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2023年10月6日金曜日

竹内街道灯路祭り2023

 日本最古の官道とされ、大阪府内初の日本遺産に認定された「竹内街道」を舞台に、「竹内街道灯路祭り」が開催されます。竹内街道が、約3000灯のあかりで浮かび上がり、幻想的な雰囲気に包まれます。古民家での音楽演奏、軒下ギャラリーなど、さまざまな催しが盛りだくさんの、地域住民手作りのイベントです。※内容は変更となる場合あり

開催期間:2023年10月21日16:00~20:30※雨天時は翌日に順延

開催場所:大阪府太子町竹内街道ほか

交通アクセス:近鉄南大阪線「上ノ太子駅」から金剛バス「太子町役場」もしくは「竹内街道春日西」下車

主催:竹内街道にぎわいづくり協議会

料金:無料

問合せ先:竹内街道にぎわいづくり協議会事務局(太子町観光・まちづくり協会)0721-26-8051


2022年3月12日土曜日

信達宿のふじまつり2022

 古い町並みが残る信達宿の梶本家の庭が一般公開され、野田藤を観賞することができます。1本の木に約4万房の花房が咲き誇り、野田藤の高貴な香りと色彩にひたることができます。見頃にあわせて「ふじまつり」も行われます。「ふじまつり」開催日の前後約1週間が、一般公開期間となります。

所在地:〒590-0522大阪府泉南市信達牧野1338

開催期間:2022年4月23日~24日公開期間/ふじまつり開催日の前後約1週間10:00~17:00 ※状況により変更となる場合あり

開催場所:ふじまつり会場

交通アクセス:JR阪和線「和泉砂川駅」から徒歩8分

主催:信達宿藤保存会

料金:協力金100円

問合せ先:熊野街道信達宿藤保存会090-4281-8741(開設期間/3月1日~5月15日)


2017年12月2日土曜日

辻の碑(箕面街道+山田街道)

箕面街道と山田街道の交差地点(結接点)にある石碑である。石碑があるのみで詳しい案内板等がないため、詳しいことは不明である。箕面街道は概ね現存しているものの、山田街道は宅地開発や再開発などで欠損が多く見られる。
所在地:〒561-0881大阪府豊中市中桜塚4丁目3-17




2017年10月30日月曜日

せんなん再発見!歩く講座・秋の健康ウォーク2017

泉南市の歴史と魅力が堪能できる「せんなん再発見!歩く講座・秋の健康ウオーク」が開催されます。あいぴあ泉南(泉南市総合福祉センター)に集合し、「泉南案内人の会」による解説を聞きながら、歴史情緒あふれる紀州熊野街道の旧本陣界隈から長慶寺まで約4kmの道のりを歩きます。旧本陣角谷(つのや)家当主による案内や、長慶寺住職による法話(予定)もあります。※往復はがき・FAX・メールにて事前申し込みが必要、詳しくは泉南市観光案内所へお問い合わせください。(申込期間/11月1日~20日)
所在地:〒590-0521大阪府泉南市樽井1-8-47
開催期間:2017年11月25日9:30(集合)
開催場所:大阪府泉南市あいぴあ泉南(集合)~長慶寺本堂
交通アクセス:JR阪和線「和泉砂川駅」から徒歩20分
料金:参加費/500円(入館料・資料代・損害保険代を含む)※定員あり(事前申込み制)。詳細は泉南市観光案内所までお問合せください(申込期間/11月1日~20日)
問合せ先:泉南市観光案内所072-493-8948

2017年9月30日土曜日

もと熊野街道

平安時代中期から鎌倉時代初めにかけて熊野信仰が盛んになり、王侯貫族をはじめ庶民に至るまで熊野詣をした。それは「蟻の熊野詣」と形容されるほどであった。京から淀川を船で下り、窪津(くぼつ)(八軒家)に上陸した人々は、上町台地を縦断、途中点々と所在する王子と呼ぶ遥拝所兼休憩所をたどりながら、熊野三山に到った。阿倍王子神社は阿倍野王子の跡であり、市内唯一残るものである。前の道は熊野街道で、この付近と万代池西側や遠里小野町付近などは、旧街道の面影をのこしており、歴史の顕彰が行なわれている。
所在地:大阪府大阪市阿倍野区阿倍野元町9阿倍王子神社前
最寄り駅:堺電鉄「東天下茶屋」下車南東約200m
 
 

2017年8月27日日曜日

第11回高野街道まつり

河内長野駅前から三日市町駅前までを会場に、「高野街道まつり」が開催されます。河内長野市を南北に縦断する「高野街道」には歴史的、文化的な遺産が数多く存在します。河内長野駅周辺エリアでは、「手づくりにぎわい市」や地場農産物の販売をはじめ、なにわ伝統野菜のふるまいやフリーマーケットなどが行われます。高野街道エリアではスタンプラリーが、三日市町駅前エリアの「宿場市」では、地場旬産市などが催されます。
開催期間:2017年10月22日10:00~16:00 ※雨天決行(荒天中止)
開催場所:大阪府河内長野市河内長野駅周辺~高野街道~三日市町駅前
交通アクセス:南海高野線・近鉄長野線「河内長野駅」下車
主催:高野街道まつり実行委員会
問合せ先:河内長野市産業観光課0721-53-1111

箕面街道の道標

「右豊中々梅花女学校道」「左箕面街道桜井谷村」と刻まれている。箕面街道は大阪方面から能勢街道を経由して豊中から勝尾寺へ向かう道。
所在地:大阪府豊中市本町

2012年10月28日日曜日

三戸街道

三戸街道は、青森県八戸市から、同県三戸郡三戸町に至る街道。
○概要
幕政時代、八戸城惣門から新荒町、福地村、藩境の六枚橋(青森県南部町)を経て、奥州街道三戸宿へ至る南部藩(盛岡藩・八戸藩)の脇街道
○伝馬継所
八戸城下 八日町
三戸宿 (青森県三戸郡三戸町)

2012年10月19日金曜日

西近江路

西近江路は、近江国(滋賀県)から越前国へ通じる街道で、古代・中世の北陸道。北国海道、北国脇往還、北国往還、北国脇道とも。1887年(明治20年)に西近江路として県道となりこの名称が定着した。古来より都と北陸を結ぶ道として人の往来が多いだけでなく、壬申の乱、藤原仲麻呂の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)、織田信長の朝倉攻めなどでは大軍が移動している。また、平安時代の遣渤海使もこの道を通るなど、交流の道でもあった。
○経路
(古代)
小関越え→穴多(太)駅(大津市穴太)→和邇駅(大津市和邇中浜)→三尾駅(高島市安曇川町三尾)→鞆結駅(高島市マキノ町小荒路・海津・浦・石庭)→愛発関(敦賀市疋田か)
(近世)
大津宿・札の辻(大津市札の辻)→衣川宿(大津市衣川)→和邇宿(大津市和邇中)→木戸宿(大津市木戸)→北小松宿(大津市北小松)→河原市宿(高島市新旭町安井川)→今津宿(高島市今津町今津 →海津宿(高島市マキノ町海津)→敦賀宿(敦賀市元町)
○周辺の文化財
琵琶湖疏水(近代化産業遺産)
園城寺「三井晩鐘」
(国宝)金堂・新羅善神堂・光浄院客殿・勧学院客殿・絹本著色不動明王像(黄不動)・新羅明神坐像・智証大師坐像(御骨大師)・智証大師坐像(中尊大師)・五部心観・智証大師関係文書典籍
(重要文化財)鐘楼・唐院大師堂・唐院灌頂堂・三重塔・毘沙門堂、他仏像、絵画、工芸、文書など多数
(名勝・史跡) 光浄院庭園
近江大津宮錦織遺跡(国の史跡)
唐崎神社(県指定史跡)「唐崎夜雨」
坂本城跡
聖衆来迎寺
(国宝)絹本著色六道絵(15幅)
(重要文化財)客殿、他仏像5件、絵画5件など多数。
(県指定名勝)庭園
衣川廃寺跡(国の史跡)
満月寺・浮御堂「堅田落雁」
聖観音坐像(重要文化財)
小野神社 小野道風神社本殿・小野篁神社本殿(重要文化財)
天皇神社・本殿(重要文化財)
比良山系「比良暮雪」
白鬚神社・本殿(重要文化財)
鵜川四十八体石仏群
大溝陣屋跡
鴨稲荷山古墳(県指定史跡)
大國主神社
今津のヴォーリズ建築群(旧百三十三銀行今津支店・今津教会会堂・旧今津郵便局)
高島市海津・西浜・知内の水辺景観(重要文化的景観)

2012年10月18日木曜日

中街道 (下ツ道)

中街道は、奈良市から橿原市を経て五條市に至る街道。古代では「下ツ道」と呼ばれた古代官道のひとつであった。
○概要
・下ツ道(古代)
7世紀中頃に、奈良盆地を南北に走る大道・下ツ道として整備された。見瀬丸山古墳の前面を起点とし、藤原京の西四坊大路(現在の橿原市八木あたり)から、奈良盆地の中央をまっすぐ北へ進み、平城京の朱雀大路(現在の平城宮跡)に至る。橿原市から大和郡山市にかけては、現在の国道24号の約250m西方に並行する。北は、那羅山の平坂を越えて山背道(やましろのみち)になり、南は、軽(かる、橿原市大軽町)の丸山古墳(旧見瀬丸山古墳)までが直線道で、檜隈(ひのくま)からは西南に向かう巨勢道となり、宇智(うち)を経て紀伊国境の真土山を越えると紀ノ川沿いの木道(きのみち)に達する。奈良時代には飛鳥・藤原京と平城京をまっすぐ繋ぐ大道として盛んに利用されたと思われる。しかし長岡京、平安京への遷都の後は衰退して維持されなくなった。その道路敷は現在、一部で寺川などの河道に利用されている。
・中街道(近世)
奈良から櫟本、丹波市を経て桜井に至る道が「上街道」、郡山から高田に至る道が「下街道」に対し、その間を通る道が「中街道」と呼ばれるようになった。平安京遷都後は平城京自体が衰退し、町の中心部は東の若草山の麓に移り、かつての下ツ道をたどる道筋も少し東へずれることになる。中世以降の中街道は奈良町の西から八木(橿原市)、古瀬(御所市)を経て北宇智(五條市)で下街道と合流する道筋となる。奈良から八木まではほぼそのまま国道24号に沿っている。

2012年10月10日水曜日

法隆寺街道

法隆寺街道は、奈良県生駒郡斑鳩町から橿原市に至る街道。 古代では「筋違道」と呼ばれた古代官道のひとつであった。
○概要
・筋違道
7世紀中頃に、奈良盆地を東西・南北にまっすぐ通る大道が整備されたが、例外的に古い地割に則って斜めに通る道筋が整備された道があった。法隆寺と飛鳥宮を直接まっすぐに結ぶ道として(北北西-南南東方向・南北から約20度)傾いて設置された。当時、聖徳太子が行き来したとされており、後に「太子道」とも呼ばれるようになった。他の東西南北に通る大道が飛鳥時代後期に計画に基づいて設置されたとされるのに対し、筋違道は沿線上に弥生時代から古墳時代にかけての遺跡が多数見つかっていることなどから、そのころには部分的ではあるが既に成立しており、飛鳥時代に他の大道と共に延長・整備し直したと考えられている。
○法隆寺街道
多の例に漏れず、平安京への遷都後は衰退して官道としては維持されなくなった。中世以降は「法隆寺街道」と呼ばれるようになり、道幅は狭くなり、直線道路ではなくなったが、現在も北は斑鳩町高安あたりから中街道と合流する橿原市新ノ口付近までの約13.5kmが道路や畦道として残っている。今も川西町結崎から近鉄黒田駅付近を経て田原本町宮古までの一部区間、約3kmほどが斜めにまっすぐ通る道路としてはっきり残っている。

2012年10月9日火曜日

竜田越奈良街道

竜田越奈良街道は、奈良に至る「奈良街道」の一つ。 大阪と奈良を結ぶ街道の一つであり、斑鳩町の竜田(龍田神社付近)を通る「竜田道」の一つである。 現在は国道25号が踏襲している。龍田(三郷町の龍田大社付近)を越えることから「竜田越」とよばれるようになった。 また、大阪府内では「渋川道」ともいわれる。
○概要・歴史
飛鳥時代に、難波津・四天王寺と斑鳩里・法隆寺を結ぶ街道として整備された。沿道にある大聖勝軍寺を含め、いずれも聖徳太子にゆかりのある地域と関わりがある。聖徳太子自身もこの街道を往復していたといわれる。奈良時代になると、難波京と平城京を結ぶ街道として利用された。最短ルートである暗越奈良街道が急峻な山越えであるため、比較的坂の緩い平坦路として重宝された。斑鳩より東は「横大路」(北の横大路)といわれた。また、現在の大和郡山市横田付近で「下つ道」に合流した。かつて、大和川付け替え前は、途中の「河内国府」(現在の藤井寺市国府)で「長尾街道」「東高野街道」と離合した。また、付近で石川を越えて国分村を経由し、さらに夏目茶屋付近を渡し船で越えていた。 大和川付け替え後は必然的に河内国府を通らない大和川を越えないルートとなった。明治時代に入ると、国分村の北に国豊橋が架けられ、亀ノ瀬の対岸の大和川南岸壁を開削して新たなルートが開設された。比較的平坦だったため現在に至るまでメインルートとなっており、現在は国道25号に指定されている。なお、柏原から三郷にかけては、北側の山道越え(信貴山越と一部重なる)、大和川の北岸に沿うルート(いわゆる亀の瀬越)、対岸の南側を沿うルート(現在の国道25号)など、複数のルートがある。柏原市内で、「亀の瀬」とよばれる地域を通るが、本街道としては現在に至るまで、難所として知られた。明治時代以降に鉄道が敷設されたときに長大トンネルが掘られたが、軟弱地盤のため、崩壊して放棄された。
○経由地(沿線施設等)
・大阪市
四天王寺
杭全神社
・八尾市
大聖勝軍寺
弓削神社
・柏原市
三田家住宅(重要文化財)
柏原市役所・国豊橋北詰・JR高井田駅(右岸ルート)
新大和橋・石川橋(東高野街道・長尾街道重複、国分経由ルート)
国分神社・ジェイテクト(旧光洋精工)工場・川端橋・青谷青少年運動広場(国分経由ルート)
河内堅上駅
・三郷町
龍田大社
三郷町役場
近鉄信貴山下駅
・斑鳩町
竜田川・竜田大橋(十三街道・清滝街道交点)
龍田神社
斑鳩町役場
法隆寺
奈良交通法隆寺バスセンター
法起寺
・大和郡山市
慈光院
近鉄郡山駅
郡山城・城下町
九条公園
・奈良市
佐保川

2012年9月8日土曜日

西国街道

西国街道とは、江戸時代における街道のひとつであり、近世山陽道の別名である。また、西国路、中国街道、中国路、山陽路などとも呼ばれる。京都から下関までの経路で、律令時代に整備された大路と一致する。また、狭義の西国街道として同街道の内、西宮?下関まで区間、あるいは同じく京?西宮までの区間を指すこともある。
○概要
江戸時代には、いわゆる「街道」が整備されることになった。この街道においては、藩領内であっても江戸幕府の道中奉行が支配するなど、再び中央と地方の連絡が国家的に整備されたとも言える。街道には宿場が指定され、人馬の継立を行う問屋場や、諸大名の宿舎としての本陣、脇本陣、そして武士や一般庶民などの宿舎であった旅籠などが整備された。江戸時代の道路としての山陽道は、京都の羅城門(東寺口)から下関の赤間関に 至る道として再整備されたものである。 幕府は、江戸を中心とした五街道に重点を置く街道整備政策を行ったが、その延長線上に山陽道は脇街道に位置付けられることとなった。この山陽道を当時は西国街道(または西国往還)と呼ぶこともあり、道幅二間半(約4.5m)と定められ整備された。下関から関門海峡を越えて小倉へと至ることで、江戸と長崎を結ぶ幹線道路の一角でもあった。これらのことは、寛永10年(1633年)の幕府巡視使の巡視を契機としたが、寛永12年(1635年)年参勤交代制の確立のためにも重要な街道であった。なお呼称には多少の重複混同が生じているが、安土桃山時代頃までは前述の京都~西宮間は山崎街道(唐街道・山崎通り)、そして西宮~下関間を狭義での西国街道、大坂~尼崎~西宮間は中国街道[3]などと呼称する場合が多いようである。長州藩は、整備に力を注いだ。慶安2年(1649年)の長州藩が幕府へ提出した絵図(正保国絵図)には、山陽道に30カ所の馬継ぎを設置したことが記されている。
○区分
京都から下関までのうち、以下のように区分されることもある(多少の重複がある)。
・京?西宮(山崎通)
西国街道のうち、特に六宿駅、山崎宿(大山崎町・島本町)・芥川宿(高槻市)・郡山宿(茨木市)・瀬川宿(箕面市)・昆陽宿(伊丹市)・西宮宿(西宮市)が設けられていた京都から西宮の区間を指し山崎街道(やまさきかいどう)、山崎路(やまさきじ)、山崎通(やまさきのみち)といった。大坂を経由せずに西国へ抜ける脇街道として西国大名の参勤交代に利用され繁栄した。なお狭義の西国街道として、この山崎通を西国街道と呼び、西宮以西のルートを山陽街道とすることもある。現在、旧街道に並行するように国道171号が京都?神戸(西宮 - 神戸間は国道2号重複)間を結んでいる。さらに山崎通とは別に、京と大坂を結ぶ街道として京街道 (大坂街道)がある。他にも大坂と西宮を結ぶ浜街道があり、別名で狭義での中国街道(ちゅうごくかいどう)、中国路(ちゅうごくじ)、中国道(ちゅうごくどう)とも呼ばれた。両者とも現在でも主要な幹線道路のルートとして引き継がれている。
・西宮?下関
西宮?下関までを狭義での西国街道と呼ぶこともある。また、打出(芦屋)から生田神社(神戸元町)前までは山側と海側の南北二手に分岐しており、山(北)側のルートを西国本街道、海(南)側のルート西国浜街道と呼んだ[5]。
・徳川道
また、幕末には、1867年(慶応3年)の神戸開港に伴い、生麦事件のような外国人と大名行列の衝突を避けるために、石屋川(神戸市東灘区) - 大蔵谷(明石市)間を六甲山中を抜けて迂回する西国往還付替道も開削された。しかし、開通3ヶ月後の1868年(慶応4年)3月に、外国人居留地を小迂回する別の道が設けられ、あまり使われないまま廃れていった。現在、神戸市・明石市内に部分的に残る西国往還付替道は、地元では徳川道と呼ばれている。
○宿場一覧
京都東寺 - 起点
1.山崎 (大山崎町・島本町)
2.芥川 (高槻市)
3.郡山 (茨木市) - 郡山宿本陣が現存
4.瀬川 (箕面市) - 能勢街道との結節点
5.昆陽 (伊丹市)
6.西宮 (西宮市)
7.大蔵谷 (明石市)
8.加古川 (加古川市)
9.御着 (姫路市)
10.姫路 (姫路市)
11.正條(たつの市)
12.片島(たつの市)
13.有年(赤穂市)
14.三石(備前市)
15.片上(備前市)
16.藤井(岡山市)
17.岡山(岡山市)
18.板倉(岡山市)
19.川辺(倉敷市)
20.矢掛(矢掛町)
21.七日市(井原市)
22.高屋(井原市)
23.神辺(福山市)
24.今津(福山市)
25.尾道(尾道市)
26.三原(三原市)
27.本郷(三原市)
28.西条(東広島市)
29.海田市(海田町)
30.広島(広島市)
31.廿日市(廿日市市)
32.玖波(大竹市)
33.関戸(岩国市)
34.玖珂(岩国市)
35.高森(岩国市)
36.今市(周南市)
37.呼坂(周南市)
38.久保市(下松市)
39.花岡(下松市)
40.徳山(周南市)
41.福川(周南市)
42.富海(防府市)
43.宮市(防府市)
44.小郡(山口市)
45.山中(山口市)
46.船木(宇部市)
47.厚狭市(山陽小野田市)
48.吉田(下関市)
49.小月(下関市)
50.長府(下関市)
下関(下関市) - 終点
○備考
現代において、かつての西国街道やそれに並行する国道・県道等のことを岡山県内や広島県東部では、「西国街道」とは呼ばず、「旧山陽道」と呼ぶ。その理由としては、岡山県岡山市?広島県福山市にかけて国道2号が、かつての西国街道に並行したルートを通らず、鴨方往来に並行したルートを辿っているためである。

2012年8月2日木曜日

長尾街道

長尾街道とは、大阪府堺市堺区から東へ向かい、二上山の北麓・田尻峠を越えて、奈良県葛城市の長尾神社付近に至る街道である。ほとんどの区域で大阪府道・奈良県道12号堺大和高田線に平行し(一部は重複)、同線が長尾街道と通称されるため、旧長尾街道と呼ばれることもある。また、堺市の市街地では花田口筋とも呼ばれる。
○成り立ち・歴史
長尾街道は、日本書紀の推古天皇二十一年(613年)の条に「難波より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記されていた日本最古の「官道」である「竹内街道」の北1,908m(但し計画値)に平行して整備された。 古くは「大津道」と呼ばれた。大津の名は、羽曳野市北宮にある式内大津神社に由来するといわれるが、大和川と石川の合流地点が大津と呼ばれた時期があったことがあり、その大津に至る道という意味で大津道といい、細長い海岸浜堤を長狭(ながお)といい、その特徴から長尾街道と名が付いたという。奈良時代以降になると、その北側に「竜飛道」(のちの奈良街道)が整備された。河内国府(現在の土師ノ里駅付近)で本道と合流し、国分(現在の河内国分駅前)で分かれた、難波京・住吉津と飛鳥・平城京を結ぶ重要な経路となった。河内国と大和国の間の山越えルートは、明治以前は国分村六軒(柏原市国分本町7丁目付近)から現在の近鉄関屋駅・二上駅の北側を通った「関屋越え」のルートであったが、明治13年(1880年)に田尻峠越えのルートが開削された。さらに近辺での付け替えにより現在の国道165号の道のりとなった。
○経由地(沿線施設等)
・堺市
大道筋(紀州街道)交点(近世以降の起点)
堺市立殿馬場中学校・東本願寺堺南御坊
堺東駅(北側。地下道)
百舌鳥耳原北陵・方違神社
堺市駅(南側、周辺に長尾町の地名や堺市立長尾中学校がある)
長曽根変電所
小今池橋(狭間川)
堺市立五箇荘小学校
愛染院
府道大阪高石線(あびこ筋・ときはま線)交点
宝蔵神社・ 勝手大明神
難波大道交点
・松原市
朝日プラザ松原
布忍橋(西除川)
布忍駅(南側)
市立松原病院・ 松原警察署・ 国道309号交点
松原スイミングスクール・ 寺池
府道大阪中央環状線交点
市民恵我図書館
高鷲橋(東除川)
・羽曳野市
丹比高鷲原陵(雄略天皇陵)
・藤井寺市
藤井寺自動車教習所
藤井寺市立藤井寺小学校・ 市民総合会館・ 府道12号交点
藤井寺市役所・藤井寺市立藤井寺中学校
藤井寺インターチェンジ
藤井寺市立図書館・ 国道170号外環状線交点
国道170号旧道交点・ 市ノ山古墳(允恭天皇陵)
道明寺駅(北側)・ 玉手橋・ 石川橋(石川)
・柏原市
パナソニック サイクルテック本社工場
原川橋(原川)
河内国分駅(駅前)・ 国道25号交点
大阪教育大前駅・ 国分病院
柏原インターチェンジ
・香芝市
田尻峠・ 屯鶴峯・ 二上山
二上山駅(北側)
JA経済センター(畑5丁目付近)
出口橋(磯壁3丁目付近)・ 国道168号交点
福応寺・ 狐井城山古墳
・葛城市
(国道168号)
磐城駅・ 長尾公園墓地
国道166号交点
竹内街道交点

竹内街道

竹内街道は、大阪府堺市から東へ向かい、二上山の南麓・竹内峠を越えて、奈良県葛城市の長尾神社付近に至る約26kmの街道である。羽曳野市の白鳥交差点から葛城市の竹内集落付近までの区間は、そのほとんどの区域が国道166号に指定されている。
○成り立ち・歴史
竹内街道は日本書紀の推古天皇21年(613年)の条に「難波(大阪)より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記されていた、日本最古の「官道」。 現在の竹内街道は、大部分は推古天皇時代の官道と重なっている。東側は奈良盆地南部を東西に横切る官道横大路につながっている。 かつては丹比道(たじひみち)と言われた。丹比野を横断するのでその名が付いたと推定されている。天武天皇元年7月1日(672年7月30日)の条に「会明に、西の方を臨み見れば、大津・丹比、両の道より、戦の衆多に至る」とみえ、壬申の乱にも使われていたことが分かり、長尾街道と竹内街道であると推定されている。この道は、古市古墳群と百舌鳥古墳群のほぼ中央部を走る東西道路であり、2つの古墳群を繋ぐ道路であったとも考えられる。長尾街道より遅れて敷設されたと考えられる。また、この街道を直線道路として東西に延長すれば誉田山古墳南端の後円部に、大山古墳の南東端部の前方部に接して通っていることになる。つまり、この二つの巨大古墳は地図上の北緯線上に造られていることが分かる。官道として整備されたのは上記の通り7世紀初め頃であるが、二上山の西麓(現在の大阪府太子町)には4世紀から5世紀にかけての陵墓・古墳などの遺跡が数多く残っているため、すでにかなりの人々の往来があったと思われる。飛鳥時代には、遣隋使の使節や留学僧が往来し、大陸から中国や朝鮮の文化をもたらし、飛鳥文化のいしづえとなった。中世には伊勢街道の一部として存続し、現在では国道166号が通っている。したがって竹内街道は飛鳥時代より現在に至るまで街道として利用されていることになる。近世には起点を堺大道筋(紀州街道)交点とした。江戸時代、沿道の竹内集落に松尾芭蕉が一時期住んでいた。現在、そこに芭蕉歌碑の綿弓塚があり、公園として整備されている。
○経由地 (沿線施設等)
(西側から記述する)
・堺市
堺(大小路交差点=大道筋交点) - 瓦町(堺市役所) - 榎元町(西高野街道と分岐) - 大阪市交通局中百舌鳥検車場 - ときはま線と交差 - 金岡町(金岡神社) - 大阪中央環状線と斜めに交差(この付近で難波大道と合流) - 大泉緑地南沿い - 野遠町(下高野街道と交差) - 西除川(西除橋)
・松原市
岡町(丹南北交差点=国道309号交点) - 岡(丹南東交差点=中高野街道と交差) - 立部(立部西・立部東交差点=大阪中央環状線交点)
・羽曳野市
野(野公民館前) - 東除川(伊勢橋) - 豊川病院前 - ボケ山古墳(仁賢天皇陵)付近 - 軽里1丁目交点 - 白鳥交差点(国道170号交点) - 古市駅前 - (国道166号) - 上ノ太子駅前
南河内郡太子町
六枚橋交差点(太子町役場付近) - (旧街道) - 竹内街道歴史資料館 - 風鼻橋東詰交差点(道の駅近つ飛鳥の里太子付近) - 竹内峠
・葛城市
高峰神社付近 - (旧街道・竹内集落内) - 芭蕉旧跡綿弓塚 - 竹内交差点南 - 長尾街道交点 - 長尾神社 - 長尾交差点(以東は横大路)

俊徳街道・十三街道

十三街道あるいは 俊徳街道と呼ばれる道は、大阪府大阪市の玉造駅付近あるいは四天王寺南門付近から、奈良県生駒郡斑鳩町の竜田までを結ぶ街道のこと。古くは、大阪・玉造と玉祖神社を結ぶ道として、『玉祖道』とも呼ばれた。中世には 『十三峠道』 あるいは 『俊徳道(しゅんとくみち)』 、明治時代以降の近世には 『十三街道』『俊徳街道』 と呼ばれるようになった。厳密には、十三街道と俊徳街道は別の街道であるが、地理的・歴史的に一体と見なす場合が多いため、本頁では『俊徳街道・十三街道』とする。
○概要・歴史
古くは、奈良時代の頃から難波・四天王寺と平城京を結ぶ街道のひとつとして整備された。俊徳街道は、現在の大阪市・四天王寺南門付近を起点とし、大阪市内の御勝山古墳の東側、北巽駅付近を経由し、東大阪市の三ノ瀬付近で十三街道に合流する。十三街道は、大阪市内の玉造駅付近からはじまり、東大阪市足代付近で暗越奈良街道と別れて南下し、三ノ瀬付近で俊徳街道に合流する。(合流地点までの経路や合流地点については諸説ありではっきりしないようである。) 俊徳道駅付近を通り、若江南で河内街道と合流、八尾市幸町で河内街道と分かれ、心合寺山古墳の北側、神立地区、十三峠、平群町福貴畑地区を経由し、平群町役場付近の竜田川沿いで清滝街道と合流(重複)し、斑鳩町の竜田大橋付近で奈良街道に合流する。本街道は、沿道に伝わる様々な伝説との関わりが深い。(後述)
○玉造と玉祖神社
八尾市の神立集落、この街道から少し南に外れた位置に玉祖神社がある。また、この付近には、大和朝廷の頃から曲玉(まがたま)を作っていた玉造部(たまつくりべ)の人々が暮らしていた。 大阪・玉造も同様であり、地理的な関わりも深く、街道を通じて深い交流があったといわれる。
○在原業平伝説
平安時代の歌人・在原業平が竜田から十三峠を越えて枚岡神社に参詣したおり、「神立茶屋辻」にあった茶屋の「梅野」という娘に恋をして、八百夜も通いつめたといわれる、『業平の高安通い』として伝えられている。また、この言い伝えにより、在原業平が通ったとされる現在の天理市から十三峠を越えて八尾市に至る道筋を『業平道』ともいう。玉祖神社には、業平が娘を呼び出すために吹いたという笛が伝えられている。
○俊徳丸と俊徳道
河内国・高安に住んでいた俊徳丸が、高安から四天王寺へ通った道筋といわれ、沿道の広範囲に亘り『俊徳』と冠される施設・旧跡などが点在する。
街道から少し南に外れた八尾市山畑地区に、『俊徳丸鏡塚』と呼ばれている塚がある。本来は高安古墳群に含まれる横穴式石室墳であるが、いつしか俊徳丸の伝説と結びついた。
○水呑地蔵・十三塚
八尾市神立・十三峠までの山の中腹に『水呑地蔵院』があり、本堂に『水呑地蔵』と呼ばれる地蔵菩薩が安置されている。本堂脇の小祠に水壺があり、清水がわき出ている。弘法大師が祈願して得られた霊水といわれており、地元では古くから名水として知られている。十三峠のすぐ北の尾根に『十三塚』と呼ばれる塚があり、街道および峠の名はそれに由来している。
○主な沿道施設・史跡
・大阪市
御勝山古墳
平野川(俊徳橋)
城東運河(北巽橋)
・東大阪市
布施警察署
近鉄俊徳道駅
JR俊徳道駅
大阪府立布施工科高等学校
近畿大学
第二寝屋川
・八尾市
市立埋蔵文化財調査センター
大阪府営高砂住宅
恩智川(福栄橋)・大阪府立みどり清朋高等学校(東大阪市)
心合寺山古墳
水呑地蔵院
・平群町
十三峠・十三塚
大石橋
平群町立平群西小学校
竜田川

2012年6月10日日曜日

瀬川合戦

瀬川合戦は、元弘3年(1333年)に行われた赤松則村(円心)を総大将とする後醍醐天皇軍と鎌倉幕府六波羅探題軍との戦い。
○開戦経緯
元弘元年(1331年)に後醍醐天皇が起こした元弘の乱以後、鎌倉幕府倒幕運動が盛んになり、護良親王の令旨を受けて播磨国で赤松則村が挙兵した。赤松則村は挙兵後、六波羅探題側の武将を次々と破り、元弘3年(1333年)に摂津国摩耶山に城を築城した。同年六波羅探題側の軍勢は2月11日に赤松軍を討伐するため、摩耶山麓に陣を構えるが赤松勢に破られた。28日、六波羅側は摩耶山麓に再度陣を構えるが、猪名川付近まで赤松方が攻め入り、赤松方は猪名川付近に停滞して六波羅方を待ち構えた。同年3月10日になると、六波羅方も猪名川付近に布陣し、両軍の睨み合いが続いたが、10日夜になると尼崎から上陸した四国の小笠原勢が赤松方に攻め入り、赤松方は敗走する事になる。
○開戦
『太平記』によると、赤松則村は四国の小笠原勢に敗走するが、赤松則祐の進言により、約3000騎の兵を率いて瀬川宿(現:大阪府箕面市)に陣を構えていた約23万騎の六波羅探題に夜襲をかけ、六波羅方を打ち破ったと書かれている。これを機に、赤松則村は赤松則祐の六波羅探題追撃の進言を聞き入れ、3月12日には山城国山崎に侵攻し、その後赤松方は六波羅方を攻め続け、同年に六波羅は鎌倉に敗走して元弘の乱は終結している。

2012年3月8日木曜日

郡山宿本陣(椿の本陣)

郡山宿本陣(椿の本陣)は江戸時代に、西国大名等が宿泊した旅館で、国の史跡指定を受けています。御成門(おなりもん・入口)を入ると、見事な椿の木があったので、通称『椿の本陣』とも呼ばれています。
京都と西宮を結ぶ西国街道のほぼ真ん中にあり、『摂津郡山駅本陣』といいますが、御成門(正面入口)の脇に、椿の老樹が美しい花を咲かせていたので、誰いうことなく“椿の本陣”と呼ばれるようになりました。
建物は、享保3年(1718年)に類焼にあい、宿帳を除き貴重な古記録はなくなりましたが、3年後の享保6年(1721年)に再建されて以来、およそ280年間そのままの規模で残されています。
宿帳に残されている宿泊者の中には、忠臣蔵で有名な赤穂(あこう)城主浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、元禄10年から同14年(1697年~1701年)まで毎年宿泊した記録が残されています。この度、平成の大修理を行い、公開のための展示施設なども設けられました。
所在地
宿川原町3-10
阪急バス 郡山団地行き 宿川原下車 西へ徒歩2分