2012年3月13日火曜日

鶯塚

この鶯塚は今から1200年ほど昔、長柄長者の美姫が鶯を飼って人間のようにかわいがっていた。ところがこの姫が病のために死ぬと鶯は深くその死を悲しみ、歌を詠み後を追うが如く死んでしまった。長者たちは、このうるわしい話を後世に伝えようと鶯を姫と一緒に埋葬して鶯塚と名づけたといわれている。
またな柄は1310年前人皇弟36代孝徳天皇の皇后遺跡で中大兄皇子(後天智天皇)および中臣鎌足(藤原氏祖)と共に曽我氏の専横を退けて、大化の改新を断行された由緒の地であり、古来より鶯稜と証せられているので天皇に関係の高貴な方の御墓であろうとある。
又正徳3年夏、河内狭山の藩士で笹本源之助が父の仇加州も浪人羽滝伝太郎を母と共に4年間捜し求めてついにながら長者の配慮によりこの鶯塚のほとりで見事成し遂げて狭山藩に帰ってから長者の娘お梅を妻に迎えたという。この鶯塚を舞台にした芝居もある。昔は小丘の上に五輪塔の墓があってその前に「鶯塚」と刻んだ今の石標が立てられ小庵もあって四時が香が絶えなかったという。
大阪市北区長柄東2丁目




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