2013年4月29日月曜日

大覚寺

大覚寺は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。山号を嵯峨山と称する。本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。また、嵯峨天皇に始まるという華道嵯峨御流を今に伝える寺でもある。時代劇の撮影所が多い太秦の近くということもあり、寺の境内(大沢池や明智門など)は(特に時代劇の)映画やテレビなどの撮影によく使われている。
○歴史
嵯峨野の北東に位置するこの地には、平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた。嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされる。嵯峨天皇が崩御してから30数年後の貞観18年(876年)、皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。淳和天皇の皇子(嵯峨天皇には孫にあたる)恒貞親王(恒寂法親王、仁明天皇の廃太子)を開山(初代住職)とした。鎌倉時代になると、亀山法皇や後宇多法皇が入寺し、ここで院政を行ったため嵯峨御所(さが ごしょ)とも呼ばれた。なかでも、後宇多法皇は伽藍の整備に力を尽くしたため、「中興の祖」と称されている。亀山法皇・後宇多法皇の系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位についた(両統迭立)。この両系統が対立したことが、後の南北朝分裂につながったことはよく知られる。元中9年(1392年)、南北朝の和解が成立し、南朝最後の天皇である後亀山天皇から北朝の後小松天皇に「三種の神器」が引き継がれたのも、ここ大覚寺においてであった。このように、皇室ゆかりの寺院であり、代々法親王が住職となった門跡寺院であるため、現在でも御所風の雰囲気がただよっている。御所跡地が国の史跡に指定されている。
○伽藍
皇室ゆかりの寺院である大覚寺には、宮廷風の建築や皇室ゆかりの建物を移築したものが多い。伽藍の中軸線上には南から勅使門(唐門)、御影堂、心経殿が建ち、御影堂の東に五大堂、西に宸殿、宸殿の北側に正寝殿が建つ。これらの建物の間は屋根付きの廊下で結ばれている。伽藍の中心部に位置しているのは、本堂にあたる五大堂ではなく、嵯峨天皇ほかの歴代天皇が書写した般若心経を収める心経殿である点が注目される。
宸殿(重要文化財)‐東福門院(後水尾天皇中宮)の旧殿を移築したものと伝える。蔀戸(しとみど)を用いた寝殿造風の建物で、屋根は入母屋造、檜皮葺きとし、周囲に広縁をめぐらす。「宸殿」は門跡寺院に特有の建物名で、「宸」は「皇帝」の意である。内部は大きく4室に分かれ、中でも南側の「牡丹の間」の牡丹図と北側の「紅梅の間」の紅梅図の襖絵(ともに狩野山楽筆)は名高い(襖絵のオリジナルは収蔵庫に収められ、現在ここにある襖絵は複製である)。前庭には一面に白砂が敷き詰められ、右近の橘と左近の梅(左近の「桜」ではない)がある。
御影堂‐入母屋造、桟瓦葺き。伽藍の中心部に位置し、北側に建つ心経殿の拝殿のような役割をしている。この建物は大正天皇の即位式に使用された饗応殿を下賜され、大正14年(1925年)、後宇多法皇600回忌を機に大覚寺へ移築されたものである。堂内の中心部は北側に建つ心経殿の拝所となり、その左右に大覚寺にゆかりの深い嵯峨天皇、弘法大師(空海)、後宇多法皇、恒寂法親王の像を安置する。
五大堂‐大覚寺の本堂。境内東側に位置する。天明年間(1781-1789年)の建立。当初は伽藍の中心部(御影堂前の現在、石舞台がある位置)にあったが、大正14年(1925年)、御影堂が移築された際に現在の位置に移動した。元来この堂の本尊であった鎌倉時代作の五大明王像は収蔵庫に移され、現在は松久朋琳・松久宗琳が昭和50年(1975年)に完成した五大明王像を本尊として安置している。堂は写経道場として用いられており、堂の東側の縁からは大沢池を望むことができる。
心経殿‐御影堂の北に建つ。大正14年(1925年)建立の鉄筋コンクリート造の小規模な八角堂で、壁面は校倉造風である。内部には嵯峨天皇、後光厳天皇、後花園天皇、後奈良天皇、正親町天皇、光格天皇の直筆の般若心経を収蔵し、薬師如来像を安置する。内部は非公開で、開扉は60年に一度とされている。建物は国の登録有形文化財に登録されている。
正寝殿‐重要文化財指定名称は「客殿」。桃山時代建立の書院造建築で、内部は大小12の部屋に分かれる。「上段の間」(御冠の間)には玉座があり、後宇多院が院政を行った部屋を再現したものである。障壁画は狩野山楽および渡辺始興の筆。
霊明殿‐総理大臣を務めた斎藤実が昭和3年(1928年)、東京の沼袋(現・中野区沼袋)に建てた日仏寺の本堂だったもの。昭和33年(1958年)、当時大覚寺門跡であった草繋全宜(くさなぎぜんぎ)が移築した。縁板まで含め総朱塗りとした建物で、阿弥陀如来を本尊とする。
貴賓館‐秩父宮の御殿として大正12年(1923年)、東宮仮御所の霞ヶ関離宮(現・国会前庭)に建立されたもの。昭和46年(1971年)、大覚寺に下賜された。非公開。
庭湖館‐江戸時代中期、大沢池畔に建てられた休憩所を明治元年(1868年)に移築したもの。非公開。
このほか、伽藍東側の大沢池周辺には護摩堂、大日堂、聖天堂、五社明神などの小堂や、昭和42年(1967年)建立の心経宝塔(多宝塔)などが建つ。
○大沢池と名古曽の滝
大沢池は中国の洞庭湖を模して嵯峨天皇が築造したものといわれ、当時の唐風文化の面影を今に残す園地は池の北方約100メートルにある「名古曽の滝」とともに1923(大正12年)に国の文化財として名勝に指定されている。嵯峨院の園池を引き継ぐものと推定されているが、これは南東にゆるく傾斜する地形を利用して南から東にかけて長い堤を築することで北西側からの流れをせき止めて築造された人工の池として知られる。この池はまた周辺水田の灌漑用水として重要な役割を果たしてきたことが知られている。平安時代前期の名残をとどめ、日本最古の庭池とされている。昭和56年から始まった発掘調査によって、この2石は当初の位置にあるものの、その他の石は後代の手が加わっていると推定されている。また滝の南方には素堀に近い蛇行溝が開削されて大沢池へ注いでいたことが調査でわかっていて、これは自然の流れを模して造られた庭園の遣水施設で、嵯峨天皇が譲位を契機として冷然院からこの新院へと遷御した時期に最大幅約12メートル、深さ約1メートル規模拡張され、拡張と同時に流末に水位調節のために石組み溝が新たに設けられ、これによって流路全体がせき止められて池状のたまりとなっていたこと、このことから改修時期には供給される水量が減少し、池の注ぎ口に設けられた溝もやがて埋没し、流水方向に直交して低い土手が築かれてここに帯状に玉石敷が造られると同時に施設の西側に景石が添えられ、この施設によって流路は大きくせき止められて広大なたまりを形成しオーバーフローして大沢池に注ぎ込むこととなっていたものと考えられている。
○文化財
・国宝
後宇多天皇宸翰御手印遺告 - 「宸翰」は天皇自筆の意。後宇多天皇(法皇)が、大覚寺の興隆を願って書きおいた遺言の自筆草稿で、紙面に天皇の手形が押されている。
後宇多天皇宸翰弘法大師伝 - 真言密教に帰依した後宇多天皇が、自ら正和4年(1315年)に書いた弘法大師伝の自筆本。
・重要文化財
正寝殿(客殿)
宸殿
絹本著色五大虚空蔵像
絹本著色後宇多天皇像
紙本著色後宇多天皇像
紙本著色後宇多天皇像
大覚寺障壁画 116面(附122面)
木造不動明王坐像・軍荼利明王立像・大威徳明王像(附:一夢信孝関係資料41点)
木造五大明王像 5躯
太刀 銘□忠 
後宇多天皇宸翰悉曇印信口決2帖・悉曇印信文5帖
後宇多天皇宸翰奥砂子平口決
後宇多天皇宸翰灌頂印明 6巻
後宇多天皇宸翰灌頂私注 上 正和三年奥書 
後宇多天皇宸翰護摩口決
後宇多天皇宸翰伝法灌頂作法
後宇多天皇宸翰伝法灌頂初後夜供養法次第 2帖
後宇多天皇宸翰宝珠抄
後宇多天皇宸翰高雄曼荼羅御修覆記 延慶二年正月十九日とあり 
後宇多天皇宸翰伝流抄目録並禅助消息3通 1巻
金剛界伝法潅頂作法 
袈裟印 禅助筆 
孔雀経音義 上中下 3帖 
秘鈔(128巻)23結
後深草天皇宸翰消息(正安二年三月六日花押)
花園天皇宸翰消息 七月廿五日とあり
○史跡
御所跡
○名勝
大沢池附名古曽滝跡
○アクセス
京都市営バス・京都バス大覚寺下車すぐ
京都府京都市右京区嵯峨大沢町4







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