2018年4月28日土曜日

八坂神社

八坂神社は、京都府京都市東山区祇園町北側にある神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする関連神社(約2,300社)の総本社である。通称として祇園さんとも呼ばれる。7月の祇園祭(祇園会)で知られる。
○社名について
元の祭神であった牛頭天王が祇園精舎の守護神であるとされていたことから、元々「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていたものが、慶応4年=明治元年(1868年)の神仏分離令により「八坂神社」と改められた。
○概要
京都盆地東部、四条通の東のつき当たりに鎮座する。境内東側にはしだれ桜で有名な円山公園が隣接していることもあって、地元の氏神(産土)としての信仰を集めるとともに観光地としても多くの人が訪れている。正月三が日の初詣の参拝者数は近年では約100万人と京都府下では伏見稲荷大社に次ぐ2位となっている。また東西南北四方から人の出入りが可能なため、楼門が閉じられることはなく伏見稲荷大社と同じように夜間でも参拝することが出来る(防犯のため、監視カメラ設置。また、夜間でも有人の警備は行われている)。
○祭神
現在の祭神は以下の通り。
主祭神中御座:素戔嗚尊 (すさのおのみこと)
東御座:櫛稲田姫命 (くし(い)なだひめのみこと) - 素戔嗚尊の妻
西御座:八柱御子神 (やはしらのみこがみ) - 素戔嗚尊の8人の子供(八島篠見神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売命)の総称
配神(東御座に同座) 神大市比売命、佐美良比売命 - いずれも素戔嗚尊の妻
(西御座に御座) 稲田宮主須賀之八耳神
明治時代の神仏判然令以前は、主祭神は以下の3柱であった。
中の座:牛頭天王 (ごずてんのう)
東の座:八王子 (はちおうじ)
西の座:頗梨采女 (はりさいにょ・ばりうねめ)
牛頭天王は起源不詳の習合神で祇園精舎を守護するとされ、日本では素戔嗚尊と同神とされていた。頗梨采女は牛頭天王の后神であることから素戔嗚の后である櫛稲田姫命と同一視された。櫛稲田姫命は方角の吉方(恵方)を司る歳徳神(としとくしん)と同一と見なされていた事もあり暦神としても信仰された。八王子は牛頭天王の8人の王子であり、暦神の八将神に比定された。
また、東御座には社伝に明確な記述が無い蛇毒気神(だどくけのかみ)が祭られている。この神は沙渇羅(さから)龍王の娘で今御前(第二婦人のこと)と呼ばれる。または、ヤマタノオロチが変化したものとも考えられている。
○歴史
社伝によれば、斉明天皇2年(656年)、高句麗から来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)の創建とされる。牛頭天王は釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされるが、実際にはインド、中国、朝鮮において信仰された形跡はなく、日本独自の神である。名は新羅の牛頭山に由来するのだという説があるが、これも定説にはなっていない。そして山城国愛宕郡八坂郷に祀り、「八坂造」の姓を賜ったのに始まるとする。しかし、上記の伊利之使主創建説は現存する歴史資料からは根拠に乏しいものと批判されている。戦後における祇園社の創祀についての先駆的な学術的研究は久保田収の「祇園社の創祀について」であり、これは今日においても一定の支持を得ている。久保田は同論文において史料を詳細に検討した結果、祇園社は貞観18年(876年)僧・円如が寺院を建立し、ほどなく祇園神が垂迹したものと結論づけている。なお、中世において吉田神道に採用され、江戸時代には通説化していた播磨国広峯遷座説については、平安時代の史料に全くあらわれず鎌倉時代以降に広峯社側から主張しはじめたとの文献検討の結果、これを否定している。祭神は当初は「祇園天神」または「天神」とだけ呼称されており、牛頭天王(およびそれに習合した素戔嗚尊)の名が文献上は出てこないことから、最初は牛頭天王・素戔嗚尊とは異なる天神が祭神であり、やがて(遅くとも鎌倉時代には)牛頭天王と素戔嗚尊が相次いで習合したものと考えられている。古くからある神社であるが、延喜式神名帳には記されていない。これは神仏習合の色あいが濃く当初は興福寺、次いで延暦寺の支配を受けていたことから、神社ではなく寺とみなされていたためと見られるが、後の二十二社の一社にはなっており、神社としても見られていたことがわかる。平安時代中期ごろから一帯の産土神として信仰されるようになり、朝廷からも篤い崇敬を受けた。祇園祭は、貞観11年(869年)に各地で疫病が流行した際に神泉苑で行われた御霊会を起源とするもので、天禄元年(970年)ごろから当社の祭礼として毎年行われるようになった。祇園社は当初は興福寺の末社であったが、10世紀末に戦争により延暦寺がその末寺とした。1070年には祇園社は鴨川の西岸の広大の地域を「境内」として認められ、朝廷権力からの「不入権」を承認された[5]。このころから祇園社は紀氏一族が執行家として世襲支配するようになる(宝寿院 (祇園社の社家)参照)。嘉禄3年(1227年)延暦寺は、法然の墓所を感神院の犬神人に申し付けて破却する。1384年に足利義満は、祇園社を比叡山から独立させた。だが、それで祇園社が幕府配下となったわけではなく、以降、祇園祭は経済的に力をつけていた京の町衆により行われるようになり、現在に至っている。慶応4年(9月8日に1月1日に遡って明治元年に改元)の神仏混交禁止により「感神院祇園社」の名称を「八坂神社」と改めた。近代社格制度のもと、明治4年(1871年)に官幣中社に列格し、大正4年(1915年)に官幣大社に昇格した。
○摂末社
()内は各社祭神。
・摂社
疫神社 祭神:蘇民将来
悪王子社 祭神:素戔嗚尊の荒魂
京都市下京区に「悪王子町」と「元悪王子町」と名の付く町があり、昔はこの町内に祀られていた。現代語の「悪」とは意味合いが少し違い、昔は「悪=強力」と言う意味合いもあった。明治10年(1877年)に八坂神社で祀られる様になった。冠者殿社 祭神:天照大御神との誓約時の素戔嗚尊の御気
・末社
北向蛭子社-祭神:事代主神
大神宮-祭神:天照大神・豊受大神
美御前社-祭神:宗像三女神(多岐理比売命・多岐津比売命・市杵島比売命)
大国主社-祭神:大国主神・事代主神・少彦名命
玉光稲荷社-祭神:宇迦之御魂神。玉光稲荷社権殿の「命婦稲荷社」と二社で一体とされている。
日吉社-祭神:大山咋神・大物主神
刃物神社-祭神:天目一箇神
厳島社-祭神:市杵島比売命
太田社-祭神:猿田彦命・宇受女命
大年社-祭神:大年社・巷社神
十社
五社
・御旅所(境外社)
四条御旅所 (四条京極南側)
祇園祭の7月17日から24日に神輿三基が安置される。祇園祭の期間以外は拝殿の東側は京土産を販売する「四条センター」として営業を行っている。2013年9月より店名を「Otabi Kyoto」に改名。三条御供社ごくうしゃ(又旅社、三条通黒門)
7月24日の還幸祭の折に神輿三基が安置される。大政所御旅所旧跡 (烏丸通仏光寺下ル)
7月15日に長刀鉾の長刀が収められ、翌16日に神剣拝戴の儀が行なわれる。
古くは「大政所御旅所」と「少将井(しょうしょうのい)御旅所」があり、前者には素戔嗚尊(大政所)と八王子が神幸し、後者には櫛稲田姫命(少将井の宮、少将井天王)が神幸していたが、1591年(天正19年)、豊臣秀吉の命によって四条京極の御旅所に統合された。大政所旧跡には小社が建てられ、現在でも毎年7月16日には長刀鉾の神剣拝戴の儀式が行われ、その周辺は大政所町といわれている。少将井御旅所の旧跡には天王社が建てられたが、1877年(明治10年)、京都御苑の宗像神社境内に遷された[11][12]。現在では烏丸通竹屋町下ル付近に少将井、車屋町通夷川に少将井御旅町の地名が残されている。
○主な祭事
1月1日 白朮祭 (おけら参り)
2月2日-3日 節分祭
3月17日 祈年祭(大祭)
6月15日 例祭(大祭)
7月1日-31日 祇園祭
9月~10月 中秋の名月の日 観月祭
11月3日(文化の日)舞楽奉納
11月23日 新嘗祭(大祭)
その他にも四季を通じて祭礼・神事が執り行われている。
○文化財
・重要文化財
建造物
楼門 - 明応6年(1497年)
西楼門とも称する。本殿の西方、四条通りの突き当たりに建つ。切妻造の楼門(2階建て門)。本殿 - 承応3年(1654年)
一般の神社では別棟とする本殿と拝殿を1つの入母屋屋根で覆った独特の建築様式をとり「祇園造」と言われる。末社蛭子社社殿 - 正保3年(1646年)
石鳥居 - 本殿南側の正面入口に立つ。正保3年(1646年)建立。寛文2年(1662年)の地震で倒壊後、同6年(1666年)に補修再建された。
・美術工芸品
木造狛犬
太刀-銘豊後国行平作。平安末期の豊後(大分県)の刀工・行平(ゆきひら)の作
太刀3口-各銘出羽大掾藤原国路金具御大工躰阿弥 祇園社御太刀 承応三甲午年九月吉日。江戸時代の刀工・出羽大掾国路(でわだいじょうくにみち)の作
鉦鼓(長承三年銘)1口(附 鉦鼓(無銘)1口)
紙本着色祇園社絵図
祇園執行日記9冊(附 祇園社記等59冊)
八坂神社文書(2,205通)89巻、40冊、1帖、1通
算額-元禄4年(1691年)長谷川鄰完奉納。絵馬堂にて復元額を展示
○現地情報
所在地京都府京都市東山区祇園町北側625番地

http://www.yasaka-jinja.or.jp/












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