2012年11月30日金曜日

今日で11月も終わり。

今日で11月も終わり。あと1ヶ月で今年も終わりですね。

堂山古墳群

堂山古墳群は大阪府大東市寺川に所在する古墳群。大阪府営水道の配水池建設に伴う事前調査で発見され、発掘調査が実施されており、古墳時代中期から後期にかけての古墳群であることが明らかにされている。
○概要
・発掘調査の経緯
1969年1月、大阪府営水道寺川配水池建設予定地となっていた堂山山頂(標高98メートル)において埴輪や鉄刀が発見され、大東市教育委員会と大阪府教育委員会に通知された。現地調査により、既掘孔底に鉄剣片などが露出し、その周囲には埴輪片が散乱し、かなりの規模の古墳であると推定された。また、この古墳の近くに横穴式石室の天井石らしき花崗岩が露出していることからここにも古墳の存在が予想された。今後さらに新しい古墳の発見も予想されたので、これらを総称して堂山古墳群と呼ぶことにし、最初に発見された古墳を(堂山)1号墳と呼ぶこととされた。遺物が出土したことが地元で大げさに伝わり、放置し得ない状況であったため、両教育委員会によって同年2月に発掘調査が行なわれ、木棺直葬の主体部が明らかにされ、1972年には大阪府教育委員会により墳丘の調査が行なわれている。
・1号墳
調査の結果、1号墳は墳丘の大半を風化した花崗岩の岩盤を削りだし整形して、築造を行ない、盛り土は、ほとんどなかったものと考えられた。墳丘の西側の段と東側の溝からは円筒埴輪列が検出されている。墳丘の流失が著しい部分もあるが、段や溝、埴輪列から直径25メートルの円墳であったと推定された。葺石は認められなかったという。内部構造は、後円部直下に設けられた墓坑に組合式箱型木棺が直葬され、その主軸に直交する状態で副葬品のみを納めた副棺の痕跡が検出された。主棺の内部は攪乱されていたが硬玉製勾玉、碧玉製管玉、ガラス製丸玉、滑石製紡錘車が検出されている。また棺外の北側で14本、南側で11本の鉄製短剣が置かれていた。副棺からは短甲、衝角付冑、鉄刀、鏃、剣、鎌が検出されている。墳丘から出土した埴輪は円筒埴輪が墳丘裾部分で原位置を保った状態で69個体検出されている。朝顔形埴輪は原位置を保つものはなかったが、かなりまとまって出土している。他に家形埴輪、盾、衣笠および靱と推定される直弧文を配した破片がみられる。埴輪の他に墳丘南西裾部で須恵器の器台(2個体)、壷(8個体)、高杯(8固体)出土した。いずれも初期須恵器に属するものである。また同じ場所で土師器の高杯2個体が出土している。なお1号墳の出土遺物は一括して大阪府の指定文化財に指定されている。
・1号墳の築造年代
1号墳の築造年代の手がかりとしては出土した短甲と冑が三角板革綴の製作技法であることから5 世紀前半が考えられ、須恵器が大阪府陶邑窯では最古の部類に属する窯址出土のものに類似することからも同様の年代が裏づけられる。
・2号墳~7号墳
堂山古墳群では1号墳以外にも次々と古墳が確認され、調査されており、古墳の総数は7基におよんでいる。1号墳以外はいずれも、古墳時代後期に属するもので横穴式石室を主体とし、陶棺や木棺に使われたと思われる釘や人骨などが出土している。6世紀末から7世紀中頃の築造と考えられる。堂山古墳群は保存についての協議が長期に及んだものの、大東市立堂山古墳群史跡広場として整備され、2012年3月末にオープンした。
所在地:大東市寺川四丁目675-1
大東市の堂山古墳群史跡広場のサイト


だいとう森づくりクラブ



















打上神社(高良神社)

高良大明神と脇神に八幡大神、八大龍王が祀られている本殿へとつづく参道にある大鳥居の前には、「高良神社」と刻まれた大きな石碑が建っている。これは、古くより高良宮、高良明神社として打上村の人々が崇敬していたが、明治時代初めに村社(神社の格式)指定により打上神社とされた。しかし、人々の敬愛の念が強く、今も地元では高良神社と呼んでいる。高い所にあるだけに、古墳石を使った役行者小祠(えんのぎょうしゃしょうし)のある高台に登れば、大阪平野を一望できる眺望がすばらしい。裏山には巨岩をくりぬいて造られた墓室がある極めて珍しい横口式古墳で、国指定史跡の「石宝殿古墳」もある。
○所在地
〒572-0803大阪府寝屋川市梅が丘1丁目






高宮廃寺跡

この周辺には、高宮遺跡とよばれる縄文時代以降の村の遺跡が出土しており、なかでも飛鳥時代から白鳳時代にかけての住居跡は、古代氏族の屋敷と庶民の住居の様子を示している。白鳳時代に創建された高宮廃寺は、彼らの氏寺として建立されたものらしい。この寺は平安時代に一時廃絶、鎌倉時代に再建され室町時代に至るまで続いたもので、寺跡は国の史跡に指定されている。
○所在地
〒572-0806大阪府寝屋川市高宮2-15-1





忍岡古墳

忍岡古墳とは、大阪府四條畷市岡山2丁目に所在する前方後円墳。忍陵神社境内にある。
○概要
1934年(昭和9年)の室戸台風によって倒壊した忍陵神社の社殿を再建するために土台を掘り返した際に竪穴式石室が発見された。全長90mの前方後円墳で、墳丘には円筒埴輪が並べられていたようである。後円部に竪穴式石室があり、覆屋が設けられて保存されている。石室は長大な木棺を収めるための施設と推定され、長さは6.3m。石室内の遺物はすでに盗掘によって大半が失われていたが、碧玉製釧、鍬形石、紡錘車のほか、剣、刀、刀子、鎌、斧などの鉄製品があった。鉄製の小札が数枚出土しているが、京都府の椿井大塚山古墳で出土している中国式の小札革綴冑の一部と推察される。1972年(昭和47年)に大阪府史跡に指定された。
所在地 大阪府四條畷市岡山
形状 前方後円墳
規模 墳丘長90m
築造年代 4世紀
埋葬施設 竪穴式石室







忍陵神社

忍陵神社は、大阪府四條畷市にある神社である。式内社で、旧社格は村社。神社名は「しのぶがおかじんじゃ」とも読まれ、附近にある忍ケ丘駅の駅名の由来となっている。忍岡古墳の丘の上にあり、戦国時代に岡山城が築かれた地と伝えられる。
○祭神
藤原鎌足を主祭神とし、熊野大神・品陀和氣命・馬守大神・大将軍神を配祀する。
○歴史
忍陵神社は、明治44年、津桙神社に近隣の2社を合祀し改称したものである。津桙神社の元の祭神は藤原鎌足・品陀和氣命・熊野大神であった。津桙神社は、創建の年代は不詳であるが、元は当地の古代豪族・津桙氏が祖神を祀っていたものが、後に応神天皇を氏神とされるようになったものとみられる。江戸時代までは新宮大権現と称し、天武天皇の時代に役行者が開基したとの伝承もある。平安時代に熊野信仰がさかんになると、熊野大神が合祀された。元の鎮座地は現在地より南、岡山村坪井の通称・赤山であったが、江戸時代に現在地に遷座し、当地にあった鎌足社(祭神 藤原鎌足)を合祀した。明治5年(1872年)に旧岡山村の村社に列格した。明治44年に以下の2社を合祀した。
旧砂村の村社・馬守神社(祭神 馬守大神)
旧砂村の無格社・大将軍社(祭神 大将軍神)
○境内
・忍岡古墳
昭和9年(1934年)、室戸台風により社殿が倒壊した。その修復作業中に前方後円墳の竪穴式石室が発見され、「忍岡古墳」と名附けられた。昭和47年(1972年)3月31日、忍岡古墳の石室が大阪府指定文化財に指定された。忍岡古墳は全長87mの前方後円墳で、4世紀中ごろの古墳時代に作られたものである。
・岡山城
岡山城は、三好長慶が飯盛山城を居城とした永禄3年(1560年)頃に飯盛山の北東にある忍岡古墳の丘陵を利用して築かれた支城として伝えられている。永禄、天正年間には当時の城主である結城氏が熱心なキリシタンで、キリシタン信仰の拠点となる。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、徳川方の本陣として同地が使われ、勝利した事から縁起の良い所として御勝山とも称されるようになるが、当時の遺構は殆ど破壊されており 今では名残を見る事は出来ない。
○交通アクセス
JR西日本片町線(学研都市線)忍ケ丘駅
○所在地
大阪府四條畷市岡山2丁目7-12
○例祭
10月10日










住吉平田神社

当社の創建は『神社由緒記』には「平安初期の寛平・延喜年間(889~923年)の頃、飯盛の麓に鎮座したとあるが、往昔のことは不詳である」としている。1815年(文化12年)の『南野村改邑鑑』には「(住吉吉田神社は)現在まで三牧大和とその子伊織、孫大和と3代神職が続いているが、それまで社家がなかったので(三牧家が神官となった)元文年間(1736~41年)住吉大明神の神主吉田家に願い出て受領したので、これを機に住吉神社と平田神社とが合祀した」との記録が残る。「住吉神社」は往時より飯盛山麓にあり、その時期や、海の神である住吉社がこの地に祀られた理由などは不詳であるが、「平田神社」はもとは南野村字平田にあり、1853年(嘉永6年)の『南野村庄屋重右衛門扣帳』には「慶長年中(1596~1615年)の頃、この地で打死した平田という人の御霊を祀る祠があった」とある。慶長年間に打死(討死?)と言うことは大坂の陣の戦死者を祀ったものか。
所在地:四條畷市南野2丁目
最寄駅:JR学研都市線「四條畷」下車、東へ、四條畷神社の参道階段の手前を北へ、約200m





国中神社

国中神社は『延喜式』神名帳の讃良郡に載る同名神社(官幣小社)に比定される。江戸時代の地方文書には天神宮、天満宮、大蛇宮の名称で見え、「大蛇宮」は水の化身といわれる龍を祀る神社で、農業神として村内の信仰を集めていた思われるが、1882年(明治15年)の中野村地理誌は祭神、由緒不詳としている。現在の神社名は(明治4年)村社に列せられたのを機に、『延喜式』神名帳に載る「国中神社」の名を復活させ、1917年(大正6年)逢坂の大上宮を合祀した。
所在地:四條畷市清滝中町
最寄駅:JR学研都市線「四条畷」下車、京阪バスで「東中野」下車、東へ約500m






御机神社

当社は『延喜式』神名帳に載る官幣小社で、四條畷市にある式内3社のうちの1社である。元は現在地を更に山中を東に行った室池の近く、字宮谷に有った。創祀年代は不明だが、この地からは奈良時代の古瓦が拾集され、神社の起源として奈良時代には鎮座されていたものと推測される。文禄年間(1952~6年)に清滝字城の堂山に移し、更に1700年(元禄13年)に現在地に遷座した。1560年(永禄3年)三好長慶が飯盛山に居城した頃には飯盛城鎮護の神として崇敬も厚かったといわれる。文禄年間の城の堂山への遷座は三好長慶の動向と何らかの関連があるのかもしれない。当社は平安期の神仏習合により「牛頭天王社」と称し、豊作を祈る水神信仰に基づく神として祀られ、この名称が江戸時代の終わりまで続いた。社名を『延喜式』神名帳にのる旧名に復興したのは1871年(明治4年)で、明治政府の神仏分離令の結果による。現在の社殿は(明治14年)に建てかえられたものだが、近年修復されている。
所在地:四條畷市南野6丁目
最寄駅:JR学研都市線「四条畷」下車、旧国道170号線に出て北へ約300m。田中医院の前の辻を東へ約800m、権現川に出会う2つ目の橋を渡る。