2012年10月10日水曜日

本願寺道路

本願寺道路は、明治初年に東本願寺が石狩国の札幌と胆振国の尾去別とを山越えで結ぶ街道として建設した道路で、1871年(明治4年)に開通した。「本願寺街道」、「有珠街道」ともいう。現在の国道230号の基礎となった。後に本願寺道路が作られた経路は、従来からアイヌが通行しており、江戸時代には松浦武四郎らがアイヌの案内で通っていた。1869年(明治2年)に札幌に蝦夷地(同年北海道と改称)の本府を置くことが決まると、札幌と箱館(同年函館と改称)を連絡する道路が必要になった。このとき財政難の明治政府は、東本願寺を動かして道路開削を出願させた。東本願寺はその年内に調査・計画を行い、1870年(明治3年)から1871年(明治4年)にかけて工事を実施し、尾去別(現在の伊達市長和)と平岸(現在の札幌市豊平区平岸)の間に約103kmの道路を開削した。工事の労働には僧侶のほか、士族と平民の移民、アイヌが従事した。しかし、1873年(明治6年)に苫小牧経由で室蘭に至る「札幌本道」が完成すると、山間を通る本願寺道路は敬遠されるようになり荒廃する。1886年(明治19年)から、北海道庁により改修工事が進められ、重要な街道として再生される。1950年(昭和25年)に国道230号となる。
○ルート
「本願寺道路」と呼ばれる道路は、以下の4ルートある。本項では、最も距離が長く開削に難を極めた4.「尾去別 - 中山峠 - 平岸間」について主に説明する。
1.軍川 - 砂原間
2.鶉-大野間
3.銭函道分岐-山鼻-八垂別間
旧川沿市街地付近は、当初の豊平川の水量も多く、水害にも度々見舞われていたことにより地盤も悪く、現在のルートから推し量る事が可能なのは、軍艦岬付近(但し、現在は先端が掘削され、道路拡張とカーブの緩和化が進んでいる。)など、ほんの一部である。川沿旧道を指すという見解もあるが、そこも当時は同様に水害に遭っていた地域であった為、その西側の、中ノ沢との間の、一段高くなった河岸段丘に沿って作られたとする方が一般的ともいえるが、そうすると、現在では、当時の道筋が正確にはなぞれないという問題もある。唯一残存する当時の絵図も正確なものではないため、現在の区画や路線から完全にルートを再現する事は不可能であり、推測の域を出ない。
4.尾去別-中山峠-平岸間
○開削以前の蝦夷地での調査
1807年(文化)4年)に近藤重蔵が、石狩-虻田(あぶた)間の調査のために札幌から豊平川をさかのぼって調査した。1845年(弘化2年)から5年間、及び、1855年(安政5年)から3年間の二度にわたり、松浦武四郎が実地調査を行った。松浦は、3度蝦夷地に渡り、3度目に前述の近藤の踏査を確認した。松浦のコースは虻田 - 石狩樋平(とひぴら)・津石狩(現在の「対雁」-ついしかり-)ルートで、湿地帯や豊平川支流が積雪や氷結の為に渡り易くなる、冬期間に行われた。これらの踏査は現地のアイヌの案内なしには不可能であった。松浦はその結果、「川に従い虻田、有珠に道を開かばその便(弁)如何ばかりならん(む)」と、江戸幕府に対しそのルートの必要性を説いた。後の明治時代に至って、ロシア南下政策対策と相まって、当道路を開削、開通する根拠ともなったといわれている。
○開削までの経緯
東本願寺は徳川家の恩顧があり、そのことにより、大政奉還後まもなくである慶応4年年始に行われた宮中会議において、同寺焼き討ちの案が出された。それはある意味、濡れ衣や誤解でもあった。東本願寺側は、当時、第二十一代法主の嚴如(大谷光勝)[9]であり、その妻は皇族出身の嘉枝宮和子であった。和子の実兄である山階宮晃親王は、その宮中会議の経過を耳に入れ同寺の取り潰しの実現を懸念し、「叛意がない」旨の誓書を寺側より朝廷に提出させることにより事なきを得た。一方、明治政府は北海道の開拓のために開拓使を設け、その本府を札幌に置くことを計画。前述のロシアの南下政策の脅威に対抗するため、またそれに伴い、大量の移民を入植させるためにも、当時すでに北海道の拠点として開けていた箱館から札幌へのルート開拓は急務とされていた。しかしながら、極端な財政難に陥っていた当時の政府には、北海道の道路を含めた開拓にまで手がける事は不可能で、薩長土肥等の勤皇雄藩も同様であった。そんな台所事情の新政府が苦し紛れに目をつけたのが、全国に宗門徒を抱えていた本願寺であった。かといって、東西にかかわらず、両本願寺側も既にいくつかの新政府からの財政援助に応じていた過程、決してさらなる要求に応えられる状態ではなかった。西本願寺は、京都の賀茂川のいくつかの架橋工事、不換紙幣と正貨との多額なる交換などといった、多大なる資金の提供を新政府の為に既に行っていた。そこで、大同小異ではあったのだが、時の太政大臣、三条実美より東本願寺側に道路開削についての密談があった。よって形式上は、「東本願寺から明治政府に出願された」形がとられたのだが、実情は、「政府からの援助協力依頼」であった。「援助協力依頼」とはいっても、前述の経緯より、政府に対して断る事は東本願寺存続の上でも不可能であったため、実質は命令ともいうべき状況であった。また東本願寺が北海道開拓・新道開削に傾いた要因の一つに、松前藩の宗教政策に起因していることも念頭に置かなければならない。松前藩は宗教対立を防ぐために一宗一派より認めていなかった。本願寺系は東本願寺のみを許可し、他派は許可していなかったので、東本願寺のみ北海道に教線があったのである。このことは現在の本願寺系寺院の分布や開基年からも理解できることである。しかし、双方の政治的駆け引き、組織的な思惑ばかりではなく、その事業自体が仏教特有の宗教的思想に基づいて行われ、最終的には、平均的に貧しかった当時の北海道への移民たちなどに対して、大きな雇用を生み出す結果ともなったのは、想像に難くない。
○作業の前段階
明治2年6月5日、明治政府に対して(表向きの)東本願寺側から出願が提出される。
その主旨は
1.新道切開
2.農民移植(移民奨励)
3.教化普及
の三点項目であった。明治2年9月3日太政官より許可が下る。東本願寺側の決定で、当時19歳の新門・現如(大谷光瑩)が事業の責任者となる。同年9月20日、開拓使の許可の下、5名の調査隊を編成し渡道し、翌3年3月2日帰京する。明治3年2月10日、随行した僧侶を合わせて約百数十名が本山表玄関を出発。前年から全国門末に回状を出し、名古屋から北陸、東北日本海側を陸路北上し(但し、秋田藩など「廃仏思想」の強い地域は海路を迂回して)、「勅書」「開拓御用本願寺東新門主」と書かれた表札を掲げ、浄財の寄進を受けながら、蝦夷の地へと向かっていった。道中歌として「トトさんカカさんゆかしゃんせ、うまい肴(さかな)も胆斗(たんと)ある、おいしい酒も旦(たん)とある、エゾ、エゾ、エゾ、エゾ、エイジャナイカ」といったものも歌われた(一説には現如の作)というが、すでに130年以上も前のことであり、節までは伝わってはいない。
明治3年7月7日、津軽藩青森村(現在の青森市)に一度上陸し、津軽海峡を渡って函館に到着。
○作業開始
その後、3日間の函館滞在のうちに開拓使函館出張所にて、「新道開削」及び「蝦夷地に於ける新寺創立」の打ち合わせを東久世長官を交えて行い、人員振り分けを行った。随行した大部分の僧侶達は、新道開削へと回された。明治3年7月24日、現如上人は27名を伴い、小樽経由で札幌入り。東本願寺管刹境内地を検分した。その検分した場所は「山鼻」で、現在の南7条西8丁目にあたり、現在、真宗大谷派札幌別院が建っている場所である。なお、時の政府から下賜されたその地に管刹(寺)が設立されたのは、検分後まもなくで、そこが「札幌別院」と改称されたのは、明治9年のことである。翌25日、希望者29名に対し帰敬式を行う。かくして(他の3つの路線を含め)道路開削が開始されることとなった。
○作業概要
実質作業期間-明治3年9月から翌4年10月
開削工事区間-尾去別から平岸天神山麓付近まで、二十六里十町(約103km余り)、当時は尾去別が起点。
ちなみに、現在それに相当する国道230号(他の国道との重複区間有)は、約108.5kmの長さである。また、札幌本道から発展した国道36号や、白石街道から発展した国道12号の起点でもあるところの、札幌市中心部の起点(中央区北1条西3丁目と西4丁目間の交差点)から大通り西10丁目と西11丁目の境目(現在の「石山通」)を通って、定山渓、中山峠を経て、伊達市よりやや西側の虻田町の方へ延びている。以降は、他の国道との重複区間を経てせたな町へと続く。
道路の規模-伐木幅三間(約5.4m)、道路幅九尺(約2.7m)。橋の架設百十三箇所、谷間の板敷き十七箇所。
作業人員-東本願寺宗門の僧侶多数、伊達氏(仙台藩支藩の亘理藩)の士族移住者約50名、道東の和田村への移民から(地名確定は現在不可能)大工職人をはじめとする約50名、胆振地方のアイヌたち人数不明だが多数が参加。全員が最初から最後まで従事したとは思えないが、記録によると延べ人数、5万5千余人。
日給-笹刈り一人に付、日給一分。伐木、架橋作業については更に割り増し。
所要経費 - 一万八千五十七両余り(諸物価に落差があるが、幕末の一両は約一万円程度といわれているので)現在に換算すると2億円程度かそれ以上。但し、これらは、ほとんど人件費や食費、斧や鎌などの工具類に費やされた。しかし、原始林を伐木した後の木材を、原木のままか板や棒に加工するかは別として、現地調達で、道路自体に使用できたという点である。湿地帯や谷地などは、板敷きや固定した浮橋、桟橋のような状態にしたということである。
比較的安定した土壌の地区では、「竹や笹を横たえる程度」という開削が多かったといわれているが、集落周辺単位では、「藪の中にかろうじて人の足痕のある程度の、道ともいいきれない道を利用した」部分が多かったともいわれ、工事期間が異様に短かったことや、「突貫工事」と呼ばれるに至った所以の一つも、そこにあった。
○開通後の歴史
冬の厳しい寒さや、春から秋にかけての蜂や毒虫の害、ニホンマムシやエゾオオカミとの戦い、ヒグマとの遭遇などのアクシデントに見舞われるが、突貫工事ながらも明治4年(1871年)10月工事完了。徒歩が主な交通手段だった当時に、「馬も通行可能」という道路は画期的であった。また開通以前は、獣道と大差ない程度であった、札幌-定山渓の間も、しっかりとした道がつけられることとなった。札幌に近すぎたために休憩所扱いであった(旧)簾舞通行屋も、現在の簾舞中学校付近、国道230号のちょうど路線上に当たる土地に建てられたという。しかしわずか2年後の、明治6年に現在の国道36号線の基礎となる札幌本道が開通したため、「本願寺街道」を利用する者は激減した。一度廃止された(旧)本願寺道路であったが、明治19年に札幌中央部から徐々に拡張工事が行われた。石切山 - 定山渓間も例外ではなく、結果、簾舞に於いては、現在の旧国道230号が、「新・本願寺街道」として蘇り、道幅も約5.4m、馬車も通れるくらいの、当時としては画期的な道路として出来上がった。それに伴って、通行屋も現在ある位置に移され、中山峠や定山渓にある宿泊所同様、駅逓所としての役割も兼ねるようになった(新街道沿いに移された後の方の「簾舞通行屋」は、現在、「札幌市有形文化財」に指定され、当時の資料館も兼ねている)。今から130年以上も前に突貫工事で作られた、幅3m程度の「旧・本願寺道路」は、その後、崩落したり、獣道化し草木が生い茂り、あるいは、田畑にされ、人家が建ち、国道拡張工事などで99%以上は残っていないが、後述するようにわずか2箇所ほど、ほぼ当時のままで残っている。保存会があり、それらを後世に伝える動きもある。非常に短い区間ながら、徒歩で通行し、当時を偲ぶ程度の事は可能ではあるが、その保存されている区間の両端が、現在、個人所有の土地や簾舞中学校敷地(札幌市教育委員会所轄)に接しているため、図示するなどの方法による詳細は述べない。現在の国道230号が開削開通するまで、地形上、付近には道路も無く、また、拡張も不可能だったため、戦後もしばらくの期間、生活用道路として徒歩で利用されていたという偶然性が、この区間の残存していた大きな理由とされている。
(註)
ここで述べている「旧・本願寺道路」、「新・本願寺道路」といった名称は、便宜上そう記しているだけであり、当時からそう呼ばれていた訳ではない。簾舞に於いて、「本願寺道路の新道」が開通した時点で、それまでの本願寺道路が「旧道」となり、後にその「新道」が拡幅されて、「国道230号」となった。また、新旧の本願寺道路の間に国道230号の新道が開通した時点で、「新・本願寺道路」に基づく、それまでの国道を「旧国道」などと呼ばれるようになったものである。また、そこから後志支庁へ向かって、現在の「豊滝」(旧地名「七曲り」)、さらに、「定山渓から喜茂別に至る区間」などは、現在までに切り替え工事、及び、拡幅工事、トンネル貫通工事等が繰り返され、結果、別項でも触れた通り、現在の国道230号は本来の本願寺道路とは全く別ルートとなっている。
○記念碑、史跡等
1.「東本願寺道路起点碑」(伊達市)
2.「現如上人之像」(中山峠)
3.「本願寺道路終点碑」(札幌市平岸、澄川墓地内)
4.「中山峠」、「札幌市簾舞」にも、旧同街道跡沿いに「旧本願寺道路跡」を示す碑があり、その「経緯や内容、残存している近辺の経路を示す板標識」が簾舞中学校入り口付近に、後述する簾舞保存会によって設置された。
その旧街道に基づいて直線化や拡張された旧国道230号線のうち、定山渓から中山峠にかけては、薄別川に架かる橋などが崩落してしまい、藪(やぶ)に埋もれている箇所もあり、通行不可能である。しかしながら、中山峠から喜茂別町へ続く旧国道は残存しており、カーブや坂も多く、舗装箇所も少なく道路状況の悪い箇所もあるが、夏場は通行可能である。明治30年代に設置されたと思われる、花崗岩製の一等水準点も数箇所道路脇にも残存している。時代から推測して、道路の拡幅拡張工事のなされた頃でもあり、馬車の通行を想定した、当時の拡張やカーブの緩和化の為の工事から、更に整備して自動車道に利用したことにより、全区間が旧本願寺そのものに沿った道筋ではないにせよ、周囲の景色等など、当時の面影を偲ぶ事は十分可能である。「旧黒岩家住宅(旧簾舞通行屋)」(札幌市有形文化財) ここは、「新本願寺道路」つまり、「国道230号の旧道」沿いにある。「本願寺道路」「定山渓鉄道」などの資料館にもなっている。実は、「旧本願寺道路跡」が、130年以上たっても、簾舞中学校を挟む形で、離れて二箇所存在している。黒岩家の子孫方と、地元連合町内会などの有志が保存会を作り、後世に残すべく保存整備に努めているからである。
○特記
なお、「本願寺道路(街道)終点の地」は、前述の(3)の石碑のある位置かどうかは、はっきりしていない。本来、この道路を突貫工事的に開削したのは、「ロシア南下政策」に対抗するべく、人員、馬、武器、食料等のための補給路として作られたものであり、本来は、現在の北海道庁付近まで作られるべき目的のものである。札幌側では、本願寺道路の完成と同年に平岸街道の原形となる道路が約2500m開削されており、本願寺道路はこれに接続されたものと考えられるが、この碑の立つ地が正式に、同工事が終わった正確な場所であるのと同時に、「本願寺道路」の終点であったという確証はない。「当初、この辺りで開削工事が終了した「北端」、または、「札幌中心側の地」」という、程度に捉えた方がよい、との関係者の見解もある。

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