2012年4月29日日曜日

白井河原の戦い

白井河原の戦いは元亀2年(1571年)8月28日に白井河原一帯で行われた戦い。池田氏の一家臣であった荒木村重が、摂津国内で勢力を拡大するために起こした戦いと考えられている。この戦いに勝利した荒木村重は、織田信長からも一目おかれる存在となる。
○開戦までの経緯
織田信長が上洛し摂津国に入国し、松永久秀が芥川山城で織田軍に与すると、松永久秀の家臣であった高山友照もそれに従った。高山友照は永禄11年(1568年)に摂津国三守護であった和田惟政より芥川山城を預けられ、国人から戦国大名に飛躍していったものと考えられている。戦国時代初期の永正の錯乱以降、摂津国は常に戦乱の地であり、織田信長の上洛以降は徐々に平定されていくとはいえ、この時はまだ一つにまとまっていなかった。永禄11年(1568年)8月の猪名寺の戦いは茨木重朝、伊丹親興連合軍と池田勝正軍の戦いであったが、その後の情勢は、茨木重朝を支援する和田惟政と、池田城から池田勝正を追いだした荒木村重と中川清秀の連合との対立へ変化し、元亀2年(1571年)8月、白井河原を挟んで両軍が対峙することとなった。この時、茨木重朝、和田惟政連合軍は約500騎で耳原古墳の西側の糠塚に陣どり、一方の荒木村重、中川清秀連合軍は郡山の北側の馬塚に約2500騎で陣取った。
○戦いの情況
未だ陣形が整わない茨木重朝、和田惟政連合軍から、郡山城城主郡正信が単身で、荒木村重、中川清秀連合軍の陣取る馬塚に出向き、「わが主人である茨木重朝、和田惟政は両名ともにわかに将軍の呼び出しで京にいっている。できれば大将が帰ってから戦端をひらきたい」と時間稼ぎをしようとした。和田惟政の子和田惟長の軍が後続し、高槻城には高山友照らも居たため、それらの戦力を加えるための時間稼ぎの行動ではないかと推察されている。しかしこの計略は見破られ、逆に戦闘が開始された。『陰徳太平記』によると、この時、郡正信は、大将の和田惟政に「多勢に無勢、これでは勝目は無い。大将は強いだけが能ではなく、可をみて進み、不可を見て退き、無事をもって利をはかるのが名将なのである」と進言したようである。しかし和田惟政はこの申し出を全く聞き入れず、『日本史』によると、200騎を引き連れて馬塚に突撃したようである。また『陰徳太平記』によると、進言を聞き入れてもらえなかった郡正信は、「ここに至り仕方なし」とし名馬「金屋黒」にまたがり敵陣を縦横無尽に大暴れしたが、荒木村重、中川清秀連合軍の武将山脇源太夫に討ち取られてしまった。『中川史料集』によると、荒木村重は「和田惟政の首を取ったものには呉羽台をやる」という陣礼を出し、中川清秀が見事、和田惟政の首を取り、名をあげたようである。『茨木市史』によると、この呉羽台というのは現在の池田市旭丘2丁目周辺ではなかったかとされる。この呉羽台の石高は300石-500石程度で、この土地が恩賞として与えられたと考えられている。また茨木市南耳原2丁目周辺には、和田惟政の墓と伝わる五輪塔がある。一方、中川清秀と和田惟政が激突している中、茨木重朝軍は手薄となった荒木村重の本陣に突進してきた。しかし『日本史』によると、山陰に隠れていた2000兵が茨木重朝軍を囲い込み、鉄砲衆300兵を駆使して落としいれた。それでも茨木重朝軍は奮闘し、最後には茨木重朝自身が荒木村重に傷を負わせるほど肉薄したが、荒木村重自身に討ち取られたとされる。司令官を2人とも失った茨木重朝、和田惟政連合軍の残兵は「主を討たれてどうして生き残れようか」と玉砕覚悟で討って出てほぼ全滅した。この時の様子を『陰徳太平記』では「白井河原は名のみにして、唐紅の流となる」と記している。後続する和田惟長の軍は、敗戦の報を知るや高槻城に引き返し、高山友照、高山右近親子と城の守りを固めた。
○戦後の影響
いに乗る荒木村重、中川清秀連合軍は茨木城を攻め落とした。また郡山城等も手中に収めると、高槻城を攻囲した。松永久秀、松永久通の親子も攻囲軍に加わり、『日本史』によると、高槻城の城下町を2日2晩かけてすべて焼き払い破壊したとされる。ここで宣教師ルイス・フロイスが助け舟を出した。当時、高槻城周辺にはキリスト教会があり、和田氏、高山氏の庇護を受けていた。フロイスは事の成り行きを見守っていたが、ここに至って、ロレンソ了斎を織田信長のもとに派遣し戦況を報告させた。自分の知らないところで戦が行われていたことを知った織田信長は、『尋憲記』によると、同年9月9日に佐久間信盛を使者として高槻城から撤兵を勧告した。しかし両軍は動かず、『言継卿記』によると、重ねて同年9月24日に明智光秀が1000兵を率いて調停に乗り出す。ここに至ってさすがの荒木村重も撤兵を決意したものと考えられている。その後、荒木村重は伊丹城に、中川清秀は茨木城に入り、それぞれ威勢を誇る。一方、和田惟長は高槻城主となったが、高山友照、右近親子と対立し、天正元年(1573年)荒木村重と通じた高山親子によって高槻城から追放された。
○補説
どのような経緯を経て8月28日に白井河原で両軍が対峙したかは、未だ解明されていない。しかし、茨木重朝、和田惟政連合軍が十分な戦力を整えないうちに戦端を開くことを強いられたのに対して、荒木村重、中川清秀連合軍は伏兵まで準備していた点から、荒木村重、中川清秀連合軍の側から仕掛けた戦いではなかったかと考えられている。
この戦いを境に、織田信長によって任命された「摂津三守護」(池田勝正、伊丹親興、和田惟政)は勢力を失い、荒木村重、中川清秀、高山友照、右近親子など、以後摂津国で活躍する武将が表舞台に登場してくる。戦国時代から安土桃山時代初期への、世代交代の戦いとも考えられている。
新屋坐天照御魂神社には、中川清秀が和田惟政の首を取ったと伝わる短刀が奉納されている。それには「長サ一尺五寸、幅一寸三分、太刀作名、奉謝、中川瀬兵衛、作平増盛」と記載されている。

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