真宗大谷派難波別院は、大阪府大阪市中央区にある真宗大谷派の寺院。同派の別院。本尊は阿弥陀如来。通称は、「南御堂」。同派の大阪教区教務所、教化センター会館を併設する。大阪市内の中心を南北に走る御堂筋の名は、「南御堂」と「北御堂」(浄土真宗本願寺派の本願寺津村別院)とを繋ぐ道であることに由来する。
○概要
天正11年(1583年)、石山本願寺跡地を含む一帯に豊臣秀吉によって大坂城が築城する。城下町の町制と整備とに着手。
文禄4年(1595年)、秀吉より寺地を寄進され、東本願寺十二代 教如が「大坂渡辺の地」に大谷本願寺を開創する。
文禄5年(1596年)、「大谷本願寺 文禄丙申五暦」銘の梵鐘を鋳造(現存)。
慶長2年〈1597年〉に、「准如を十二代法主とする本願寺教団(現、浄土真宗本願寺派)」の津村御坊(現在の本願寺津村別院〈北御堂〉)が建立される。
慶長3年(1598年)、大坂城の城下町の拡大により、大谷本願寺が現在地への移転を秀吉より命じられる。
慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康から京都烏丸六条に寺地を寄進され、東本願寺が分立し寺基を移すまで、当寺は、教如を十二代法主とする本願寺教団(現在の真宗大谷派)の実質上の本山であった。京都に東本願寺が建立後は、大坂の大谷本願寺の地を「難波御堂」とし、大坂における教如の本願寺教団の拠点寺院として、商人をはじめとする同地の門徒の篤い崇敬を集めるとともに、「南御堂」、「難波の御堂」と称されて、広く人々に親しまれ現在に至っている。
正徳4年(1714年)、幕府から旧大坂城の外堀の石垣の寄進を得て、淀川の砂を用いて大規模な地盛りをし、二重屋根の壮大な本堂を建立する。
京都の本山東本願寺(真宗本廟)の現在の御影堂が、明治時代に再建されるに際し、「難波御堂」を模したとされる)が威容を誇っていた。
昭和20年(1945年)3月、戦災で焼失する。
昭和33年(1958年)、焼失した本堂の再建と山門を兼ねた「御堂会館」の建設が決まる。
昭和34年(1959年)、「復興起工式」を執行する。
昭和36年(1961年)、鉄筋コンクリート製の本堂と「御堂会館」が完成する。落慶法要を厳修する。本堂は、規模は縮小したものの、建築様式に往時の姿を留めている。「御堂会館」は、ビジネス・文化活動等の会場として広く一般の利用にも供されている。
昭和38年(1963年)、「教如三百五十回御忌法要」を厳修する。
昭和39年(1964年)、本堂地下に御堂会館・研修ホールが完成する。
昭和44年(1969年)、御堂会館・南館を増築する。
平成10年(1998年)、「蓮如上人五百回御遠忌法要」を厳修する。
○文化財
梵鐘(「大谷本願寺 文禄丙申五暦」銘)
○アクセス
地下鉄
大阪市営地下鉄御堂筋線 本町駅下車 8号出口より南へ200m
大阪市営地下鉄中央線 本町駅下車 13号出口より南へ50m
○所在地
大阪府大阪市中央区久太郎町4-1-11
2012年4月10日火曜日
本願寺津村別院
本願寺津村別院は、大阪市中央区本町四丁目にある浄土真宗本願寺派の寺院である。通称は「北御堂」、正式名称は「浄土真宗本願寺派 本願寺津村別院」。住職は龍谷門主が兼ねる。別院輪番が置かれて実務を主管している。津村別院には、浄土真宗本願寺派大阪教区教務所を併設するが、教務所長は津村別院の副輪番である。大阪市内の中心を南北に走る御堂筋は、北御堂と南御堂(真宗大谷派 難波別院)を繋ぐ道であることに由来する。
○歴史
1591年 - 本願寺京都移転、在阪信徒により集会所が設けられる。
1597年 - 集会所を円江(津村)の地に移転し、坊舎を建立(津村御坊)
1724年 - 享保の大火により堂舎焼失
1734年 - 同地に再建
1868年 - 明治天皇が当別院の書院を行在所にする。
1876年 - 名称を津村別院に改める。
1927年 - 御堂筋の道路拡張のため境内地を提供
1945年 - 大阪大空襲により焼失
1964年 - 再建
○アクセス
大阪市営地下鉄御堂筋線、中央線、四つ橋線 本町駅A階段2番出口から左側を見てすぐ
○所在地
大阪府大阪市中央区本町四丁目1番3号
○歴史
1591年 - 本願寺京都移転、在阪信徒により集会所が設けられる。
1597年 - 集会所を円江(津村)の地に移転し、坊舎を建立(津村御坊)
1724年 - 享保の大火により堂舎焼失
1734年 - 同地に再建
1868年 - 明治天皇が当別院の書院を行在所にする。
1876年 - 名称を津村別院に改める。
1927年 - 御堂筋の道路拡張のため境内地を提供
1945年 - 大阪大空襲により焼失
1964年 - 再建
○アクセス
大阪市営地下鉄御堂筋線、中央線、四つ橋線 本町駅A階段2番出口から左側を見てすぐ
○所在地
大阪府大阪市中央区本町四丁目1番3号
和光寺
和光寺は大阪府大阪市西区にある浄土宗の仏教寺院。尼僧が住職をつとめる。山号は蓮池山。正式な寺号は智善院和光寺。あみだ池 和光寺。摂津国八十八箇所第3番札所。
○歴史
智善上人は信州善光寺の本尊が出現した霊地として寺院を建立、蓮池山智善院和光寺と称した。1698年(元禄11年)堀江新地開発のとき、江戸幕府の命令で境内地を1800坪とし、また永代寺地と定めた。智善上人は大和国郡山(奈良県大和郡山市)の柳沢家の出身で、信州善光寺大本願第113世の光蓮社心誉智善上人であり、1727年(享保12年)7月21日に没した。江戸時代には本堂・放光閣・観音堂・普門堂・愛染堂・薬師堂・抹香地蔵(まっこうじぞう)・閻魔堂・地蔵堂・金比羅権現・金銅地蔵・鐘堂があったが、1945年(昭和20年)3月13日、米軍による空襲で本堂・諸堂などが焼失。戦後の復興計画により境内地が削られたが、1947年(昭和22年)には仮本堂を建立。放光閣も再建された。1953年(昭和28年)には庫裡が完成、1961年(昭和36年)6月15日、本堂の落慶法要が営まれた。本堂は鉄筋コンクリート建て、一階は会合など集会に使用できるようになっている。
○阿弥陀池
境内に阿弥陀池がある。この付近の地名、あみだ池の語源となっている。 池の中央には放光閣という宝塔がある。
○信州善光寺本尊
長野県の善光寺本尊である一光三尊の阿弥陀如来は欽明天皇13年、百済国より仏教伝来とともに伝わり、日本最古の仏像とされている。仏教伝来以降、崇仏・廃仏の論争が続く中、廃仏派の物部氏により難波の堀江に棄てられた。
○本田善光
信濃国国司・本田善光が難波の堀江に棄てられた阿弥陀如来を池より救った。このことからこの池が阿弥陀池といわれるようになった。後に池から救い出された阿弥陀如来は長野県飯田市に祀ったが、624年(皇極天皇元年)に現在の善光寺のある長野市元善町に移した。
○伏屋素狄顕彰碑
境内に伏屋素狄(ふせやそてき)の顕彰碑がある。1967年(昭和42年)11月に日本医師学会・日本生理学会が発起、日本医師会が賛助し、「実験生理の祖 伏屋素狄」の碑が建てられた。伏屋素狄の墓が失われたため、境内に顕彰碑が建てられた。伏屋素狄は河内国丹南郡日置荘(大阪府堺市東区)に生まれ、14歳のときに和泉国和泉郡万町村(大阪府和泉市)の旧家伏屋氏の分家に養子となった。漢方医学を学んで、大坂に移り開業したが、西洋医学を学び、生理学上の動物実験を何度も行い、「和蘭医話」を著した。腎臓に墨汁を注入した実験で、「腎は小便の漉(こ)し役」であることを発表したが、この業績は西洋の医学界より、かなり早い発見であった。1811年(文化8年)に没した。
○年中行事
1月15日 放生会
2月15日 涅槃会
3月18日 春彼岸会(彼岸入りの日)
4月8日 花まつり
8月21日 盆施餓鬼
9月20日 秋彼岸会(彼岸入りの日)
11月14日 十夜法要
○アクセス
大阪市西区北堀江3丁目7-27
○歴史
智善上人は信州善光寺の本尊が出現した霊地として寺院を建立、蓮池山智善院和光寺と称した。1698年(元禄11年)堀江新地開発のとき、江戸幕府の命令で境内地を1800坪とし、また永代寺地と定めた。智善上人は大和国郡山(奈良県大和郡山市)の柳沢家の出身で、信州善光寺大本願第113世の光蓮社心誉智善上人であり、1727年(享保12年)7月21日に没した。江戸時代には本堂・放光閣・観音堂・普門堂・愛染堂・薬師堂・抹香地蔵(まっこうじぞう)・閻魔堂・地蔵堂・金比羅権現・金銅地蔵・鐘堂があったが、1945年(昭和20年)3月13日、米軍による空襲で本堂・諸堂などが焼失。戦後の復興計画により境内地が削られたが、1947年(昭和22年)には仮本堂を建立。放光閣も再建された。1953年(昭和28年)には庫裡が完成、1961年(昭和36年)6月15日、本堂の落慶法要が営まれた。本堂は鉄筋コンクリート建て、一階は会合など集会に使用できるようになっている。
○阿弥陀池
境内に阿弥陀池がある。この付近の地名、あみだ池の語源となっている。 池の中央には放光閣という宝塔がある。
○信州善光寺本尊
長野県の善光寺本尊である一光三尊の阿弥陀如来は欽明天皇13年、百済国より仏教伝来とともに伝わり、日本最古の仏像とされている。仏教伝来以降、崇仏・廃仏の論争が続く中、廃仏派の物部氏により難波の堀江に棄てられた。
○本田善光
信濃国国司・本田善光が難波の堀江に棄てられた阿弥陀如来を池より救った。このことからこの池が阿弥陀池といわれるようになった。後に池から救い出された阿弥陀如来は長野県飯田市に祀ったが、624年(皇極天皇元年)に現在の善光寺のある長野市元善町に移した。
○伏屋素狄顕彰碑
境内に伏屋素狄(ふせやそてき)の顕彰碑がある。1967年(昭和42年)11月に日本医師学会・日本生理学会が発起、日本医師会が賛助し、「実験生理の祖 伏屋素狄」の碑が建てられた。伏屋素狄の墓が失われたため、境内に顕彰碑が建てられた。伏屋素狄は河内国丹南郡日置荘(大阪府堺市東区)に生まれ、14歳のときに和泉国和泉郡万町村(大阪府和泉市)の旧家伏屋氏の分家に養子となった。漢方医学を学んで、大坂に移り開業したが、西洋医学を学び、生理学上の動物実験を何度も行い、「和蘭医話」を著した。腎臓に墨汁を注入した実験で、「腎は小便の漉(こ)し役」であることを発表したが、この業績は西洋の医学界より、かなり早い発見であった。1811年(文化8年)に没した。
○年中行事
1月15日 放生会
2月15日 涅槃会
3月18日 春彼岸会(彼岸入りの日)
4月8日 花まつり
8月21日 盆施餓鬼
9月20日 秋彼岸会(彼岸入りの日)
11月14日 十夜法要
○アクセス
大阪市西区北堀江3丁目7-27
2012年4月8日日曜日
覚順寺
真宗大谷派。当時の教如上人画像裏書には「寛永十八年」(1641)の年号が見られるところから、開創は江戸初期であろう。なお当時には深野新田開拓時に創建されたもと深廣(じんこう)寺の本尊も安置されている。
所在地:大阪府大東市中垣内2丁目4-3
所在地:大阪府大東市中垣内2丁目4-3
庚申信仰
庚申塔に造塔名がないが、江戸時代のものと思われる。庚申(かのえさる)の晩に祀られる信仰で、その日は60 日に1回巡って来る。由来は、人間の体内には3匹の虫がいて、絶えずその人の行動を監視している。そして、庚申の夜人間が眠っている間に身体から抜け出し天に昇り、天帝にその人の悪事を報告する。天帝はそれを聞き、その人の生命を奪ったり縮めたりする。そこで、虫が身体から抜け出さないよう講をつくり、一晩中起きて飲食を共にしながら話や遊びに興じたという。なお庚申塔に3匹の猿を彫ったのは「悪いことは見ざる、聞かざる、言わざる」を表わし、3匹の虫にもこの猿のようにしてもらいたいという願いを込めたものだといわれている。
所在地:大阪府大東市中垣内2丁目(鳳字寺前)
所在地:大阪府大東市中垣内2丁目(鳳字寺前)
三箇菅原神社
三箇菅原神社は大阪府大東市三箇にある神社。
○歴史
住道地区の氏神で、1679年(延宝七年)の「三箇村検地帳」には既に名があり、当時は「氏神天満宮」と称されていた。社地内には稲荷社も鎮座し、天神様とともに五穀豊穣の神様である。西の隣接地には曹洞宗宇治興聖寺末・水月院(現存せず)があり、江戸時代までの神仏混合の面影を残していた。社の宝として神刀が奉られており、これは宝永年間の氏子達が神威の高揚を願って奉献したものである。
なお、この地は「三箇城址」と書かれた碑が立つように、飯盛城の支城であった三箇城があったとされる候補地のひとつで、碑は1919年(大正8年)に府によって建立された。
○所在地
大東市三箇5-2-3
○例祭
10月19日10月20日
○歴史
住道地区の氏神で、1679年(延宝七年)の「三箇村検地帳」には既に名があり、当時は「氏神天満宮」と称されていた。社地内には稲荷社も鎮座し、天神様とともに五穀豊穣の神様である。西の隣接地には曹洞宗宇治興聖寺末・水月院(現存せず)があり、江戸時代までの神仏混合の面影を残していた。社の宝として神刀が奉られており、これは宝永年間の氏子達が神威の高揚を願って奉献したものである。
なお、この地は「三箇城址」と書かれた碑が立つように、飯盛城の支城であった三箇城があったとされる候補地のひとつで、碑は1919年(大正8年)に府によって建立された。
○所在地
大東市三箇5-2-3
○例祭
10月19日10月20日
廃水月院
東高野街道
京都と高野山を結ぶ街道。鳥羽より淀・八幡・洞ヶ峠を越え河内に入り、郡津・星田・打上を経て飯盛・生駒山系の山すそを南下。八尾・柏原・富田林を通り河内長野で西高野街道と合流し紀見峠・橋本を経て高野山に至る古道である。
2012年4月5日木曜日
2012年4月4日水曜日
造幣局通り抜け2012
平成24年の造幣局「桜の通り抜け」は次のように行います。また、今年も昨年に引き続き、通り抜け通路に東日本大震災による被災地を支援するための募金箱を設置します。
開催日時平成24年4月17日(火曜日)から4月23日(月曜日)までの7日間
平日は午前10時から午後9時まで土曜日・日曜日は午前9時から午後9時まで
今年の花は「小手毬(こでまり)」です。
?日没後にぼんぼりなどでライトアップします。
?週末は混雑が予想されますので、できるだけ平日のご見物をおすすめします。
通り抜けの方法 造幣局南門(天満橋側)から北門(桜宮橋側)への一方通行(距離約560メートル)になります。
住所:〒530-0043 大阪市北区天満1-1-79
開催日時平成24年4月17日(火曜日)から4月23日(月曜日)までの7日間
平日は午前10時から午後9時まで土曜日・日曜日は午前9時から午後9時まで
今年の花は「小手毬(こでまり)」です。
?日没後にぼんぼりなどでライトアップします。
?週末は混雑が予想されますので、できるだけ平日のご見物をおすすめします。
通り抜けの方法 造幣局南門(天満橋側)から北門(桜宮橋側)への一方通行(距離約560メートル)になります。
住所:〒530-0043 大阪市北区天満1-1-79
2012年4月2日月曜日
安楽寺
浄土真宗本願寺派。正徳四年(1714)の記録があるので、このころ創建期と見ることが出来る。なお本堂前の地蔵堂には「願主 角ノ堂(すみのどう)米安」と刻まれた碑がある。
所在地:大阪府大東市御供田2丁目3-13
所在地:大阪府大東市御供田2丁目3-13
湯里住吉神社
湯里住吉神社は大阪府大阪市東住吉区湯里に鎮座する神社。
○祭神
中筒男命
○歴史
天神山に鎮座する須牟地神社が富田荘の氏神であったが、富田荘が分割されて河内国丹比郡に編入されたため、祭神住吉三神のうちの一座をこの地に勧請して須牟地神社と称した。住吉二の宮、湯屋島住吉などと呼ばれた。
天正・慶長年間の兵火を罹り、社殿・旧記を焼失している。
明治5年(1872年)村社に列す。
大正4年(1915年)9月神饌幣帛料供進社に指定される。
○境内
竹生島神社:市杵嶋姫命
稲荷神社:宇迦之御魂命
楠社:楠大神
○所在地
大阪府大阪市東住吉区湯里4-17-9
○例祭
8月1日(夏祭)、10月13日(秋祭)
○祭神
中筒男命
○歴史
天神山に鎮座する須牟地神社が富田荘の氏神であったが、富田荘が分割されて河内国丹比郡に編入されたため、祭神住吉三神のうちの一座をこの地に勧請して須牟地神社と称した。住吉二の宮、湯屋島住吉などと呼ばれた。
天正・慶長年間の兵火を罹り、社殿・旧記を焼失している。
明治5年(1872年)村社に列す。
大正4年(1915年)9月神饌幣帛料供進社に指定される。
○境内
竹生島神社:市杵嶋姫命
稲荷神社:宇迦之御魂命
楠社:楠大神
○所在地
大阪府大阪市東住吉区湯里4-17-9
○例祭
8月1日(夏祭)、10月13日(秋祭)
2012年4月1日日曜日
住道の由来
住道が登場するのは明治22 年の市町村制施行からで、「其の区域内に角ノ堂と呼べる地名にある因りて其の名を取り文字を改めて住道村と名付く」とある。角ノ堂は横山新田内の小字名で、そこは寝屋川と恩智川の合流地点であり年貢米の積出し場所・用水樋のあった所と記録されている。またこの地に高僧が建てた庵の形から角ノ堂と呼んだとか、三箇キリシタンの教会があったからなどといわれているが、定かではない。
三箇キリシタン
三箇にキリスト教が伝わったのは永禄五年(1562)、三好長慶の家臣三箇殿が飯盛城で洗礼を受けた時に始まる。永禄八年(1565)には京の政変から逃れて三箇に来たビレラやフロイスが数カ月滞在し、三箇のキリスト教は隆盛をきわめた。その間フロイスはローマに「教会は水に囲まれた小さい島にある」と報告している。その後信長時代はますます栄えたが、次の秀吉が天正十五年(1587)6月19 日にキリスト教を禁止してからは急速に衰えた。当時の遺物が全く残っていないのは秀吉の居城に近いためだろうか。
おかげ参りとおかげ燈籠
お伊勢まいりはもともと“ぬけまいり”といった。封建支配の厳しい江戸時代、何とか参宮したいあまり領主や村役人はもちろん、雇主・主人や家族にさえ告げないで旅立つ者が多かったからという。こうした人々の中には旅費や服装の準備もない者が多かったので、沿道の施しにた
よってお参りした。そこで参宮のことを“おかげまいり”といっている。
おかげまいりが盛んになったのは江戸時代からで、だいたい60 年周期で高まったといわれる。そのうち最も盛況を極めたのが、文政十三年(1830)であった。この年の3月27・28 日に阿波に発生したおかげまいりの群は河内地方に及びこのうねりに当地域もまきこまれ、村を上げた踊りにまで発展した。三味、太鼓のはやしに合せ、二日も三日もうかれ、踊り続けた。その場所がどこであったかは分らないが、市内に残る“おかげ燈籠”はそれを記念して建てられたものであり、当時のにぎわいを思いおこさせてくれる。
よってお参りした。そこで参宮のことを“おかげまいり”といっている。
おかげまいりが盛んになったのは江戸時代からで、だいたい60 年周期で高まったといわれる。そのうち最も盛況を極めたのが、文政十三年(1830)であった。この年の3月27・28 日に阿波に発生したおかげまいりの群は河内地方に及びこのうねりに当地域もまきこまれ、村を上げた踊りにまで発展した。三味、太鼓のはやしに合せ、二日も三日もうかれ、踊り続けた。その場所がどこであったかは分らないが、市内に残る“おかげ燈籠”はそれを記念して建てられたものであり、当時のにぎわいを思いおこさせてくれる。
登録:
投稿 (Atom)






































