2012年4月11日水曜日

慈眼寺

福聚山慈眼寺は、大阪府大東市野崎にある寺院。野崎観音として知られる。本尊は十一面観世音菩薩。宗派は曹洞宗。愛知県知立市に、宗派も山号も全く同じ慈眼寺が存在する。
○概要
江戸時代より続く、有縁無縁問わずすべてのものに感謝を捧げる『野崎参り』で知られ、その期間である5月頭は参拝客で賑わう。人形浄瑠璃や落語の作品を通じても知られている。境内には南條神社や役小角像も鎮座し、神仏習合や修験道の歴史を今に伝えている。四天王によって守護される本堂には、十一面観音菩薩、普賢菩薩、文殊菩薩が祀られており、平成11年に完成した壁画「花蝶菩薩」には、黄道十二星座が表現されている。本堂周囲には当寺中興の祖と位置付けられる遊女、江口の君(江口の長者)を祀り、婦人病と子授けの御利益があるとされる江口堂や、一番から三十三番まである河内西国霊場すべてを拝むことができるという三十三所観音堂、釈迦の16人の弟子(十六羅漢、じゅうろくらかん)を祀り、北河内の遊び歌において「野崎観音十六羅漢、うちの親父は働かん」とユーモラスに歌われる羅漢堂などがある。ただし、羅漢堂は昭和26年に山崩れによって流失し、羅漢像そのものは修復されたものの、現在あるのは仮設堂である。境内からは吊り橋を通って河内飯盛山などへ至る登山道があり、休日は登山者も多い。また、毎週日曜日に座禅会が開かれており、毎月18日には写経会が開かれている。
○歴史
天平勝宝年間(749年 - 757年)にインドから来朝した婆羅門僧正が行基に「野崎は釈迦が初めて仏法を説いた鹿野苑(サルナート)に似ている」と語り、それを受けて行基が白樺で十一面観音を刻んで当地に安置したのが始まりと伝えられる。本尊は長谷寺の本尊と同木から彫られたという。平安時代に江口の君が、難病治癒の報恩感謝のため現在の場所に寺を移転し、再興に尽力(真言宗説がある)。中世以後は戦乱により衰微し、特に永禄8年(1565年)には三好義興・松永久秀の戦禍(東大寺大仏殿の戦い)にかかり、本尊を除いて全焼した。元和2年に(1616年)青厳によって再興され、天和2年(1682年)に野崎参りが始まる。元禄・宝永年間(1688年 - 1710年)に野崎参りが盛んになるにつれ繁栄するようになった。かつては西側一帯は大坂からつながる大きな池(深野池)があり、大坂からは野崎参りの屋形船が行き来していた。大和川付け替え以降は寝屋川および支流の谷田川を行き来するようになった。 天満橋にあった八軒家船着場から上っていくのが有名であり、陸路を歩く参拝者と罵り合って競り勝てば一年の幸を得られたと伝えられている。
○境内
正門
楼門
三十三所観音堂
南條神社
本堂
生駒山地北部の中腹に位置し、境内からは大阪平野を望むことができる。
○文化財
本堂壁画「花蝶菩薩」
石造九(八)重層塔 - 金石文によると1294年に沙弥入蓮と秦氏によって造立されたものであり、北河内地方最古の層塔とされる。室戸台風で最上部を失い、八重層の塔となっていたが昭和59年に最上部が地元中学生により発見され、平成17年に復元された。
涅槃絵図
いずれも大東市の有形文化財である。
○交通
・ 鉄道
西日本旅客鉄道(JR西日本)片町線(学研都市線)野崎駅から東へ約1km。
・バス
近鉄バス国道170号線「野崎観音前」バス停から東へ約200m。
○所在地
大阪府大東市野崎二丁目7-1








大神社

祭神は天照大神。本殿は神明造りで本殿前左右狛犬の台座から文政十年(1827)新造と判明。拝殿は文久三年(1863)に建立。
所在地:大東市太子田




太子堂

伝承ではこの地に善根寺という七堂伽藍の古刹があったという。その寺にあった聖徳太子孝養像を大正10 年にお堂を建てて祀ったのが始まりであるという。
所在地:大阪府大東市太子田



善宗寺

浄土真宗本願寺派。記録によると平安中期の後朱雀天皇のころ大和斑鳩(いかるが)の中宮寺が縁あって中垣内に一宇を建立したという。その後失火や兵火にあったが、再建に努力した善了・宗円の名にちなみ善宗寺に改めたという。
所在地:大阪府大東市中垣内2-5-24

専応寺

浄土真宗本願寺は。本堂・太子堂・鐘楼・山門・庫裏の整った江戸中期の建築物。創建は親鸞聖人の直弟子の唯信。れらには聖徳太子自作と言われる孝孝像や永正17年(1520)の仏画が伝わる。なお梵鐘は「永宝8年」(1680年)の銘がある。
所在地:大阪府大東市野崎2-9-50



石造九重層塔

現在、相輪を欠くのみである(高さ3.3 ㍍)。鎌倉時代に造立されたもので、この台座の金石文は北河内最古のものである。それによると、永仁二年(1294)4月に、沙弥(しゃみ)入蓮(沙弥とは出家しているが僧侶にならず、家族と共に生活している者)と秦(はた)氏が、主君並びに二親の霊を弔うため建立寄進したものである。
所在地:大阪府大東市野崎2-7-1

 

中筋山手東古墳群

宝塚市中筋山手四丁目14番地にある古墳群である。古墳群となっている以上複数の古墳があるのでしょうね。現在残っているのは2号墳と3号墳だけらしい(実際行ってみると古墳の形を残していて、石室が明確に残っているのはこの2つだけのようである。いくつか円墳のように盛り上がった山の様な物や石が寄せ集められているような物があったが古墳かどうかは不明である)。「中筋山手東古墳群」という標識(文字が消えかけている)があってその矢印の方角に進んで行き、突き当りの家の裏側にある古墳群です。


■2号墳
宝塚市史跡に指定されている。宝塚市中筋山手四丁目14番地、バス通りの一本西の住宅地内の通りを北へ進み、突き当たりの民家裏にあります。通りからは見えませんが、民家のすぐ右を通り抜けて裏に回ると墳丘があります。石室が南の民家に向いて開口しています。玄室の途中に石材を突きだして前後に分けた複室構造で、全長8m、玄室幅1.5m、高さ2.5mの規模で、石材をやや持ち送りながら丁寧に積みあげています。結構石室はきれいに保存されている方である。





■3号墳
2号墳のすぐ北西の林の中にあります(場所が分かりにくかった)。径12mほどの円墳で、横穴式石室が良好に残されています(2号墳程ではないが)。全長約7m、玄室長5m、幅1.2m、高さ2.5mの両袖式ですが、袖部が非常に狭く、玄室も極端に縦長構造です。2号墳が市史跡でが、こちらは指定されていないらしい。







古墳を見学しに行ってみた感想ですが、この古墳の所在地は結構分かりにくかったと思う。最初に標識があったがその標識の方に進んでもどこにあるのか分からず、近所の人に聞いて始めて場所が分かった。市の史跡に登録されている割に看板や標識が少なかったように感じる部分があった(民家の裏にある林の中にある古墳なので仕方ない部分もあるのかもしれないが)。
所在地:宝塚市中筋山手四丁目14番地

大井戸古墳

この古墳は、直径約13mの円墳と思われ、古墳時代後期に造られたものです。この時代の古墳は、丘陵上に多くの小古墳を固めて造る「群集墳」の形態をとるのが普通で、単独で平野部に古墳が造られるのはむしろ珍しい。昭和43年に確認のための調査を行い、石室は花崗岩の自然石を使用した横穴式石室で、長さ6m、幅約1.5mで、南を入り口としていることがわかりました。出土遺物は、石室内部の調査を行っていないので、封土から須恵器が出土している以外不明です。なお、現在は古墳の上に盛土して、以降を保存している。
所在地:兵庫県尼崎市武庫之荘3-425(大井戸公園内)
最寄駅:阪急神戸線武庫之荘駅



丸山古墳

面積82平方メートルばかりの円墳で、その頂きに長方形と宝冠杉の石塔2基が安置され、墳丘には老松が繁茂し、その西、やや低下したところに、濠(ほり)の跡らしい大小2つのくぼ地があり、一見貴人の墳墓であることが見取られ、その形状から人々は丸山と呼んでいました。大正12年、古墳の表土が鋳物用に好適の土であるということから採掘され、石棺、香炉など多くの埋葬物が発見されたが、今日のように考古学が発達していない時代で、調査研究等一切行われず、丸山古墳はその出土品とともに姿を消してしまいました。
丸山古墳が在ったとされるこの辺りは現在では住宅地になっており、その面影は全くない。
丸山古墳は1796年(寛政8年)に刊行された『摂津名所図会』では「兼好古墳」とあり、兼好法師がこの地に隠棲していたとの言い伝えが古くからあったと思われる。
所在地:大阪市阿倍野区丸山通2丁目
最寄駅:阪堺電鉄「松虫」下車、阿倍野の方に戻り、阿倍野警察署の手前の信号を西に入る約400m。東急ドエル・アルス前

 

柏木古墳



伊丹市に昔、柏木古墳という古墳があったことをご存知ですか。この古墳は、伊丹台地上に築造された猪名野古墳群に属する5世紀の大型円墳で、規模は直径55メートルにおよぶと推定されています。発掘調査によって周濠を持ち、墳丘に付記石と埴輪が存在した事が分かっていますが、埋葬施設等の詳細については不明です。
今はその古墳があった場所に墓地があるのですが少し小高い丘のようになっています。
所在地:伊丹市柏木町1丁目

2012年4月10日火曜日

勿入渕(ないりそのふち)跡

古代に本市西部から守口・門真市にかけて、「八ヶ(はっか)の湖」があり、後にナイスケの渕と呼ぶようになったが、この辺りでは「勿入の渕」と呼んだ。この渕については清少納言の枕草子や貝原益軒の南遊紀行の中にも出てくる。
住所:大阪府大東市諸福



野崎城

野崎城は、大阪府大東市にあった城。
○概要
野崎城は、慈眼寺(野崎観音)の裏山に築かれた城で、標高114.4mの山頂に本曲輪の削平地を構築した。また飯盛山の東の支脈の突き出した場所で、平地が狭かったことから、交通の便、天然の要害で古くから戦略上の要点とされてきた。慈眼寺から飯盛山城に向かう登山道にこの野崎城が位置する。
○沿革
河内国守護畠山氏の内紛の際、畠山尚順が立てこもる野崎城に畠山義豊が攻めた、という記述あるのみで、歴史については不明な点が多い。河内国の北半分の拠点であった若江城の支城として、守護代の遊佐氏が守っていたのではないかという説もある。飯盛山城が築城後は、東高野街道から飯盛山城に向かう推定の大手通り上に野崎城があるため、むしろ飯盛山城の支城となったのではと考えられている。野崎城に関する築城、廃城が記載された文献は残されていないが、廃城に関しては、飯盛山城と同時期天正4年(1576年)ではないかと推定されている。
○城郭
山頂に本曲輪を設け、その東側に10m以上の堀切を配し、本曲輪の西と北に出曲輪、更に西の山麓の傾斜添いに3段にわたる4つの曲輪を設けている。
○城跡へのアクセス
車でのアクセス
阪神高速 東大阪線 水走出入口 → 国道170号旧道を北上
近隣に駐車場無し(慈眼寺に参拝者用の駐車場有り)
公共交通機関でのアクセス
JR 学研都市線 野崎駅 → 約10分 → 野崎観音 → 約10分


諸福天満宮

当社は寛永二十年(1643)にこの地に勧請され、本殿も同時に造られ江戸初期の流造りの様式ながら桃山建築の雰囲気を残している。隣の勝福寺は当社の宮寺でもあった。
所在地:大東市諸福1-7-13





十林寺

浄土真宗本願寺派。由緒は不明であるが、「紫雲山蓮光寺略縁起」が伝わり、寺川という地名のおこりもうかがえる。
所在地:大阪府大東市寺川4-6-12







十念寺





浄土宗西山派。楠正行公菩提寺といわれる。二百数十年前再建される時寄附集めのため回した勧進状の木版が伝わっており、四條畷の合戦で倒れた武士の霊魂が山野をさまよっていたので融通念仏を唱えるとおとなしくなったとある。
所在地:大阪府大東市北条6-4-49