2012年10月15日月曜日

日光社参

日光社参は、一般には日光東照宮に参拝する意味だが、ここでは、日本史の用語として、特に江戸時代に将軍家が参拝する行事を解説する。将軍あるいは大御所・大納言(将軍家の嫡子)による日光社参は合計19回実施された。そのうち、16回が第四代家綱までに集中しており、特に第三代家光は10回と歴代将軍の中で最多である。
○行程
主に徳川家康の命日である4月17日に参拝するように実施された。主に用いられた行程は次の通りである。江戸城を発つと、まず日光御成街道(日光御成道)を進み、初日は岩槻城に宿泊した。さらに次の日は、幸手宿近くで日光街道(日光道中)に入り、二日目は古河城に宿泊、三日目は宇都宮城に宿泊したのち、四日目に日光に到着した。日光には連泊し、復路は往路を逆に辿る合計8泊9日の行程であった。復路については、宇都宮城の代わりに、今市から壬生通り(日光壬生道、日光西街道)に入って、壬生城に宿泊する行程も、家綱の頃までには用いられた。
○意義
日光社参には、膨大な経費を要した。供をする大名や旗本、動員される人馬も膨大である。例えば、安永5年の将軍家治の社参の際には、行列の先頭が日光にあるときに、最後尾はまだ江戸にあったとも言われている。近在の農村からの人馬徴発も、日光社参の時期は農繁期に重なることが多く、大きな負担になっていた。これほどの大事業を成し遂げることは、徳川家の権威を、大名から庶民に至るまで広く知らしめる効果が絶大であった。しかし、第四代家綱の後、幕府の財政に余裕が無くなると、その頻度は低下していった。なお家光は、家康を強く尊崇していたと言われる。江戸城内に東照宮を設置したこと、朝廷に願い出て、毎年の日光例幣使派遣を許されたことなどに表れているが、日光社参回数が最も多いこともそのひとつであろう。
○年表
1603年:慶長 8年 徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開く。
1616年:元和 2年 4月に家康没。
1617年:元和 3年 3月に日光東照宮竣工。4月に将軍徳川秀忠が社参。
1619年:元和 5年 10月に将軍秀忠が社参。
1622年:元和 8年 4月に将軍秀忠が社参。
1623年:元和 9年 4月に大納言徳川家光が社参。
1625年:寛永 2年 7月に将軍家光が社参。
1628年:寛永 5年 4月に大御所秀忠が社参。
1628年:寛永 5年 4月に将軍家光が社参。
1629年:寛永 6年 4月に将軍家光が社参。
1632年:寛永 9年 4月に将軍家光が社参(服喪により遥拝)。
1634年:寛永11年 9月に将軍家光が社参。
1636年:寛永13年 4月に将軍家光が社参。
1640年:寛永17年 4月に将軍家光が社参。
1642年:寛永19年 4月に将軍家光が社参。
1648年:慶安元年 4月に将軍家光が社参。
1649年:慶安 2年 4月に大納言徳川家綱が社参。
1663年:寛文 3年 4月に将軍家綱が社参。
1728年:享保13年 4月に将軍徳川吉宗が社参。
1776年:安永 5年 4月に将軍徳川家治が社参。
1843年:天保14年 4月に将軍徳川家慶が社参。最後の日光社参。
1867年:慶応 3年 将軍徳川慶喜が大政奉還。

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