2012年10月6日土曜日

鹿角街道

鹿角街道は、盛岡城下から荒屋(あらや)・田山を経て、鹿角郡花輪、十二所、扇田から羽州街道(大館市)に至る街道。
○概要
鹿角街道は、盛岡藩の古文書では「鹿角往来」「鹿角道」と呼び、久保田藩で「南部道」「南部街道」と称していたが、その道筋は城下盛岡を発し寺田、荒屋、田山を経て 鹿角郡に入り、米代川沿いに花輪、神田、松山を通って土深井の藩境を越え秋田領十二所、扇田へと 向かう北奥羽の横断路線であった。しかし、岩手山麓の広漠たる一本木原や七時雨山(七時雨峠)の難所越え、分水嶺の梨ノ木峠、岩山を縫う湯瀬の岨道など、この道は大道ばかりではなかった。久保田藩内の鹿角街道は終点近くで、扇田村、二井田村、三浦、櫃崎、赤石、板戸と続き、板戸からは米代川を船で渡り、横岩の近くで羽州街道と合流した。この周辺では、板沢に板沢一里塚が道の両側に残されている。また、三浦集落から二井田村方面の道路右手にケラ木森一里塚が現存している。湯瀬渓谷(鹿角市)では、全長4.6kmに渡り渓流沿いの道が散策路として整備されている。
○歴史
元慶の乱において、鎮守将軍小野春風、陸奥権介坂上好蔭が「陸奥の路を取りて上津野(鹿角)村に入り、 両国の兵と首尾を夾み攻めん」とし、好蔭は「兵二千人を率い流霞道より秋田営に至」り、春風は「先ず上津野に入り賊類を教諭し皆降服」せしめている。この時の「流霞道」が鹿角街道の初出と思われる。「流霞道」について、高橋富雄は、「霞は霰の字を誤ったものでナガレシグレ道と読むのであろう」とし、またナガシグレ道とは現在の七時雨山の麓を通る道であるとした。鹿角郡において慶長初期(17世紀初頭)以降金山開発が興ったことを契機として整備され、その後も尾去沢鉱山から盛岡城下まで銅を運搬する重要な街道として整備された。また尾去沢鉱山の鉱物の搬出路として、花輪から毛馬内・大湯を経て、さらに来満峠を越え現青森県の田子(たっこ)・三戸奥州街道に合流する来満(らいまん)越え(来満街道)も整備された。明治以降、岩手県側では、この鹿角街道のことを「津軽街道」と呼び、現在の鹿角街道は、福岡(二戸市)から浄法寺を経て荒屋の曲田で本道へ合流する道筋(浄法寺街道)を呼び、江戸期の鹿角街道とは異なる。1996年(平成8年)11月、梨ノ木峠(岩手県安代町(八幡平市))~湯谷峡谷(秋田県鹿角市)が文化庁「歴史の道百選」のひとつ『鹿角・南部街道―梨ノ木峠越』として選定された。
○宿場
田頭
平館
寺田
荒屋新町
田山
湯瀬
花輪(鹿角市)
沢尻
十二所
扇田
○番所
折壁(八幡平市)
花輪代官所(鹿角市)
十二所(大館市)
○一里塚
塚ノ根(盛岡市)
巣子
菊塚(滝沢村)
表平塚
細越塚
向坂(八幡平市)
山崎
野口
新田
留之沢
七時雨
荒屋
曲田
ケラ木森一里塚(三浦の一里塚)(大館市)
板沢一里塚
○峠
梨の木峠
貝梨峠
七時雨峠(車之走峠)
大場谷地峠

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