2020年11月15日日曜日

境野1号墳と明智光秀本陣跡

 ○境野1号墳

境野1号墳は、古墳時代前記後半の前方後円墳で、4世紀後半に当たります現在まで9次までにわたる調査の結果、全長58m、後円部径31mを測る規模に復元されています。斜面は、後円部が2段か3段、前方部が2段に築かれています。斜面には葺石を施し、平坦面には円筒埴輪を樹立させています。埋葬施設は不明ですが後円部の藪土からは車輪石・石釧等の石製品や鉄刀などが採取されています。これらは副葬品の1部と思われます。境野1号墳が立地する下植野の段丘は、南側を見下ろすことが出来ます。淀川を行き交う人々からの眺めを意識して造営されたことがうかがえます。


○明智光秀本陣跡

境野1号墳は天承10(1582)年6月13日夕刻に起こった天下分け目の天王山「山崎の合戦」のとき、明智が他の本陣がおかれたのではないかと考えられています。「太閤記」の記述に御坊塚に光秀本陣が置かれ、兵力は5千有余とあり、当地周辺の地形を考慮すると、当古墳上が本陣に利用されたことが考えられます。古墳のある場所は標高25.2mを測り、周辺と比べるとひときわ高く、天王山や西国街道方向に視界が開けます。羽柴秀吉の軍勢と対峙し、見方の軍勢を把握して指揮するのにうってつけの場所が本古墳であったといえるでしょう。当地周辺で行った発掘調査では空堀跡と見られる遺稿が複数発見され、合戦前夜から本陣の準備が進められ、秀吉軍を迎え撃つ準備を進めていたと考えられます。また火縄銃の鉄砲玉も出土し、両軍の激戦の様子が窺えます。合戦は圧倒的な兵力を誇る秀吉軍の勝利に終わります。光秀はわずかばかりの手勢を伴い勝龍寺城から近江坂本城途上に向かう途中に向かう途上、山科小栗栖で落武者狩りの村人の手にかかり、無念の最後を遂げたといわれています。


所在地:京都府乙訓郡大山崎町下植野宮脇1-107(サントリー工場横)








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