2012年2月22日水曜日

八坂神社

八坂神社大阪市大正区三軒家東に鎮座する神社。下之宮の八阪神社と区別して上の宮、上のやさかさんと呼ばれる。
○祭神
素戔嗚命
○歴史
正保4年(1647年)、勘助島の開拓者・木津勘助が新田開発の鎮守として京の八坂神社の分霊を丸島に勧請。
宝永4年(1707年)の大地震と津波で被害を受ける。
正徳年間(1711年~1716年)に現在地へ遷座す。
明治5年(1872年)、村社に列す。
明治41年(1908年)7月17日、難波島の八阪神社を合祀。
明治42年(1909年)1月19日、千島町の天神社を合祀。
明治42年6月、神饌幣帛料供進社に指定される。
昭和20年(1945年)、戦災で焼失。
昭和32年(1957年)、再建。
○境内
姫嶋龍神社:天之一根命       
天満宮:7菅原道真
千島町鶴の割にあった無格社・汐止天神を合祀。
八垂銀杏樹崇拝所
慶長15年に中村勘助が大阪港湾の基礎建設の記念として植樹した神木。
中村勘助之碑 昭和54年(1979年)7月建之
中村勘助源義久彰徳碑 大正6年(1917年)12月建之 
○交通アクセス
大阪環状線大正駅より南に徒歩9分
○所在地
大阪市大正区三軒家東2丁目7-18
○例祭
4月17日(春祭)
7月17日(夏祭)
10月17日(例祭)
 
 
 
 
 
 
 
 
 

地蔵院

地蔵院は大阪市大正区にある真言宗の仏教寺院。
○歴史
元禄元年(1688年)僧快円の開創。開祖の快円は、江戸時代の国学者契沖が高野山で修業した折に大きな影響を与えている。
明治34年(1901年)、高野鉄道(現南海高野線)建設のため現在地へ移った。
昭和20年(1945年)の空襲で堂宇は全焼。
昭和30年(1955年)本堂を再建。
○交通アクセス
大阪環状線「大正駅」下車、南へ徒歩7分
○所在地
大阪府大阪市大正区三軒家東4丁目5-9




神明神社

神明神社は大阪府大阪市大正区に鎮座する神社。
○祭神
天照皇大神と、八幡大神、春日大神を祀る。
○歴史
神明神社は内平野町1丁目にあり、神明宮と称し、大坂三神明の一つに数えられ、俗に日中神明と呼ばれた。もと京都西院に鎮座し、後陽成天皇の勧請したもので、元和2年(1616年)に松平忠明が平野町に移転して大坂城守護・三郷町中祈祷の社とし、明治維新まで祈願所とした。また、『摂津志』には窪津王子祠、一名渡邊王子というとある。
明治40年(1907年)泉南郡南近義村(現貝塚市)の村社八幡神社を合祀し、村社となり、今の社名に改める。
大正3年(1914年)に神饌幣帛料供進神社に指定される[1]。
大正13年(1924年)8月現在地へ移転、戦災を受けたが再興した。
・大坂三神明(浪速三神明)
南向きの日中神明社(当社)
東向きの朝日神明社
西向きの夕日神明社 露天神社境内社。
○所在地
大阪府大阪市大正区鶴町2丁目7-29
○例祭
10月17日

加茂遺跡

加茂遺跡は旧石器時代から平安時代に掛けての集落遺跡です。明治44年(1911年)、銅鐸が偶然見つかった事により遺跡の存在が明らかになり、その後の発掘調査で今から約2000年前の弥生時代中期には、東西800m、南北400mにっも及ぶ、畿内有数の大集落であった事が判明しました。遺跡には板塀で囲われた大型建物・竪穴住居・墓地、そして集落中心域の周りを幾重もの環濠(濠)が取り囲んでいたなどの冬至の集落の様子が分かってきています。平成12年(2000年)には全国的にも大変貴重な遺跡である事から、鴨神社(加茂遺跡内に鎮座)の敬大地とその周辺の一部が国の指定を受けています。
所在地:兵庫県川西市加茂1-4-2(鴨神社内)

秋鹿酒造

創業明治19年の老舗。全国的にも知られている銘酒秋鹿の酒蔵です。見学をする事はできませんが、事務所にて秋鹿を購入する事ができます。
住所:大阪府豊能郡能勢町倉垣1007号
電話番号:072-737-0013
営業時間:8:30~17:00
定休日:日曜祝日(8月9月は土曜日も定休日)
交通:妙見口駅より阪急バス奥田橋方面行き歌垣山登山口バス停下車徒歩3分


2012年2月19日日曜日

天神ノ森天満宮

天神ノ森天満宮は、大阪府大阪市西成区にある神社。
○御祭神
菅原道真
○末社
天照皇大神
猿田彦命
倉稲魂大神(稲荷大明神)
○祠
白雪龍神
白髭竜王
白龍大明神
○由緒
応永年間(1394年 - 1428年)に北野天満宮の分霊を奉斎。
現在の本殿は元禄15年(1702年)に建設されたもの。
○所在地
大阪市西成区岸里東2-3-19
○交通機関
阪堺電気軌道天神ノ森駅
南海高野線岸里玉出駅
○史跡
子安石(豊臣秀吉は、淀殿懐妊時、安産祈願のために参詣したことがある。)
紹鴎の森
○その他
別名:天下茶屋天満宮(天下茶屋に近いため)
別名:子安石天満宮(上記、子安石があるため。)
別名:紹鴎森天満宮(上記、武野紹鴎が晩年、当地の森に茶室をたてたため。)
単に天満宮と言う場合もある。宗教法人の登録も天満宮である。





津守神社

津守神社は、大阪市西成区に鎮座する神社である。
○概要
現在の大阪市西成区津守の一帯は、江戸時代に「津守新田」として開墾された歴史がある。津守新田の開発の際に勧請されて創建された神社が、現在の津守神社にあたる。江戸時代には、この神社は五所神社・五社大明神・稲荷神社などと称されていた。1871年(明治4年)に津守神社に改称。同一区内に練習場を置くセレッソ大阪の必勝祈願を南津守さくら公園で執り行っている。
○主祭神
天照皇大神
住吉大神
大歳大神
稲荷大神
綿津見大神

○所在地
大阪市西成区津守3丁目4番







生根神社

生根神社は、大阪府大阪市西成区玉出にある神社。
○沿革
創建時期は不詳であるが、一帯は住吉大社の神領であったことから、住吉大社摂社であった生根神社(奥の天神。現在は住吉大社から独立)から、少彦名神の分霊を勧請して玉出の産土神としたのに始まると伝えられている。また、それ以前から蛭児命を祀っていたとの伝承もある。洪水で流された西宮神社の神体が当地に流れ着きこれを祀っていたが、西宮神社に神体を返還した後も分霊を奉祀したのが当社の創建であるという。明治初年、大坂の筑前屋敷に祀られていた筑前天満宮を合祀した。1945年3月14日の大阪大空襲で被災し社殿を焼失したが、神体は速やかに住吉の生根神社へ移したため無事であった。戦後仮社殿を造ったのち、1966年10月に鉄筋コンクリート建築の社殿や社務所などを復興した。
○だいがく
生根神社には、「だいがく」が伝えられている。だいがくは漢字表記では「台楽」または「台額」となり、古来から雨乞い神事に使用された、高さ約20mの柱に約70個の提灯を飾り付けた櫓のことである。かつては大阪市南部周辺の神社にも「だいがく」があったとされている。しかし、現存している「だいがく」は、生根神社に保存されている1基のみとなっている。周辺の神社の「だいがく」は第二次世界大戦の戦災で焼失したが、生根神社の「だいがく」は戦時中に疎開させていたため難を逃れた。「だいがく」は1972年3月、大阪府の有形文化財に指定された。現在、7月24日-25日にかけておこなわれる夏祭りの2日間のみの公開となっている。
○こつま南瓜塚
当神社のある玉出の古名を勝間(こつま)村と言い、当地の名産であった小ぶりで、色の濃い、味わい深いかぼちゃを記念した塚。江戸時代の大坂では天王寺蕪と並んで有名ななにわ野菜であった。勝間商人によって、勝間街道を使って大坂まで行商された。中風除け、風邪除けとして冬至にはよく食べられたという。当神社でも冬至に勝間南瓜神事が行われ、参拝者に振舞われる。また、こつまなんきんとは、幼い海女の様に、色が黒く、小柄で、体のよく締まった、肌理の細かい女性を、閨房でもてはやす言葉としても知られている。今東光は著作「こつまなんきん」でそのような女性を描いた。勝間とは本居宣長の著作の名前で知られる玉勝間(たまかつま)と同じ意味(籠?、かごめかごめ?、船?、網?)と考えられ、古代海浜であった当地の歴史的な名前。近隣にある安倍野王子神社の縁起にも安倍野王子神社の位置を示す文言として「玉勝間の艮」という表現で登場する。安倍野王子神社と勝間村の位置関係は、セーマンドーマン模様で、セーマンが五芒星(および安倍晴明)、ドーマンが籠(および芦屋道満)を表現しているという説と関連付け、比較しても興味深い。海人族の呪術に由来する、との説がある。
○交通アクセス
大阪市営地下鉄四つ橋線玉出駅北へ約300m
南海本線岸里玉出駅西へ約400m
○所在地
大阪府大阪市西成区玉出西2-1-10
○例祭
10月9日
主な神事:こつま南瓜祭り(冬至の日)












松乃木大明神

松乃木大明神は、大阪府大阪市西成区にある神社。
○御祭神
松乃木大明神
○由緒
明治34年(1901年)当時三味線の原料になっていた猫の供養のために立てられた。
○所在地
大阪市西成区太子2-3
○交通機関
南海高野線萩ノ茶屋駅
阪堺電気軌道今池駅
大阪市営地下鉄堺筋線動物園前駅
○史跡
近松門左衛門の碑





今津比枝神社

今津比枝神社または単に比枝神社(注:全国各地に同名の神社がある)は、大阪市鶴見区にある神社。摂津国東成郡榎本村大字今津字中野および河内国茨田郡諸口村字徳庵の氏神である。
○祭神
・本殿
天照皇大神、大山咋神、大己貴命を祀る。
・摂末社
三社殿 - 向かって左より
天満宮 - 菅原道真を祀る。
大将軍社 - 八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比売神(やちまたひめのかみ)、久那斗神(くなどのかみ)を祀る。
歯神乃社 - 歯神を祀る。
稲荷神社 - 稲荷神を祀る。
○歴史・概要
創建年代、近代以前の歴史は不詳であるが、近江国坂本の日吉大社の分霊を勧請したとされる。延宝八年(1680年)に寄進されている旧い灯籠が境内にあり、江戸時代初期には既にあったようである。 明治二年に現社名となる前は「山王権現」と称していた。さらに以前、日吉神を勧請するまでは特に決まった名称はなかったとされる。
○所在地
大阪市鶴見区今津中5-5-23

阿遅速雄神社

阿遅速雄神社は、大阪府大阪市鶴見区にある神社である。延喜式神名帳に記されている式内社で、旧社格は、郷社。江戸時代の頃は、八剣神社と称されていた。
○祭神
阿遅金且高日子根神(あぢすきたかひこね)を主祭神とする。
八劔大神(やつるぎだいじん)を配祀する。
○歴史
社伝によれば、祭神の阿遅金且高日子根神は摂津国に降臨し土地を拓き、民に農耕の業を授けたと伝わる。この地の守護神として祀られたという。起源は、668年(天智天皇7年)に発生した草薙剣盗難事件の際、新羅の僧・道行が草薙剣を持って船で新羅に逃げ帰る時、突然の嵐に巻き込まれ、これを神罰と恐れをなして、途中の河口に放り投げられ、その後、草薙剣は里人により拾われ、この神社に一時納められたのが創始と伝わる。そして、草薙剣は無事に熱田神宮に返還されたと伝わる。明治時代に浪速鉄道(現:片町線)建設の折に現在地に遷座した。現在も例祭日には熱田神宮より宮司か神職が参拝、熱田神宮の例祭日には、当社の宮司などが参列する慣習が現在も続いている。
○境内
社殿 - 本殿は流造銅板葺となっている。
お陰灯篭 - 大阪市内に残る1基のみの灯篭。
大阪府指定天然記念物となっているクスノキがある。
・末社
相殿社
大將軍社
稻荷社
護國社
○主な祭礼
夏祭宵宮:7月17日
夏祭:7月18日
例大祭:10月20日、21日
○交通アクセス
JR学研都市線・JRおおさか東線 放出駅から東へ200m
○所在地
大阪府大阪市鶴見区放出東3-31-18

三社神社

三社神社は、大阪市港区磯路にある神社。旧社格は村社。別称として、三社さん。
○祭神
三社大神(以下の6柱の祭神を併せて、三社大神と称する。)
天照皇大神
豊受大神
住吉大神
熱田大神
斎主大神
秋葉大神
○沿革
1698年(元禄11年)11月、伊勢国桑名の市岡與左兵衛宗勝が新田開発の工事の安全と開発の成功と開発された地域の守護神として、天照皇大神・豊受大神・住吉大神の3柱を祭神として勧請して、社殿を建立したことを起源とする。創建当初は、三社宮と称した。
後に相殿として、熱田大神・斎主大神・秋葉大神を合祀し、三社大神と称するようになった。
1945年(昭和20年)の大阪大空襲で、社殿などを焼失。現社殿は1960年(昭和35年)12月に完成した。
○祭礼
1月1日 歳旦祭
6月30日 大祓・茅の輪授与
7月20日 夏季例祭宵宮
7月21日 夏季例祭本宮
10月20日 秋季例祭宵宮
10月21日 秋季例祭本宮
毎月1日・15日・祭礼日・拝殿開扉
○境内
稲荷神社
大海神社
柿本神社
手水舎
○所在地
大阪市港区磯路2-18-23



2012年2月15日水曜日

野田城跡

大阪市福島区にお城が昔あったのをご存知ですか。全国統一を目指した織田信長は、北国方面で浅井・朝倉軍と対峙していた。その隙を狙って元亀元年(1570)8月三好3人衆が四国徳島で挙兵し、野田城によった。信長は北国方面での作戦を中断、天王寺屋海老江で対陣したが、石山本願寺の挙兵もあり、苦戦を強いられ教徒へ退いた。その後改築も加えられ、本願寺側や信長軍の
現在は痕跡もなくマンションの前に石碑が立つのみである。字城之内と呼ばれるこの付近が城の跡だったのだろうと推測されている。
所在地:大阪市福島区玉川4丁目11
地下鉄千日前線「玉川」駅2番出口出てすぐ(マンションの前に石碑有り)

2012年2月14日火曜日

富松城

富松城は兵庫県尼崎市にあった城。現在でも土塁、水堀の遺構が確認できる。
○概要
富松城は、伊丹城、大物城、越水城の中間地点にあり、境界防衛や連絡の城として攻防の要となり、たびたび戦火に見舞われている。長期にわたってここを本拠地とした城主はなく、戦乱のたびに入れ代わった戦歴がある。富松城の規模は、それまで東西80m、南北100mの小規模な城と思われていたが、平成6年(1994年)の発掘調査で東西に150m、南北200mの館城で、周囲に土塁、二重の水堀がめぐらされている中規模の城であったことが推定された。また、昭和38年(1963年)の道路工事に伴う発掘調査からは、矢倉台の土台らしき遺構が発見された。
○沿革
長享元年(1487年)11月の「年貢算用状」に富松城の初見が見受けられる。平安時代にはこの地は富松荘と呼ばれた荘園であった。この時代から薬師寺氏が管理しており、築城も薬師寺氏の可能性が高いと思われる。
○戦場となる富松城
最初の戦火は永正16年(1519年)の越水城の合戦で、細川高国軍は瓦林正頼を援護するために富松城に陣をひいたが、その後正頼が越水城を開城したため、細川澄元方の武将が入城した。次の戦いは享禄3年(1530年)で、大永7年(1527年)の桂川原の戦いで敗れた高国は、浦上村宗の力を借りて摂津に侵攻。この際に細川晴元派として富松城を防衛していたのは薬師寺国勢であった。享禄3年9月21日、高国軍は神呪寺城から朝駆けで攻撃したが、晴元派の救援があり一旦兵を引いた。しかし同年10月19日、再び攻め込み薬師寺軍を伊丹城に敗走させ、富松城を高国軍の本陣とした。薬師寺氏は代々高国派であったが、例外的に薬師寺国勢は高国に敵対していた。しかしこの敗走により再び高国派に寝返った。この後大物崩れで高国が自害し、薬師寺氏も勢力を失うことになる。主が居なくなった富松城が次に歴史に姿を現すのが、天文10年(1541年)である。一庫城の戦いで2ヶ月間包囲していた三好長慶軍は、木沢長政軍が大軍で攻めてきたためいったん越水城に兵を引いたが、逆に木沢軍は越水城を包囲し、後詰の軍を富松城に配置した。木沢軍は越水城へ攻撃を開始、西宮に放火して回った。これに対し三好軍は阿波に援軍を求め、同年10月2日に反撃を開始、包囲軍を撃退し富松城も落城させた。その後富松城は三好長慶派に占拠されていた。三好政長と長慶との争いの中で、政長軍は越水城と中嶋城の長慶軍を分断を目的として天文18年(1549年)5月1日に富松城を攻撃するものの、落城させることはできずに退却した。その後江口の戦いで政長は戦死、長慶方が勝利した。長慶は最後まで抵抗していた伊丹城を落とすため、天文19年(1549年)1月11日に富松城に入城したが、結局同年3月28日に和議が成立した。
○廃城
富松城が廃城となった時期は明確でない。三好長慶時代には越水城の支城になり、織田信長の摂津進攻により越水城を放棄するまでは三好方の武将が詰めていたと思われる。『立花志橋』によると天正年間(1573年 - 1592年)までは存続したと思われるが、その後の経過については不明である。
○城跡へのアクセス
電車でのアクセス
阪急電車神戸線武庫之荘駅 - 尼崎市営バス富松城跡
車でのアクセス
名神高速道路尼崎IC - 道意線沿い
駐車場無し






2012年2月9日木曜日

聖天商店街

大阪市福島区に聖天商店街という商店街があるのをご存知でしょうか。
この商店街は普通の飲食店やお店があるだけでなく、占いの店が多いんですよ。
なぜ「売れても占い商店街」と言われるかというと「商店街の名にもなる聖天了徳院は、知る人ぞ知る易相の大家「水野南北」(1760年~1837年)が放蕩無頼であった青年期、院主の論しに因り大成。以来熟心な信者となり、江戸後期寛政から天保にかけ、全国に3千もの易相弟子を摧したことが、企画、調査、の段階で判明。「占いの商店街」構想に確たる発信のきっかけとなった。
と言うのが由来だそうです。
占いに興味のある方は1度足を運んでみてはいかがでしょうか。
JR環状線福島駅北側すぐ

かっぱ横丁

みなさんはかっぱ横丁をご存知でしょうか。
よく古本屋さんの町というイメージを持っている人が多いようですが、古本屋さんだけでなく、いろんな飲食店もあります。
阪急百貨店や紀伊国屋書店等にも近いので、一度足を運んでみてはいかがでしょうか
●営業時間 11:00~23:00(一部店舗によって異なります)
●定休日 2・4・6・9・11月の第3水曜日
及び12月31日、1月1日(変更になる場合があります。)
●TEL 06-6345-6365
●交通機関 阪急 梅田駅(阪急 茶屋町口からすぐ)
JR 大阪駅
地下鉄 梅田駅、中津駅
阪神 梅田駅
※周辺道路の混雑が予想されますので、ご来店の際は公共交通機関をご利用ください。

2012年2月8日水曜日

空堀商店街

空堀は、古代難波宮以来の大阪の市街地である上町台地に位置し、江戸期の大阪開発により発展した歴史あるまちです。
大阪の都心部では珍しく戦災を免れた空堀には、歴史ある大阪の暮らしや姿を今に伝える路地やお地蔵さんやお稲荷さん、井戸などがあるほか、地蔵盆や初午などの祭事も盛んで、大阪がこれまで培ってきた都心居住の姿を今に伝える歴史的・文化的なまちなみとなっています。
○アクセス
電車:地下鉄谷町線・鶴見緑地線谷町6丁目駅または鶴見緑地線松屋町駅
http://www.sumai.city.osaka.jp/hope/karahori/karahori.html


http://www.eonet.ne.jp/~karahoriclub/

露天神社(お初天神)

お初天神って皆さんは知ってますよね。あの近松門左衛門の「曽根崎心中」で有名な神社です。正式名称は露天神社だそうです。
ネオン街の真っ只中にある神社です。
この神社では次のようなイベントがあるそうです。
○お初天神蚤の市
毎月第一・第三金曜日に当社境内で開かれる古物市。特色ある古物商約30店が軒を並べる。
○筋分祭
毎年二月三日に追難式(まめまき)、お火焚神事を斎行する。参拝者に御神酒、ぜんざい、うどんなどをふるまい、提灯が明々と灯る境内は多数の参詣者で賑わう。
他に梅田の夏の風物、例大祭(夏祭り: 毎年七月二十日前後の二日間 ) などがあります。


住所 大阪市北区曽根崎2丁目5番4号
電話番号 06-6311-0895
ファックス 06-6311-0512









2012年2月5日日曜日

芝村陣屋

奈良県内に織田信長の弟の末裔がしたことをご存知ですか。ここで紹介する「芝村陣屋」と「柳本陣屋」にすんでいたそうです。両方とも信長の弟、有楽斎系統である。四男長政が芝に陣屋を構え芝藩となったらしい。
陣屋が芝村に移るのは第7代藩主輔宜の代の延享2年(1745年)らしい。長政以降第10代長易の代に明治維新を迎えている。
陣屋址は桜井市立織田小学校の敷地となり、周囲に石垣が残存している。また、陣屋南門が慶田寺山門として移築されている。
最寄り駅:JR桜井線三輪駅
所在地:奈良県桜井市大字芝村(桜井市芝)

柳本陣屋

奈良県内に織田信長の弟の末裔が住んでいたということをご存知でしょうか。信長の弟、有楽斎系統である。それが柳本陣屋である。五男尚長柳本に陣屋を構え柳本藩になったそうです。柳本小学校が陣屋の中心地で、黒塚古墳が陣屋の一部として利用されたらしいです。
陣屋址は柳本小学校の敷地となり、堀の一部に利用した黒塚古墳の堀と石垣が残存するのみである。昭和42年(1967年)、表向御殿が橿原神宮文華殿として移築された(重要文化財に指定されている)。また、陣屋西門が移築現存する。
余談ですが東京にある「有楽町」は織田信長の弟の織田有楽斎系統の末裔の東京の屋敷がこの辺りにあったからこういう地名になったそうです。
アクセス:JR桜井線柳本駅から徒歩約5分。
所在地:奈良県天理市柳本町

鴫野古戦場跡

1614年の大阪冬の陣の際に大阪市城東区鴫野東のあたりで豊臣方と徳川方の激戦があったと言われているのがこの「鴫野古戦場跡」である。説にもよるため一概に言えないのだが、大阪冬の陣の際に鴫野・今福の付近で大きな戦があったことは事実である。地形的には旧大和川の支流が分流して、深田が多く大規模線j等には不向きだったらしい。そこで双方は銃撃戦で望み、合間に堤防上で遭遇戦を繰り返した。
この時大阪城側(豊臣方)は玉造を守っていた木村重成(冬の陣和睦のときに御勝山の徳川秀忠陣屋へ使者として派遣された)が初陣し、後藤又兵衛と共に今福や鴫野のあたりで奮戦したらしい。徳川方は予想外の抵抗に手を焼き、和睦に持ち込んだそうです。
所在地:大阪市城東区鴫野3丁目(城東小学校内)
JR片町線「鴫野」下車東約300M

別子銅山

別子銅山は、愛媛県新居浜市の山麓部にあった銅山。1690年(元禄3年)に発見され、翌年から1973年(昭和48年)までに約280年間に70万トンを産出し、日本の貿易や近代化に寄与した。一貫して住友家が経営し(閉山時は住友金属鉱山)、関連事業を興すことで発展を続け、住友が日本を代表する巨大財閥となる礎となった。
最初の採鉱は海抜1,000メートル以上の険しい山中(旧別子山村)であったが、時代と共にその中心は新居浜市側へ移り、それにつれて山の様相も変化していった。坑道は全長700キロメートル、また最深部は海抜マイナス1,000メートルにもおよぶ。
閉山後の今は植林事業の成果もあり緑深い自然の山へと戻って、夢の跡のような産業遺跡がひっそりと佇んでいる状態であるが、近年はそれらの歴史的意義を風化させないことを目的として活用したマイントピア別子など観光開発が進み、新居浜市の新たな資源として甦りつつある。また、別子山村の合併により一体的な観光開発にも弾みがついている。
世界遺産登録への動きがあるそうだ。
住  所 愛媛県新居浜市角野新田町3-13 〒792?0846
開館時間 9時-16時
休 館 日 月曜日、祝日(日曜日と重なる場合は開館)、年末年始
料  金 無料
電  話 0897-41-2200

旧名手宿本陣

和歌山県紀の川市に旧名手宿本陣(歴史的建造物)があることを知っていますか。旧名手本陣妹背家住宅とも言われている。主屋・米蔵・南倉が国の重要文化財、敷地全域が国の史跡に指定されている。華岡青洲夫人の加恵の実家としても知られる。
1630年(寛永7年)より名手の大庄屋を勤めた地士頭妹背家の邸宅。名手宿にあって大和街道に面ていたため参勤交代時の本陣として定められ、名手本陣と称されていた。現在の本陣は正徳の火災の後に、享保から宝暦年間にかけて再建されたものである。 主屋の西に2つある蔵は、寛永年間の棟札があることから、火災から焼け残った可能性も考えられている。
「御成門」「通用門」「主屋(玄関・式台、店の間・取次の間・台所、御殿(上段の間・次の間))「蔵」「役所2棟(延享3年の墨書)」が建物として残っている。
○利用情報
入館無料
開館時間 - 10~16時
休館日 - 月曜
所在地 - 和歌山県紀の川市名手市場

2012年2月4日土曜日

明延鉱山

兵庫県養父市にかつて鉱山があったのをご存知ですか。これが明延鉱山である。この鉱山は非鉄金属(スズ、銅、亜鉛、タングステン等多品種)の鉱脈を持っていた鉱山だったそうです。
特にスズの鉱量は日本一を誇っていたそうです。平安時代初期の大同年間に採掘開始といわれる。明治初年(1868年)、生野銀山とともに官営となり、明治29年(1896年)に三菱合資会社に払い下げられた。
粗鉱生産量は、ピーク時の戦時中から昭和26年(1951年)頃には月産35,000トン、閉山前頃には、銅、亜鉛、スズの粗鉱生産量が月産25,500トンであったが、プラザ合意後の急激な円高に伴う銅、亜鉛、スズの市況の下落により、大幅な赤字を計上することとなり、まだ採掘可能な鉱脈を残して、昭和62年(1987年)1月31日午後11時20分の発破を最後に、同年3月をもって閉山した。
今は近所にあった明延小学校が閉校された跡地を利用して「あけのべ自然学校」という子どもたちへの自然体験の場を提供する場として利用されているそうです。
兵庫県養父市大屋町1184(あけのべ自然学校所在地)

柏原陣屋跡

柏原藩は丹波国氷上郡柏原に陣屋を置いた外様の小藩である。藩主は江戸期を通じて織田家だが、一旦廃絶となり、45年間の天領支配を経て別系統の家が入封したため、前期織田家と後期織田家に分けられる。前期織田家は豊臣時代の慶長3年(1598)、信長の弟信包が伊勢安濃津から柏原3万6000石に移封されたのに始まり、信包の死後に起った相続争いの危機を乗り切って信則・信勝と続いたが、信勝は慶安3年(1650)、嗣子のないまま28歳の若さで没し、所領を没収され3代52年で絶家、廃藩となった。45年後の元禄8年(1695)、信長の2男信雄の系統である織田信休が大和松山より2万石の新領主として入り柏原藩を再興、これが後期織田家で、以後明治まで信朝・信旧・信憑・信守・信古・信貞・信敬・信民・信親と10代173年にわたって在封した。歴代藩主には資質英邁な人物が多かったが、藩の財政は慢性的に厳しく、初代信休の入封早々に領内の村々で年貢軽減を願う愁訴が発生したほか、文政7年(1824)と天保4年(1833)に大きな農民一揆が起り、また家中でも2度の御家騒動があるなど失政が目立ち、藩状は幕末まで不安定であった。明治4年(1871)7月、廃藩、藩領は柏原県、11月に豊岡県となり、明治9年(1876)、兵庫県に編入された。明治17年(1884)、最後の藩主信親が華族令によって子爵を授けられている。
藩邸は信休の代の正徳4年(1714)に完成したが、文政元年(1818)に火災で焼失し、現存するのは文政3年(1820)頃に再建されたものである。なお、柏原は織田家ゆかりの地、というのが観光の売りでもあるようで、町のあちこちで木瓜の家紋や「陣屋跡まで××メートル」と書かれた標識を見ることができる。実際の織田家は柏原の民にとって必ずしもいい領主ではなかったはずだが、今となってはそんなことは大した問題ではないらしい。
再建されたものの明治維新の後に解体されて、現在では当時の約5分の1、旧表御殿の部分だけが残っています。
国指定の史跡です。
入場など 見学200円(柏原歴史民俗資料館と共通)
 時間 9~17時(入館は~16時30分)
 休み 月曜(祝日の場合は翌日)
 住所 兵庫県丹波市柏原町柏原633
 TEL 0795-73-0177
 交通 JR柏原駅→徒歩10分

道後公園

道後公園は、明治以来の長い歴史を有する県立都市公園であり、また、中世の時代に伊予国(現在の愛媛県)の守護であった河野氏が本拠地としていた湯築城(ゆづきじょう)跡でもあります。
発掘調査をきっかけに、埋蔵文化財調査や公園整備計画について多くの方から関心が寄せられました。
このため、平成10年度~平成13年度に園内の動物園跡地(以下「旧動物園区域」と呼びます。この動物園とは今現在砥部にある砥部動物園のこと)を中心に文化財を生かした公園整備を行い、平成14年4月12日、リニューアルオープンしました。また、平成14年9月には国指定の史跡「湯築城跡」となりました。
春には花見をしている人がたくさんいてすごくにぎやかですよ。
○利用時間
公園 : 常時開園 (24時間) 入園料無料
展示施設 : 9時~17時      入館料無料
休館日  毎週月曜日(休日の時は翌日)
12月29日~1月3日
○施設利用料金
グランド/1時間   200円
     終日 1,010円
(要予約)(県の許可が必要な場合も有り)
駐 車 場/1台30分につき 100円
収容台数/西口 23台
     北口 11台
観光バス 無料/9時~17時(ただし資料館開館日のみ)

2012年2月3日金曜日

狭山陣屋

大阪府大阪狭山市に小田原城に本拠地を持っていた戦国大名「北条氏」の末裔がいたのをご存知でしょうか。
それが狭山陣屋である。
当初、後北条氏の血を引く北条氏規の大坂屋敷のあった地で政務を執っていた。陣屋は広大な狭山池の東部側に築かれた。天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐により、徳川家康の娘婿の北条氏直が高野山にて蟄居を命ぜられ、翌年赦され秀吉から1万石を与えられたが、程なくして死去し、北条氏の本家の歴史は終結した。
のちに、河内国に領地のあった(元伊豆国韮山城主)北条氏規の嗣子、氏盛が氏規の遺領をあわせ、慶長5年(1600年)狭山の地で1万石の外様大名になる。
陣屋は2代氏信の代の元和2年(1616年)に、上屋敷は氏宗の代に、下屋敷は氏朝の代に完成した。以後12代氏恭の代に明治維新を迎える。
御殿は天明2年(1782年)に焼失し、天明6年(1786年)再建される。
遺構は大阪府堺市堺区神明東2丁目にある西本願寺堺別院に陣屋表門が移築現存されている。陣屋跡には何も残されていないが、上屋敷跡の付近の公園には石碑と説明案内板があり、下屋敷跡は旧狭山遊園地になっていた。市の埋蔵文化財に指定されている。
○アクセス
南海高野線 大阪狭山市駅下車。徒歩にて約10分程。
○所在地
大阪狭山市狭山3丁目

多田銀銅山跡

兵庫県猪名川町に銀山や銅山があったということをご存知ですか。
奈良の大仏の鋳像もこの地の銅が使われたといわれる程、古い歴史のある銅山跡。銀山地区を中心に10数kmの広範囲に、江戸時代(現在の周辺7市町)には2000前後もの坑道「間歩(まぶ)」が存在しました。豊臣時代は「瓢箪間歩」・「台所間歩」を中心に栄え、徳川時代も「大口間歩」の発見と共に直轄領となり、代官所も設置されていました。この多田銅で採掘されるものは品質がよく細工に適していたので、抜荷をされないように厳重な注意が払われていました。昭和48年には休山となりましたが、今では整備された「青木間歩」の坑道に入り、往時を偲ぶことできます。江戸中期の科学者・平賀源内も長崎留学の帰路に立ち寄った伝承もあり、歴史のロマンが漂います。 
所在地 〒666-0256
猪名川町銀山
問合せ先
電話 猪名川町農林商工課
(072)766-0001(代)
FAX (072)766-3732
定休日等 無し(自由散策)
駐車場 有り(公衆便所隣接地の空地)
交通(車) 県道12号線(川西篠山線)川西方面、銀山口交差点を右折し約4分
料金 見学自由