2022年8月15日月曜日

頂法寺(六角堂)

 頂法寺は、京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町にある天台宗系単立の寺院。山号は紫雲山。本尊は如意輪観音。寺号は頂法寺であるが、本堂が平面六角形であることから一般には六角堂の通称で知られている。華道、池坊の発祥の地としても知られている。西国三十三所第18番札所。洛陽三十三所観音霊場第1番札所。

本尊真言:おん ばだら はんどめい うん

ご詠歌:わが思う心のうちは六(むつ)の角 ただ円(まろ)かれと祈るなりけり

○歴史

頂法寺の創建縁起は醍醐寺本『諸寺縁起集』、『伊呂波字類抄』に見え、寺所蔵の『六角堂頂法寺縁起』や近世刊行の『洛陽六角堂略縁起』などにも見える。これらの縁起が伝える創建伝承は大略以下のとおりである。敏達天皇の時代、淡路国岩屋浦に閻浮檀金(えんぶだんごん、黄金の意)の如意輪観音像が漂着した。この像は、聖徳太子が前世に唐土にあって仏道修行していた時に信仰していた像であり、太子はこの観音像を念持仏とした。これが後の頂法寺本尊である。太子は16歳のとき、排仏派の物部守屋討伐にあたって、護持仏に「無事討伐できたならば、仏の功徳に感謝して四天王寺を建立いたします」と戦勝祈願したところ勝利した。そして、寺建立のための用材を求め、小野妹子とともにこの地を訪れた。その際、太子は池で水浴をするため、傍らの木の枝の間に持仏の如意輪観音像を置いておいたところ、像は重くなり動かなくなってしまった。観音像は光明を発し、自分は七生にわたって太子を守護してきたが、今後はこの地にとどまり衆生を済度したいと告げた。そこで太子は、四神相応のこの地に伽藍を建てることとした。東からやってきた老翁(鎮守神の唐崎明神)が、紫雲たなびく杉の霊木のありかを教えてくれたので、その材を用いて六角形の堂を建立したのがこの寺の始まりである。『元亨釈書』によれば、平安京造営の際、六角堂が建設予定の街路の中央にあたり邪魔なため取り壊されそうになったが、その時黒雲が現れ、堂は自ら北方へ約5丈(約15メートル)動いたという。以上のように六角堂の創建は縁起類では飛鳥時代とされているが、1974年(昭和49年)から翌年にかけて実施された発掘調査の結果、飛鳥時代の遺構は検出されず、実際の創建は10世紀後半頃と推定されている。六角堂が史料に現れるのは11世紀初めからである。藤原道長の日記『御堂関白記』寛仁元年(1017年)3月21日条に、「六角小路」という地名が見えるのが早い例である。他にも『小右記』(藤原実資の日記)などに六角堂の名が見える。『梁塵秘抄』所収の今様には「観音験(しるし)を見する寺」として、清水、石山、長谷などとともに「間近く見ゆるは六角堂」とうたわれている。こうしたことから、六角堂は平安時代後期には観音霊場として著名であったことがわかる。鎌倉時代初期の建仁元年(1201年)、延暦寺の堂僧であった29歳の範宴(のちの親鸞)が、この六角堂に百日間参籠し、95日目の暁の夢中に聖徳太子の四句の偈文を得て、浄土宗の宗祖とされる法然の専修念仏に帰依したとされる。室町時代に入ると当寺で祇園祭の山鉾巡行の順番を決めるくじ取り式が行われるようになり、江戸時代末まで行われた。寛正2年(1461年)山城大飢饉のとき、8代将軍足利義政は、この堂の前に救済小屋を建て、時宗の僧願阿弥に命じて洛中に流入した貧窮者に対し、粥施行(かゆせぎょう)を行なわせた。寺地が下京の中心であったことから、特に応仁の乱の後からこの寺は町堂として町衆の生活文化や自治活動の中核となる役割を果たした。下京に危機がせまると、この寺の早鐘が鳴らされたりもしている。また、京都に乱入する土一揆や天文法華の乱などでは出陣する軍勢の集合場所となったり、あるいは下京町組代表の集会所になったりしている。近世には「京都御役所向大概覚書」によると、朱印寺領1石と記されており、寺内には多聞院、不動院、住心院、愛染院などの塔頭があったが現存しない。観音霊場の寺として庶民の信仰を集め、近世に門前町が発展し、そこには巡礼者のための宿屋が数多く建ち並び、洛中では有数の旅宿町として発展した。天治2年(1125年)の火災をはじめ、江戸時代末までの間に確認できるだけで18回の災害にあったが、庶民の信仰を集める寺であり、また町組の中核となる寺としてその都度復興されてきた。現在の本堂は、1877年(明治10年)に再建されたものである。

○境内

京都の街中に建つ寺で、境内は狭い。山門を入ってすぐ正面に本堂、右手に「へそ石」、親鸞堂、納経所、本堂裏には聖徳太子沐浴の伝説にちなむ池や太子堂がある。鐘楼は山門から公道を隔てて向かい側の飛地境内にある。また、境内北側には、華道家元「池坊」の本部ビル・池坊会館がある。

本堂-1877年(明治10年)再建。平面六角形の屋根を二重に重ね、手前には入母屋造、千鳥破風付きの礼堂を設ける、複雑な屋根構成になる。内陣には秘仏本尊如意輪観音像を安置し、向かって左に毘沙門天立像(重要文化財)、右に不動明王立像を安置する。原則として、参拝者は堂内に立ち入ることはできず、堂外からの参拝となる。

聖徳太子沐浴の古跡 - 人工池の中に井筒が置かれている。

太子堂-人工池に面して建つ、平面六角形、朱塗りの小堂。南無仏太子像(聖徳太子2歳像)を安置する。

太子の水-聖徳太子が水浴びをしたといわれる。現存。飲料可[5]。

親鸞堂-境内右手奥に建つ六角堂。夢告を授かる姿の「夢想之像」と六角堂参篭の姿を自刻したとされる「草鞋の御影」の2体の親鸞像が安置される。

親鸞聖人像-親鸞堂の正面には参籠から比叡山に戻る姿の親鸞の銅像が立っている。

へそ石-本堂東側、柵で囲われた中に平面六角形の平らな石があり、「へそ石」または「要石(かなめいし)」と呼ばれる。旧本堂の礎石と伝えられ、頂法寺が平安京造営以前から存在し、位置もほぼ移動していないことから、この石が京都の中心であるといわれている。石の中央に孔があり、元来は燈籠等の台石であったと思われる。

庫裏

石不動

唐崎社-鎮守社。かつては明星天子菩薩とも称していた。

山門

鐘楼-六角通を挟んで山門の斜め前に建てられている。

池坊会館-11階建て。華道家元「池坊」の本部ビル。華道家元池坊が代々六角堂の住職を務めている。

○所在地

京都府京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町248










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