2013年4月22日月曜日

妙国寺

妙国寺は、大阪府堺市堺区にある日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は広普山。幕末に起こった堺事件ゆかりの寺として知られる。開基は三好之康(三好義賢・実休)。開山は日珖。妙國寺とも書く。
○歴史
正親天皇の永禄5年(1562年に、当時四国の阿波、讃岐より兵を起こして、畿内を支配していた三好家四兄弟の一人である三好豊前守之康(義賢実休)公が、大蘇鉄を含む東西三丁南北五丁の土地を、開山である日珖上人に寄進され、日珖上人の父である堺の豪商であった油屋伊達常言、兄の常祐が協力して此処に常塔伽藍を建立寄進して、広普山妙國寺と称し、皇室より勅願所と定められました。寺名は日祝の号である「妙國院」による。 元亀2年(1571年)に本堂竣工。天正11年(1583年)までに広大な寺地に14の坊、南北の学問所などを備えた伽藍が円成する。 元和元年(1615年)の大坂夏の陣、大阪落城に際し豊臣の将大野道犬は、徳川家康妙國寺にありと聞き、乱入諸堂に火を放ち全山灰陣燼と化す。その後、寛永5年(1628年)本堂再建、続いて祖師堂、三重塔、客殿、方丈、勅使門、鐘楼、経蔵、書院、徳正殿、その他支院等旧観を再現した。しかし、第2次大戦の末、昭和20年7月、堺大空襲による戦火で再び大半を焼失した。昭和48年、本堂を再建し現在に至る。現住は51世岡部日聡貫首(大阪市海宝寺より晋山)。堺法縁縁頭寺。
○境内
・本堂
昭和48年(1973年)に再興されたもの。
・龍神堂
伝三重塔柱跡
三重塔は、元和年間に兵火で焼失したものを1658年(万治元年)に再興したもので高さ9丈(27.3m)と堺の町のランドマークとして目を惹く建物だったが、1945年に空襲で焼失した。
・庭園
平庭林泉回遊式枯山水庭園。市指定名勝。
・霊木・大蘇鉄
境内の大蘇鉄
は国指定の天然記念物(1924年12月9日指定)である。樹齢1100年余と云う。織田信長は、その権力を以って、天正7年、この蘇鉄を安土城に移植させた。しかし、毎夜「堺妙國寺に帰ろう」と怪しげな声に、信長は激怒し士卒に命じ蘇鉄を切りつけたところ、鮮血切口より流れ悶絶の様は恰も大蛇の如く、さしもの信長も怖れ即座に妙國寺に返したと言う。枯れ死寸前の蘇鉄を、哀れにおもわれた日珖上人は法華経一千部を誦したところ、夢枕に、人面蛇身神が現れ「報恩のため、女には産みの苦しみを和らげ、苦難には災厄を逃れ、乏しき者には福寿を授ける」と三つの誓願をした。御堂を建て、守護神宇賀徳正竜神として祀られています。
○出来事
・本能寺の変
天正10年(1582年)の本能寺の変の際、堺を訪れていた徳川家康は妙國寺に宿泊していたが、変を聞き、妙國寺僧、油屋親子の助けを得て難を逃れたと伝える。
・堺事件
慶応4年2月15日、フランス軍艦より水兵100人が上陸し、市内を闊歩し婦女子を追回すなど傍若無人の振舞いに、堺警備隊の土佐藩士が応対したが、双方言葉が通じないため両者銃撃応酬の末、フランス兵13名の死傷者を出すにいたり国際問題となり、本事件はフランスに賠償金を払うと共に、箕浦猪之吉、西村左平次等土佐藩士20名は切腹を命じられた。同2月23日、妙國寺において日仏立会人の面前で堂々と割腹自刃しました。12人目にかかりフランスの立会検視人もその凄絶の様に見るに忍びがたく切腹は中止となり、9名は土佐へ流刑となったのです。
○所在地
大阪府堺市堺区材木町東4丁1番4号
○交通アクセス
阪堺電気軌道阪堺線 妙国寺前駅 徒歩5分









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