大阪市内としては辺鄙なこの地を発展させようと、豊川稲荷から枳尼天を勧請し、稲荷堂を建立したのを始まりとする。その後、明治38年頃に、妙厳寺では末寺の観音寺を当地に移転し、妙厳寺住職の嘉硯黙童を開山として、正式な寺院として大阪別院を発足したといわれる。2代目住職までは、妙厳寺から派遣された院代がその職務に当たっていた。商売繁盛の神として、商業都市大阪の個人商店主から多くの信仰を集めているが、代替わりにより、その様相にも変化が見られるという。
○勤行次第
豊川稲荷は信者のための「勤行次第」(お経本)を発行していないが、大阪別院では、明治41年(1908年)に勤行次第が一千部ほど施本された。内容は、妙厳寺を創建した東海義易が定めた?枳尼天への勤行作法を、在家用に改めたものとなっている。
○境内
・本殿
2階建てになっており、1階は本尊の十一面観音を祀る本堂で、2階が枳尼天を祀る稲荷本殿となっている。2階本殿へは外部階段を上り直接行くことができる(下記リンク先参照)。
・奥の院
本殿の横にある奥の院には、平八郎稲荷が祀られる。平八郎は東海義易に仕えた狐で、枳尼天の食事の世話をする稲荷という[2]。
○堂ヶ芝廃寺
古代の瓦片が多数出土し、飛鳥時代の寺院跡と推定されている。渡来人の百済王氏の氏寺の百済寺ではないかと比定されている。
○交通
JR環状線 桃谷駅より徒歩3分



○所在地
大阪市天王寺区堂ケ芝1-5-19

庚申塔

庚申塔は、庚申塚ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる。庚申講(庚申待ち)とは、人間の体内にいるという三尸虫という虫が、寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、庚申の日に夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習である。庚申塔の石形や彫られる仏像、神像、文字などはさまざまであるが、申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多い。仏教では、庚申の本尊は青面金剛とされるため、青面金剛が彫られることもある。神道では猿田彦神とされ、猿田彦神が彫られることもある。また、庚申塔には街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多い。さらに、塞神として建立されることもあり、村の境目に建立されることもあった。庚申塔は沖縄を除く全国で分布が確認されているが、地域によって建立数に差が見られる。 例えば関東地方では数多く建立されているが、日本における庚申信仰の中心的な寺社がある京都や大阪など関西では比較的に見て庚申塔の建立は少ない傾向がある。確認されている現存最古の庚申塔は埼玉県にある庚申板碑で文明3年(1471)であり、当初は板碑や石幢などが多い。青面金剛刻像は福井県にある正保4年(1647)が現存最古とされている。なお、奈良東大寺所有の木像青面金剛は鎌倉時代の作とされている。
○歴史
庚申塔の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期(寛永期以降)頃からである。以降、近世を通して多数の庚申塔が建てられた。当初は青面金剛や三猿像のほか、阿弥陀、地蔵など主尊が定まっていない時期を経て、徐々に青面金剛像が主尊の主流となった。その後、江戸中期から後期にかけて「庚申塔」あるいは「庚申」と文字のみ彫り付ける形式が増加する。明治時代になると、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に置かれたものを中心にその撤去を進めた。さらに高度経済成長期以降に行われた街道の拡張整備工事によって残存した庚申塔のほとんどが撤去や移転されることになった。現在、残存する庚申塔の多くは寺社の境内や私有地に移転されたものや、もともと交通量の少ない街道脇に置かれていたため開発による破壊を免れたものである。田舎町へ行くと、今でも道の交差している箇所や村落の入り口などに、「庚申」と彫られた石塔を全国で見ることができる。

細工谷遺跡

難波宮跡の東南に位置する遺跡で、1996年に発掘されました。全国初の発見となった和同開珎の枝銭は、日本最古の貨幣を製造する過程で使われたもの。「百済尼寺」と記された墨書土器や瓦、金属加工に関連した遺物や7世紀末の通貨富本銭、尼の父の名前を記した木簡など、飛鳥時代から奈良時代を中心とするさまざまな資料が見つかっています。細工谷遺跡からの出土で存在が浮かび上がった古代寺院は、難波宮の南側に点在しており、条坊制が敷かれた難波宮の栄華を偲ばせます。条坊制とは南北の大路と東西の大路を碁盤の目状に組み合わせた都市計画を指します。現地で自由に見学できるのは、出土品の一部の説明と小さな北向地蔵尊のみ。専門家の手引きによる不定期の見学会も開かれています。
〒543-0032大阪市天王寺区細工谷1

2012年10月28日日曜日

三戸街道

三戸街道は、青森県八戸市から、同県三戸郡三戸町に至る街道。
○概要
幕政時代、八戸城惣門から新荒町、福地村、藩境の六枚橋(青森県南部町)を経て、奥州街道三戸宿へ至る南部藩(盛岡藩・八戸藩)の脇街道
○伝馬継所
八戸城下 八日町
三戸宿 (青森県三戸郡三戸町)

志那街道

志那街道は、近江国を通る中山道の枝道の一つ。比叡山道とも。中山道・守山宿南端~志那港(現草津市志那)の約7kmをいう。琵琶湖対岸の坂本までの約3.5kmを含む場合もある。比叡山に物資を輸送する経路として主に中世に栄えた。織田信長による比叡山焼き討ち後は徐々に廃れ、江戸時代初期には琵琶湖対岸への渡航経路の中心が矢橋港へ向かう矢橋道に移り衰えた。周辺には現在も文化財が多い。
○経路(通過する集落)
守山宿(野洲郡)→金森→大門(栗太郡)→長束→片岡→志那中→志那
○周辺の文化財
蓮海寺(志那港跡)-木造地蔵菩薩像(重要文化財)
宗鑑屋敷跡-山崎宗鑑の屋敷跡。
志那神社-本殿(重要文化財)、木造普賢菩薩坐像(市指定有形文化財)
三大神社-石灯籠(重要文化財)
印岐志呂神社-本殿(市指定有形文化財)
芦浦観音寺(国の史跡)-阿弥陀堂・書院(重要文化財)
金森御坊-懸所宝塔(重要文化財)

初瀬街道

初瀬街道は奈良県桜井市の初瀬と三重県松阪市の六軒を結ぶ街道。現在の桜井市、宇陀市、名張市、伊賀市、津市、松阪市を通る。現在は国道165号が初瀬街道と呼ばれることがある。
○成り立ち・歴史
古代からの道で壬申の乱の際、大海人皇子(天武天皇)が通った道でもある。また江戸時代には国文学者である本居宣長も歩いており、その様子は彼の著書である菅笠日記に記されている。

新井田街道

新井田街道とは、青森県八戸市と岩手県九戸郡洋野町を結ぶ街道。別称 浜街道。
○概要
藩政時代、八戸城下から新井田(八戸市)を経由して、九戸郡種市村へ至る八戸藩の脇街道。
○宿場・伝馬継所
八戸城下
新井田
道仏
種市

成田街道

成田街道は、江戸時代には水戸街道新宿から分岐して佐倉藩や成田山新勝寺に向かう街道であり、現在は千葉県道路愛称名により国道296号の船橋市前原西の中野木交差点~印旛郡酒々井町下台と、国道51号の酒々井町下台~成田市寺台の寺台インターチェンジを指し示す。ただし、この成田街道は江戸時代後期に成田山参詣が盛んになってからの愛称であり、江戸幕府の公式文書では「佐倉街道」(江戸城と譜代の大藩佐倉藩を結ぶ街道の意味)と呼称されていた事に注意を必要とする。このほか、水戸街道我孫子宿から分岐して利根川沿いに成田へ向かう道も同名で呼ばれた。現在は国道356号の一部となっている。
○宿場
市川宿(千葉県市川市)
八幡宿(市川市)
船橋宿(船橋市)
大和田宿(八千代市)
臼井宿(佐倉市)
酒々井宿(酒々井町)
寺台宿(成田市)

仙北街道

仙北街道は、奥州街道水沢宿(岩手県奥州市水沢区)からと秋田県の仙北地方(横手方面)を結ぶ街道。
○概要
奥州街道から水沢(仙台藩)で分かれて、奥羽山脈を越えた後、秋田の仙北三郡に達する道で、秋田側では「手倉越え」「仙北道」、伊達領に通じる道であるから、「せんだい道」「みずさわ道」などと呼んだ。
岩手県奥州市胆沢区下嵐江(オロセ)と秋田県雄勝郡東成瀬村手倉を結ぶ古道は栗駒山・栃ケ森森林生態系保護地域を貫通し、大部分がブナ原生林の中にある。現在もなお開発から逃れて、ほぼ昔のまま現存している。
○宿場・番所
市野々(岩手県奥州市)
市野々番所
下嵐江(岩手県奥州市)
○峠
柏峠(奥州市胆沢区)
十里峠(奥州市胆沢区-東成瀬村)

千葉街道

千葉街道は、国道14号(現道)の東京都通称道路名および千葉県道路愛称名である。かつては、船橋の成田街道の分岐点から千葉までの街道で、江戸時代には「房総往還」や「上総道」、「江戸道」などとも呼ばれていた。
○概要
起点から千葉県千葉市の幕張IC間での区間は、国土交通大臣による指定区間外区間であり、東京都・千葉県の管理となっている。

大槌街道

大槌街道は、岩手県盛岡市から同県遠野市を抜け、同県上閉伊郡大槌町を結ぶ街道
○概要
藩政時代、盛岡城下から閉伊郡横田村を抜け、界木峠を越えて閉伊郡大槌村の大槌代官所へ達する街道。
○宿場
大迫宿(岩手県稗貫郡大迫町)
遠野宿(岩手県遠野市)
和山
大槌宿
○峠
界木峠

谷街道

谷街道とは、信濃国稲荷山(長野県千曲市)を起点として、千曲川東岸を北上して信濃国飯山(長野県飯山市)に至る街道。江戸時代の宿駅制度の街道、往来ではないため、宿駅も定まっていない。
○概要
北国西街道最大の宿場町稲荷山宿から分岐して千曲川を渡り、対岸の北国街道屋代宿から松代藩・須坂藩・天領(小布施・中野)を経由して飯山藩に至り、越後へと向かう十日町街道に合流する。屋代宿から川田宿までは北国街道の脇道である松代道と重なる。現在、千曲市(稲荷山)から中野市までは国道403号が踏襲しており、旧稲荷山宿にある起点の標識(稲荷山郵便局前)には、「しなの浪漫街道」と表記されている。
○代表的な宿
稲荷山宿(長野県千曲市)
屋代宿(長野県千曲市)
松代宿(長野県長野市)
川田宿(長野県長野市)
須坂宿(長野県須坂市)
小布施宿(長野県上高井郡小布施町)
中野宿(長野県中野市)
飯山宿(長野県飯山市)

中国街道

中国街道は、近畿地方に存在した街道である。別名は中国路、浜街道。大坂と西宮を結び、西国街道と合流している。なお、西国街道(京?下関)のことを中国街道・中国路と称することもある。
○歴史
記録を遡れるのは、中世までであるが、近世になると、大坂と西国との物資の流通の要となる。往時の街道沿線には、要所要所に道標が設置されていた。現在では、区画整理の結果、その街道筋を忠実に辿ることは困難になっている。しかし今でも、それら道標のうち幾つかが土中から発掘されるなどして、往時の姿を偲ばせている。大名行列が通ることもあった。
○沿線
神崎川の渡し
遊女塚-尼崎市神崎。梅ヶ枝公園。
残念さんの墓-尼崎市大物。大物公園。
大物主神社-尼崎市大物。
大物崩れ戦跡
琴浦神社-尼崎市琴浦町。
雉ガ坂伝承地-尼崎市大庄西町。
岡太神社-西宮市小松。
鳴尾の孤松-西宮市里中町。
長蘆寺-西宮市鳴尾町。

田宮街道

田宮街道は、徳島県徳島市を通る徳島県道30号徳島鴨島線沿えにある街道で主に北田宮及び南田宮沿いを指す。
○概要
徳島市加茂地区の中心を通る徳島県道30号徳島鴨島線沿いにある街道で、1982年(昭和57年)に開通した。新町川上流部に架かる吉野橋から鮎喰川下流部に架かる中鮎喰橋までを田宮街道と称する。近年では拡張工事が行われ、商業施設や飲食店でせめぎ合い、都市化が進んでいる。また街道界隈は徳島県立城ノ内高等学校や徳島県立城北高等学校等、教育施設も多く存在する。なお江戸時代にも同名の街道があり、徳島城下の出来島から新町川を渡り、田宮村や矢三村を経て今切村で大麻街道に接続していた。

田名部街道

田名部街道とは、青森県上北郡野辺地町から同県むつ市を結ぶ街道。
○概要
藩政時代、奥州街道野辺地宿から北郡横浜村を経由して、北郡田名部村へ至る盛岡藩の脇街道。「大道筋(奥州之内南部領海陸道規帳)」(慶安2年(1649年))において、陸奥湾の内海に面した海岸道「入海辺道」と記述されている。

2012年10月27日土曜日

南部街道

南部街道は、岩手県遠野市から同県気仙郡に至る街道。
○概要
「葛西領内地図」に記載されている。建武 2年(1335年)頃からの、遠野南部から海岸に通じる古道。 閉伊郡横田村(現 遠野市)から青笹-上郷平倉-赤羽根峠を経由して、葛西領(のちの伊達領)に至る街道。
○別称としての南部道
藩政時代の久保田(秋田)藩と隣藩 盛岡藩を結ぶ脇街道の秋田側の総称。盛岡藩が南部藩と呼ばれたことに由来する。

湯の山街道

湯の山街道は、兵庫県三木市から湯の山(有馬温泉)へいたる街道の通称である。
○概要
16世紀に羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、別所長治との戦い(三木合戦)の際に、三木を拠点に現在の神戸市北区にある有馬温泉(湯の山)へ何度か作戦行動を起こし、往来した。戦による負傷者の湯治のためにもしばしば利用された道である。以来この名称で呼ばれるようになる。江戸時代に至っては、参勤交代にも利用され、有馬温泉への湯治客の利用も多かった。現在も三木市内をはじめ、宿場町の面影を残す町並みがわずかながら各地に残されている。特に三木には、現在も当時の雰囲気を色濃く残す町並みが残され、中二階建ての切妻造り商家や宿場町の特徴にひとつである枡形なども残されている。江戸時代には大きな陣屋も存在し、参勤交代に利用されたという。

土呂西尾道

土呂西尾道とは、愛知県岡崎市から同県西尾市に至る道路の通称名である。土呂街道とも呼ばれる。
○概要
平坂街道と関連の深かった土呂西尾道は、熊味で平坂街道から分かれ、八ツ面山の北麓を迂回して、矢作古川に架かる小島橋を渡って小島に入り、米野・中島を経て、土呂に達し、さらに岡崎に通じていた。大正時代は、「平坂湊」に荷揚げされた石炭・魚肥・豆粕・材木などが馬車・牛車に積載され、土呂西尾道を通って、中島・土呂・岡崎方面へ多量の荷物が運搬された。岡崎方面からは、主に木炭・割木・米・石材などが積み込まれ、平坂湊に運ばれた。夏季には足助・松平方面から天然氷が運ばれた。
○吉良道との重複
福岡町から中島町までの区間で「吉良道」と道筋が重複している。吉良道は中島町から南へ、上永良町方向に分岐している。

沢内街道

沢内街道は、盛岡藩領内から陸奥国和賀郡沢内村(現 岩手県和賀郡西和賀町)を目的地とする街道の総称。
○概要
「正法年譜住山記」天文八年(1539年)条に「此年沢内の道同菩提坂の路造直す也」とあり、雫石盆地と沢内盆地を結ぶ街道。 秋田街道の雫石から寛文9年まで鶯宿から切留を通り、長橋峠(490m)を越え長橋川沿えに貝沢(沢内村)に入っていたが、その後山伏峠を越える道が開かれた。 現存の岩手県道・秋田県道1号盛岡横手線は沢内街道を基に整備された。また、花巻から岩崎までの道筋を岩崎街道と呼び、その西から湯田を通って沢内に至る道も目的地の地名をとって、沢内街道と呼ばれ、江戸からの諸物資が陸奥街道から花巻-岩崎-煤孫-瀬畑-岩沢-和賀仙人峠-川尻-越中畑-白木峠を超えて山内村(現横手市)へと至り、この街道を経由して秋田側に搬入されたこともあり、秋田領からは南部道と呼ばれていた、奥羽と連絡する繋要路線であった。

問屋場

問屋場は、江戸時代の街道の宿場で人馬の継立、助郷賦課などの業務を行うところで、駅亭、伝馬所、馬締ともいった(本項の語意に於ける「問屋」とは、運送業を意味する)。業務の主宰者は問屋と称され、その助役の年寄、さらに人馬の出入りや賃銭などを記入する帳付、人馬に荷物を振り分ける馬指などの者がいた。通常の時は交代で出勤するが、大名行列などの大通行があるときは全員が詰めることになっていた。1868年7月27日(明治元年6月8日)、明治政府は問屋場を伝馬所、責任者を取締役(1駅あたり定員2名)と改めた。その後、1870年4月9日(明治3年3月9日)に取締役が廃止されて伝馬所は官(駅逓司)の管轄下に置かれ、1872年(明治5年)に伝馬所を含めた宿駅制度そのものが廃止された。
○現存している問屋場
甲州街道府中宿→中久本店(東京都府中市)
中山道奈良井宿→上問屋史料館(長野県木曽郡楢川村)
中山道醒井宿→旧醒井宿問屋場(滋賀県米原市)

摂丹街道

摂丹街道は、摂津国と丹波国(現在の大阪府池田市 - 京都府亀岡市)を結ぶ街道。摂津国・能勢郡側は余野までは余野街道、丹波国側は池田街道の別名がある。近代以前は「池田道」「亀岡道」などと呼ばれた。ほとんどの区間が道路拡張工事などで整備され、旧街道の面影はほとんど残っておらず、沿線の所々に残されている道標がかつての旧街道の面影となっている。大阪府・京都府境の街道脇に昭和9年に京都府が設置した府境標が残っている。区間の大半が国道423号に指定されており、亀岡市内においては国道372号の一部区間が含まれる。
○起点・終点
起点:大阪府池田市木部町 (能勢街道(国道173号)交点)
終点:京都府亀岡市安町 (旧山陰道(府道王子並河線)交点)
○通過市町村
池田市-箕面市-豊能町-亀岡市
○主な経由地
木部町(国道173号・能勢街道との交点)
中川原町
伏尾
止々呂美
豊能町役場
余野
柚原
加塚(国道9号・山陰街道との交点)

人見街道

人見街道は、東京都府中市と杉並区大宮の大宮八幡神社を結ぶ、古くからの街道である。別名「大宮街道」、「下総街道」。
○起点と終点
東京都通称道路名設定公告(整理番号98)によれば、人見街道の起点は杉並区浜田山三丁目の浜田山駅入口交差点、終点は府中市若松町四丁目であり、東京都道14号新宿国立線の杉並区浜田山 - 三鷹市牟礼の区間と東京都道110号府中三鷹線の終点 - 府中市若松町四丁目がこれに該当する。杉並区浜田山三丁目以東杉並区道であり、「八幡通り」と表示されている。府中市若松町四丁目以西は府中市道となって、旧甲州街道に至るのが本来であるが、一部は航空自衛隊府中基地となっていて通行できない。
○由来
人見街道の名は、「人見村」を通って府中へ至る道であった説、府中市の北東部の地名「人見」ないし、その地域の一族「人見氏」に由来すると言われるが、さらに人見の北にある浅間山の別名が人見山であって、それが由来であるとする説もある。

登り街道

登り街道は、青森県八戸市から、岩手県二戸市に至る街道。
○概要
幕政時代、八戸城惣門から上組町を西へ、市野沢、観音林(かんのんばやし)を経て、奥州街道の堀野で合流して盛岡藩領福岡宿へ至る南部藩(盛岡藩・八戸藩)の脇街道八戸藩からは参勤交代路として使用されたため、「上り街道(のぼりかいどう)」、「江戸街道」とも呼ばれ、盛岡藩からは、目的地の地名をとって「八戸街道」と呼ばれた。参勤交代時には一日で通過する距離であったため宿場は置かずに、観音林に八戸藩主が小休止する御仮屋が置かれた。
○伝馬継所
市野沢(青森県八戸市南郷区)
観音林(岩手県九戸郡軽米町晴山?)
○一里塚
小峠(青森県八戸市?)
十文字(青森県八戸市?)県史跡
市野沢(青森県八戸市?)
大森(青森県八戸市?)
晴山(岩手県九戸郡軽米町?)
観音林(岩手県九戸郡軽米町?)
仁左平本新田(岩手県二戸市?)
堀野(岩手県二戸市?)
○峠
猿越峠(二戸市-軽米町)

小仏関所

小仏関所は、武蔵国と相模国の間に設けられた甲州街道のかつての関所である。現在の東京都八王子市にある。天和年間(1681年 - 1683年)に付近より現在地に移された。その跡地は、国の史跡に指定されている。八王子八十八景のひとつ。
○沿革
戦国時代に、北条氏照が小仏峠に設置した。富士見関所とも呼ばれた。 その後、1580年に小仏峠から、東側の駒木野の地に移された。そのため駒木野関所と呼ばれることもある。後北条氏の滅亡や、徳川幕府の五街道整備などを経て、1616年現在地に移る。八王子千人同心や関東十八代官の手代らが交代で務めていた。1869年(明治2年)の太政官布告により他の関所とともに廃止された。
○史跡指定
明治維新後に撤廃された関所であるが、現在も道路に接し、石垣などの遺構もあり、後世にのこす遺跡として保存すべき必要があるとして、1928年(昭和3年)1月18日に国の史跡に指定された。史跡管理団体は八王子市である。
○所在地
東京都八王子市裏高尾町

2012年10月26日金曜日

野田街道

野田街道は、岩手県の盛岡城下と三陸海岸北部の野田を結ぶ街道。
○概要
野田街道には、本野田街道と呼ばれる、盛岡城下から小本街道の岩泉を経由し、安家(あっか)を通り、野田通代官所の置かれた宇部(久慈市)に至る街道と、沼宮内廻野田街道と呼ばれる、奥州街道の沼宮内宿の北に尾呂部(おろべ)集落で奥州街道と分かれ、吉ヶ沢・葛巻(くずまき)・関・木売内(きうりない)・下戸鎖等から本野田街道に合流し宇部へ向かうルートと、および関と小国の間の角掛(つのかけ)峠で分かれて久慈に行くの二つのルートがあり、本野田街道より沼宮内廻の方が距離が短く、より多く利用されました。寛文4(1664)年末の八戸藩成立後、野田方面から盛岡へは途中他領を通ることになり、関番所が設けられた。この街道は塩の道ともいわれ、八戸藩久慈通や盛岡藩野田通の塩釜で直煮で作られた塩が、南部牛方という行商人達によって盛岡城下や沼宮内通を通って運ばれた。
○峠
黒森峠(葛巻町)
平庭峠(葛巻町-久慈市)

筑紫大道

筑紫大道 は、日本の中世における山陽道。元寇に備えて、博多湾岸の石築地(元寇防塁)とともに設置された軍用道路。筑紫大道は、京都六波羅探題から博多まで約600kmに及んだと考えられている。法隆寺にある『法隆寺領斑鳩荘絵図』(1329年(嘉暦4年)、斑鳩荘(鵤荘)は播磨国に所在)によれば、斑鳩荘は北から一条・二条と区画されており、十条と十一条の間に朱色で東西に走る太い線が引かれ、「筑紫大道」「大道」と記されている。1983年、太子・龍野バイパス道路の工事に先駆けた発掘調査で、表土を百mにわたって掘りおこしたところ、数十cm下から約6メートル幅の道路敷きが発見された。砂と土に大小河原石を混ぜて突き固めた構造で、両側に40-60cmの側溝が設置されていた。文永の役では、元の来襲が六波羅探題に届くのに10日要したが、弘安の役では6日と短縮されている。このことから、この間に急造されたと推測されている。また、京都と博多を結ぶ筑紫大道は、都の文化、宋の文化の流入伝来に大きな影響を与えたとされている。

上州街道

上州街道は、北国街道上田から上信国境の鳥居峠に至る脇街道。鳥居峠から先上野(群馬県)に入ると信州街道(長野街道)と名を変え、中山道高崎まで続く。
○概要
信州街道?上州街道のルートは、中山道・北国街道で結ばれる高崎?上田間のバイパスとして利用された。また、鳥居峠で分かれる大笹街道を利用することで、善光寺方面への最短経路にもなった。
○現在の上州街道
上州街道のルートは国道144号が踏襲しており、同国道の通称となっている。そのうち特に住吉交差点(上田市住吉)?住吉北交差点(同)にはしなの木通りという愛称が付されている。上田市街地と上信越自動車道上田菅平ICとを結ぶ幹線道路として、また、菅平高原へと至る観光道路として機能している。ほぼ全線が2車線のワインディングロードだが、インターチェンジへのアクセス道路として住吉交差点?上野交差点は近年4車線に拡幅された。真田町長地籍では、1972年(昭和47年)に廃止された上田交通真田傍陽線の廃線敷を利用したバイパス(真田バイパス)を経由している。

東金街道

東金街道とは、古くは船橋から東金に通ずる御成街道を東金街道と称していたが、現在は千葉県道路愛称名により国道126号・国道128号の千葉市中央区本町1丁目の広小路交差点?東金市台方の県立東金病院前間を指し示す。

東浦路

東浦路とは、平安時代~大正時代まで小田原~下田間の伊豆半島東海岸を通った街道である。
○概要
東浦路は、伊豆東海岸に古くから言い伝えられたいわゆる古道であるが、その歴史は平安時代から遡る。

五戸街道

五戸街道とは、青森県八戸市から青森県三戸郡五戸町を結ぶ街道。
○概要
藩政時代、八戸城下から奥州街道五戸宿(盛岡藩領)へ至る南部藩の脇街道。

田沼街道

田沼街道は東海道の藤枝宿と相良城を結ぶ約7里(約27km)の街道。別名、相良街道。
○歴史
江戸時代中期、城主となった田沼意次により、相良城から東海道藤枝宿まで、既存の下街道や浜街道をもとに拡幅・整備された。程なく意次は失脚するが、街道沿いに川崎町などが発展した。大正から昭和にかけて存在した静岡鉄道駿遠線(うち藤相鉄道であった区間)は当街道とほぼ並行していた。
○地理
藤枝宿の勝草橋西側(藤枝市志太4丁目)より南下し、国道150号富士見橋付近で大井川を渡河。その後は国道150号の山側を並行して、相良の湊橋(牧之原市役所相良庁舎東側)に至る。藤枝市内は静岡県道33号藤枝大井川線がほぼ踏襲(東海道新幹線と東名高速道路の間は、県道のすぐ西側に旧道が通っている)しており、現在も田沼街道(もしくは藤相田沼街道)と呼ばれている。焼津市内に入ると県道(静岡県道227号島田大井川線と合流)と旧街道に分かれ、旧街道は国道150号の北側を並行して大井川に至る。牧之原市内は旧相良町の片浜周辺に旧街道の面影が残っている。

立場

立場とは、江戸時代の五街道やその脇街道に設けられた施設である。継立場あるいは継場ともいう。
○概要
江戸時代の宿場は、原則として、道中奉行が管轄した町を言う。五街道等で次の宿場町が遠い場合その途中に、また峠のような難所がある場合その難所に、休憩施設として設けられたものが立場である。茶屋や売店が設けられていた。俗にいう「峠の茶屋」も立場の一種である。馬や駕籠の交代を行なうこともあった。藩が設置したものや、周辺住民の手で自然発生したものもある。また、立場として特に繁栄したような地域では、宿場と混同して認識されている場合がある。この立場が発展し、大きな集落を形成し、宿屋なども設けられたのは間の宿(あいのしゅく)という。間の宿には五街道設置以前からの集落もある。中には小さな宿場町よりも大きな立場や間の宿も存在したが、江戸幕府が宿場町保護のため、厳しい制限を設けていた。現在、五街道やその脇街道沿いにある集落で、かつての宿場町ではない所は、この立場や間の宿であった可能性が高い。

高輪大木戸跡

高輪大木戸跡とは、東京都港区高輪二丁目19番地に所在する交通遺跡である。国道15号の泉岳寺交差点の北東側に位置している。1928年(昭和3年)2月7日、国の史跡に指定されている。
○歴史
1710年(宝永7年)、東海道から江戸府内の入口として、また南の出入口として設けられた大木戸の跡である。木戸は始め、1616年(元和2年)に芝口門が建てられ、高札場が置かれ札の辻に設けられたが、700メートル南の同所に移転し高札場として大木戸が設けられた。芝口門のあった場所は元札ノ辻と呼ばれた。木戸は、始めは街道の両側に築かれた幅約20メートルの土塁の間に木戸を設け、明け方六ツに開き、暮れ六ツに閉じて、治安の維持と交通規制の役割を果たした。現在の木戸の大きさは両脇に長さ五間(9メートル) 、幅四間(7.2メートル) 、高さ一丈(10尺=3メートル)の石垣であり、間に柵と門が設けられた。幕末期に伊能忠敬はここを全国測量の基点としたとされる。近くには忠臣蔵で知られる、赤穂浪士の墓所泉岳寺がある。1932年(昭和7年)以降に、標柱・説明板が設置されている。

太閤園

大阪市内に太閤園という庭園があるのをご存知ですか。結婚式の会場としても有名ですが7000坪もある広大な敷地の中に、格調高い建物と日本庭園がありお庭では一年を通じて椿・梅・桜・木蓮・つつじ・アジサイ・萩・もみじ・さざんかなど色々な植物を楽しむ事が出来ます。先日見学したのですが紅葉がきれいでした。
所在地:大阪市都島区網島町9-10
TEL/06-6356-1110(受付時間 9:00~19:00)
◆JR東西線大阪城北詰駅(3号出入口)より 徒歩1分
◆京阪京橋駅(片町口)より 徒歩7分
◆地下鉄長堀鶴見緑地線京橋駅(2番出口)より 徒歩5分
◆大阪ビジネスパークより 徒歩7分
◆大阪アメニティパークより 徒歩12分



















仁川五ヶ山古墳群

阪急仁川駅から西へ住宅街の急坂を登り切ったところの住宅地の中に点在しており、1、2号墳は西宮市、3、4号墳は宝塚市に属します。1号墳は消滅、2号墳は全長10mの横穴式石室をもつ径23mの円墳ですが、石室は埋められています。すぐ北に3号墳の横穴式石室が露出していますが、石室内は埋まっています。谷を挟んだ北側の丘陵先端に4号墳があり、横穴式石室が露出していますが、内部はやはり埋まっています。なお、3、4号墳は行政区画上は宝塚市になります。
6世紀末から7世紀初頭にかけて築かれたものです。