千早神社は、大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早にある神社である。通称は楠社とも呼ばれている。
○概要
千早神社は千早城の本丸にあり、もとは千早城の八幡大菩薩を祀って鎮守として創建したものであったが、後に楠木正成、楠木正行を合祀した。1874年(明治7年)に社殿を再建、1879年(明治12年)に祠を建て千早神社となる。1907年(明治40年)に周辺にあった吉年の金峯神社、小吹の八坂神社、千早の坂本神社、中津神社を合祀した。
○例祭
例祭は、10月17日、5月25日であったが、最近は5月25日の直近の日曜日、地元の小学生を中心に千早赤阪村の村民が参加して運動会と餅まきが行われる。
2012年12月4日火曜日
建水分神社
建水分神社は、大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分にある神社である。通称水分神社。水分大明神、上水分社とも称する。式内社で、旧社格は府社。古来より金剛山鎮守として、また楠木氏の氏神として崇敬された。
○祭神
中殿に天御中主神、左殿に天水分神・罔象女神、右殿に国水分神・瀬織津姫神を祀る。このうち天御中主神以外は水神である。
○由緒
社伝によれば、崇神天皇5年(紀元前92年)、諸国が飢饉となったとき、各地に溜池や溝を作ることが勧められたが、このときに金剛葛城の山麓に水分神が祀られたのに始まる。延喜式神名帳に「河内国石川郡 建水分神社」と記載されている。「上水分社」の呼称は、美具久留御魂神社(富田林市宮町)を下水分社と称するのに対応したものである。元の鎮座地は現在地より北約100mの水越川のほとりにあったが、南北朝時代に兵火にかかり、荒廃した。このため建武元年(1334年)、後醍醐天皇の勅命を受けた楠木正成が、現在地に本殿、拝殿、鐘楼などを再建し遷座した。延元2年(1337年)4月27日、最高位である正一位の神階を授けられた。中世、織田信長軍の河内国攻略の際に社領を没収され一時衰退するが、豊臣秀吉が社領を寄進し、復旧された。1873年(明治6年)の社格制定の際に付近18ヵ村の総鎮守産土神の故を以て郷社に列格した。1907年(明治40年)に神饌幣帛供進社に指定され、氏子地域内の17神社を合祀し、1913年(大正2年)に府社に昇格した。
○例祭
4月25日:春祭
10月第三土曜日:秋祭
○摂末社
摂社:南木神社
祭神:楠木正成公(大楠公)
延元2年(1337年)4月創建。
末社:金峯神社
祭神:天照大御神
○文化財
・本殿(重要文化財)
本殿は三殿で構成されている。中殿は一間社春日造、左右両殿は二間社流造、各殿を渡廊で連結するという全国でも唯一の珍しい様式で、「水分造」とも呼ばれている。構造の細部も優秀巧緻で建築上の模範とされる。1900年(明治33年)に大阪府の神社建築として初めて古社寺保存法に基づく特別保護建造物(現行法の「重要文化財」に相当)に指定され、1950年(昭和25年)、文化財保護法施行に伴い重要文化財となった。通常は非公開である。
○その他
戦艦金剛艦内には守護神として建水分神社の祭神が勧請されている。
○所在地
大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分357番地
○祭神
中殿に天御中主神、左殿に天水分神・罔象女神、右殿に国水分神・瀬織津姫神を祀る。このうち天御中主神以外は水神である。
○由緒
社伝によれば、崇神天皇5年(紀元前92年)、諸国が飢饉となったとき、各地に溜池や溝を作ることが勧められたが、このときに金剛葛城の山麓に水分神が祀られたのに始まる。延喜式神名帳に「河内国石川郡 建水分神社」と記載されている。「上水分社」の呼称は、美具久留御魂神社(富田林市宮町)を下水分社と称するのに対応したものである。元の鎮座地は現在地より北約100mの水越川のほとりにあったが、南北朝時代に兵火にかかり、荒廃した。このため建武元年(1334年)、後醍醐天皇の勅命を受けた楠木正成が、現在地に本殿、拝殿、鐘楼などを再建し遷座した。延元2年(1337年)4月27日、最高位である正一位の神階を授けられた。中世、織田信長軍の河内国攻略の際に社領を没収され一時衰退するが、豊臣秀吉が社領を寄進し、復旧された。1873年(明治6年)の社格制定の際に付近18ヵ村の総鎮守産土神の故を以て郷社に列格した。1907年(明治40年)に神饌幣帛供進社に指定され、氏子地域内の17神社を合祀し、1913年(大正2年)に府社に昇格した。
○例祭
4月25日:春祭
10月第三土曜日:秋祭
○摂末社
摂社:南木神社
祭神:楠木正成公(大楠公)
延元2年(1337年)4月創建。
末社:金峯神社
祭神:天照大御神
○文化財
・本殿(重要文化財)
本殿は三殿で構成されている。中殿は一間社春日造、左右両殿は二間社流造、各殿を渡廊で連結するという全国でも唯一の珍しい様式で、「水分造」とも呼ばれている。構造の細部も優秀巧緻で建築上の模範とされる。1900年(明治33年)に大阪府の神社建築として初めて古社寺保存法に基づく特別保護建造物(現行法の「重要文化財」に相当)に指定され、1950年(昭和25年)、文化財保護法施行に伴い重要文化財となった。通常は非公開である。
○その他
戦艦金剛艦内には守護神として建水分神社の祭神が勧請されている。
○所在地
大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分357番地
感田神社
感田神社は、大阪府貝塚市にある神社である。社格は旧郷社。貝塚寺内町の氏神社で、毎年7月には太鼓台祭りが開催される。
○祭神
天照皇大神
素盞嗚尊
菅原道真 ほか
○歴史
創建は不詳であるが、天文年間頃に本格化する貝塚寺内町の成立と関連している。地元農村からの移住者が多かったことから、南郡海塚村の牛頭天王社と同郡堀村の天満宮を寺内町に勧請し、天照皇大神を中心に三神を祀ったのが始まりで、1587年(天正15年)に陶製の小祠が建てられたという。1648年(慶安元年)には本格的な社殿が造営されている。江戸時代には領主の帰依を得、宗福寺が別当寺の任に当たった。かつては、感田(神田)河原大明神・感田(神田)瓦大明神などとも称された。
○主な行事
7月第3土曜日・日曜日(海の日の前々日・前日)-貝塚太鼓台祭り
7月19日(例祭)
○交通
南海本線 貝塚駅西口より北へ徒歩3分
○祭神
天照皇大神
素盞嗚尊
菅原道真 ほか
○歴史
創建は不詳であるが、天文年間頃に本格化する貝塚寺内町の成立と関連している。地元農村からの移住者が多かったことから、南郡海塚村の牛頭天王社と同郡堀村の天満宮を寺内町に勧請し、天照皇大神を中心に三神を祀ったのが始まりで、1587年(天正15年)に陶製の小祠が建てられたという。1648年(慶安元年)には本格的な社殿が造営されている。江戸時代には領主の帰依を得、宗福寺が別当寺の任に当たった。かつては、感田(神田)河原大明神・感田(神田)瓦大明神などとも称された。
○主な行事
7月第3土曜日・日曜日(海の日の前々日・前日)-貝塚太鼓台祭り
7月19日(例祭)
○交通
南海本線 貝塚駅西口より北へ徒歩3分
狭山神社
狭山神社は、大阪府大阪狭山市の狭山池の近くにある神社である。式内社で、旧社格は郷社。
○祭神
天照皇大神と素盞嗚命を主祭神とし、臣狭山命(狭山連の祖神)・天児屋根命を配祀する。また、明治の神社合祀により大山祇神・稲田姫命を合せ祀る。『神社要録』『河内国式神私考』『河内国式内社目録稿本』では臣狭山命を主神としている。室町時代ごろから江戸時代までは「牛頭天王社」とも称していた。
○歴史
創建の年代は不詳であるが、崇神天皇の勅願により、狭山池の築造以前に創建されたという伝承がある。延喜式神名帳では、近隣の狭山堤神社(現 当社摂社)とともに大社に列格している。南北朝時代、当地は南北両軍の激戦地となり、たびたび兵火にかかった。現在の社殿は室町時代中期の明応2年の再建と推定されている。明治5年(1872年)に郷社に列格し、明治40年1月に神饌幣帛料供進社に指定された。同年12月26日、字明神山にあった村社狭山堤神社を合祀した。また、明治40年には八雲神社(祭神 素盞嗚命)、明治42年には村社狭間神社(祭神 稲田姫命・大山祇神)を合祀した。
○摂末社
狭山神社は大阪みどりの百選の一つに選ばれている。
末社 埴土社(埴安姫大神・大歳神)
末社 岐社(伊弉諾命・塞神)
摂社 戎神社(事代主大神) -- 元 村社狭間神社の摂社
末社 岳主社(大山祇神・猿田彦大神)
摂社 堤神社(入色入彦命)-- 元 式内・狭山堤神社
末社 足玉社(大国主命・天児屋根命)
末社 水本社(瀬織津姫命・高?神)
摂社 稲荷神社(宇賀御魂神) -- 明治35年に村社宇賀御魂神社として創建。明治42年に合祀
○所在地
大阪府大阪狭山市半田1-223
○例祭
10月10日
◎狭山堤神社
狭山堤神社は、狭山神社の境内摂社である。式内社で、狭山神社合祀以前の社格は村社。印色入日子命(五十瓊敷入彦命)を祀る。古事記・垂仁天皇記に「印色入日子命は、……狭山池を作り」とあり、狭山池の鎮守の神として印色入日子命を祀ったものである。『日本三代実録』によれば、貞観元年(859年)1月27日に従五位上の神階を授かった。延喜式神名帳では大社に列格している。明治5年(1872年)に村社に列格した。明治40年12月26日、郷社狭山神社に合祀され、同社の境内社となった。狭山神社拝殿の向って左側にある。
○所在地
大阪府大阪狭山市半田1-223
○祭神
天照皇大神と素盞嗚命を主祭神とし、臣狭山命(狭山連の祖神)・天児屋根命を配祀する。また、明治の神社合祀により大山祇神・稲田姫命を合せ祀る。『神社要録』『河内国式神私考』『河内国式内社目録稿本』では臣狭山命を主神としている。室町時代ごろから江戸時代までは「牛頭天王社」とも称していた。
○歴史
創建の年代は不詳であるが、崇神天皇の勅願により、狭山池の築造以前に創建されたという伝承がある。延喜式神名帳では、近隣の狭山堤神社(現 当社摂社)とともに大社に列格している。南北朝時代、当地は南北両軍の激戦地となり、たびたび兵火にかかった。現在の社殿は室町時代中期の明応2年の再建と推定されている。明治5年(1872年)に郷社に列格し、明治40年1月に神饌幣帛料供進社に指定された。同年12月26日、字明神山にあった村社狭山堤神社を合祀した。また、明治40年には八雲神社(祭神 素盞嗚命)、明治42年には村社狭間神社(祭神 稲田姫命・大山祇神)を合祀した。
○摂末社
狭山神社は大阪みどりの百選の一つに選ばれている。
末社 埴土社(埴安姫大神・大歳神)
末社 岐社(伊弉諾命・塞神)
摂社 戎神社(事代主大神) -- 元 村社狭間神社の摂社
末社 岳主社(大山祇神・猿田彦大神)
摂社 堤神社(入色入彦命)-- 元 式内・狭山堤神社
末社 足玉社(大国主命・天児屋根命)
末社 水本社(瀬織津姫命・高?神)
摂社 稲荷神社(宇賀御魂神) -- 明治35年に村社宇賀御魂神社として創建。明治42年に合祀
○所在地
大阪府大阪狭山市半田1-223
○例祭
10月10日
◎狭山堤神社
狭山堤神社は、狭山神社の境内摂社である。式内社で、狭山神社合祀以前の社格は村社。印色入日子命(五十瓊敷入彦命)を祀る。古事記・垂仁天皇記に「印色入日子命は、……狭山池を作り」とあり、狭山池の鎮守の神として印色入日子命を祀ったものである。『日本三代実録』によれば、貞観元年(859年)1月27日に従五位上の神階を授かった。延喜式神名帳では大社に列格している。明治5年(1872年)に村社に列格した。明治40年12月26日、郷社狭山神社に合祀され、同社の境内社となった。狭山神社拝殿の向って左側にある。
○所在地
大阪府大阪狭山市半田1-223
高瀬神社
高瀬神社は、大阪府守口市にある神社である。式内社で、旧社格は村社。
○祭神
天之御中主神
○由緒
社伝では聖武天皇の勅願により行基が高瀬里に鎮座したものとされる。ただし、主祭神の天之御中主神は当時の主神天照大神よりも古い神である事からもう少し時代を遡るとする説もある。行基年譜によれば行基は高瀬付近で高瀬川(淀川旧流)に架けた高瀬大橋、橋を管理する高瀬橋院(行基四十九院の一つ、高瀬寺。華厳宗。現在は浄土宗の常称寺に縁起が伝えられている。現在の高瀬寺とは異なるとされる)を建立、当時の淀川南流(現在の古川筋)から高瀬川へ通ずる運河大庭溝を開いており、高瀬寺は高瀬神社の宮寺としても機能したものらしい。昭和30年代には高瀬寺跡から飛鳥時代の古瓦が出土しており、聖徳太子が建立したとされる茨田寺がこれで、高瀬寺はその跡に創建されたのではないかとの説もある。(守口市史本文編第1巻・昭和38年刊)延暦4年(785年):早良親王が淡路国へ配流の途上、高瀬里で憤死。住吉大社神代記に難波長柄泊の記述があり、同記中延暦8年(789年)の住吉大社解状に長柄船瀬の東限を高瀬(守口市高瀬・馬場~大阪市鶴見区東部)・大庭(守口市北東部)、西限を鞆淵(大阪市都島区友淵)として領有していたとの記述が見られる。平安時代には荘園として河内十七箇所(十七箇庄、いずれも皇室領)が成立、高瀬は小高瀬庄となる。十七箇所の一部は門跡寺院仁和寺に寄進され上仁和寺庄(寝屋川市仁和寺)、下仁和寺庄(守口市中部)となり、鎌倉期に至る。この時代、高瀬川~大庭溝は伊勢斎宮退下の通路としても利用された。高瀬とは浅瀬の意で、紀貫之の土佐日記にもこの近辺で淀川の水位が下がり、船待ちをした旨の記述がある。鎌倉時代には皇統が持明院統と大覚寺統とに分かれ、十七箇所も両統入り乱れることとなる。建治元年(1275年)、常称寺縁起によれば一遍が荒廃していた高瀬寺の伽藍を再興し、時宗に改宗したとされる。南北朝期には十七箇所は楠木氏と足利氏との争奪の場となる。上下仁和寺庄は花園天皇により妙心寺へ寄進される。高瀬神社、高瀬寺は再び荒廃。北朝後光厳天皇の勅願により、足利義満が高瀬寺を再興。これは十七箇所で大きな勢力となった南朝方の来迎寺を抑える為と言われる。応永6年(1399年)、妙心寺6世住持拙堂宗朴が応永の乱に敗れた大内義弘に連座、寺領は足利幕府に没収され、上仁和寺庄は石清水八幡宮領に下仁和寺庄は幕府領とされた。応永記には応永の乱の際、下仁和寺庄森口城に拠る大内方守将杉九郎200余騎が堺城に呼び戻されたとの記述がある。この頃、十七箇所はそれぞれ禁裏御料、幕府料所、足利氏一族料所とされた。応仁の乱後は畠山氏、三好氏等の同族争いの場となり、高瀬神社、高瀬寺は度々の戦火に晒される。南北朝期まで続いた河内の荘園体制が崩壊、十七箇所は自治的な惣村制に移行。石山本願寺成立後、8代蓮如の時、下仁和寺郷は一向宗の勢力化に組み込まれる。同郷守口(この頃、森口よりこの表記が多く見られる)に寺内町が築かれ、石山本願寺51塁の筆頭として織田氏に対抗した。元亀元年(1570年)、三好三人衆が四国より侵入し、織田信長に味方した旧主三好義継、畠山昭高らを攻める。翌年、義継も信長に反旗を翻す。天正2年(1574年)、信長公記によれば佐久間信盛が河内の三好氏、一向一揆勢を破る。この元亀・天正年間に高瀬神社、高瀬寺は再び焼失した。豊臣秀吉の検地、刀狩により、十七箇所の惣村制が勢力を失い、江戸時代初期までに自然消滅。江戸時代、旧小高瀬郷は7村に分割され、高瀬寺の後裔たる常称寺はその内、世木村を管轄するに過ぎなくなった。江戸時代中期、高瀬神社が再興される。現在の社殿はこの時のもの。現在の社域は非常に狭く、民家の壁が迫っている。京阪電鉄土居駅前商店街の南端に鎮座し、民家や商店街上に高く突き出した楠の巨木が神域の森の名残を残す。
○アクセス
京阪電鉄土居駅徒歩3分
○例祭
歳亘祭:1月1日
稲荷祭:2月13日
夏祭:7月23日直近の金土曜
御例祭:11月23日直近の金土曜
○所在地
大阪府守口市馬場町1-1-11
○祭神
天之御中主神
○由緒
社伝では聖武天皇の勅願により行基が高瀬里に鎮座したものとされる。ただし、主祭神の天之御中主神は当時の主神天照大神よりも古い神である事からもう少し時代を遡るとする説もある。行基年譜によれば行基は高瀬付近で高瀬川(淀川旧流)に架けた高瀬大橋、橋を管理する高瀬橋院(行基四十九院の一つ、高瀬寺。華厳宗。現在は浄土宗の常称寺に縁起が伝えられている。現在の高瀬寺とは異なるとされる)を建立、当時の淀川南流(現在の古川筋)から高瀬川へ通ずる運河大庭溝を開いており、高瀬寺は高瀬神社の宮寺としても機能したものらしい。昭和30年代には高瀬寺跡から飛鳥時代の古瓦が出土しており、聖徳太子が建立したとされる茨田寺がこれで、高瀬寺はその跡に創建されたのではないかとの説もある。(守口市史本文編第1巻・昭和38年刊)延暦4年(785年):早良親王が淡路国へ配流の途上、高瀬里で憤死。住吉大社神代記に難波長柄泊の記述があり、同記中延暦8年(789年)の住吉大社解状に長柄船瀬の東限を高瀬(守口市高瀬・馬場~大阪市鶴見区東部)・大庭(守口市北東部)、西限を鞆淵(大阪市都島区友淵)として領有していたとの記述が見られる。平安時代には荘園として河内十七箇所(十七箇庄、いずれも皇室領)が成立、高瀬は小高瀬庄となる。十七箇所の一部は門跡寺院仁和寺に寄進され上仁和寺庄(寝屋川市仁和寺)、下仁和寺庄(守口市中部)となり、鎌倉期に至る。この時代、高瀬川~大庭溝は伊勢斎宮退下の通路としても利用された。高瀬とは浅瀬の意で、紀貫之の土佐日記にもこの近辺で淀川の水位が下がり、船待ちをした旨の記述がある。鎌倉時代には皇統が持明院統と大覚寺統とに分かれ、十七箇所も両統入り乱れることとなる。建治元年(1275年)、常称寺縁起によれば一遍が荒廃していた高瀬寺の伽藍を再興し、時宗に改宗したとされる。南北朝期には十七箇所は楠木氏と足利氏との争奪の場となる。上下仁和寺庄は花園天皇により妙心寺へ寄進される。高瀬神社、高瀬寺は再び荒廃。北朝後光厳天皇の勅願により、足利義満が高瀬寺を再興。これは十七箇所で大きな勢力となった南朝方の来迎寺を抑える為と言われる。応永6年(1399年)、妙心寺6世住持拙堂宗朴が応永の乱に敗れた大内義弘に連座、寺領は足利幕府に没収され、上仁和寺庄は石清水八幡宮領に下仁和寺庄は幕府領とされた。応永記には応永の乱の際、下仁和寺庄森口城に拠る大内方守将杉九郎200余騎が堺城に呼び戻されたとの記述がある。この頃、十七箇所はそれぞれ禁裏御料、幕府料所、足利氏一族料所とされた。応仁の乱後は畠山氏、三好氏等の同族争いの場となり、高瀬神社、高瀬寺は度々の戦火に晒される。南北朝期まで続いた河内の荘園体制が崩壊、十七箇所は自治的な惣村制に移行。石山本願寺成立後、8代蓮如の時、下仁和寺郷は一向宗の勢力化に組み込まれる。同郷守口(この頃、森口よりこの表記が多く見られる)に寺内町が築かれ、石山本願寺51塁の筆頭として織田氏に対抗した。元亀元年(1570年)、三好三人衆が四国より侵入し、織田信長に味方した旧主三好義継、畠山昭高らを攻める。翌年、義継も信長に反旗を翻す。天正2年(1574年)、信長公記によれば佐久間信盛が河内の三好氏、一向一揆勢を破る。この元亀・天正年間に高瀬神社、高瀬寺は再び焼失した。豊臣秀吉の検地、刀狩により、十七箇所の惣村制が勢力を失い、江戸時代初期までに自然消滅。江戸時代、旧小高瀬郷は7村に分割され、高瀬寺の後裔たる常称寺はその内、世木村を管轄するに過ぎなくなった。江戸時代中期、高瀬神社が再興される。現在の社殿はこの時のもの。現在の社域は非常に狭く、民家の壁が迫っている。京阪電鉄土居駅前商店街の南端に鎮座し、民家や商店街上に高く突き出した楠の巨木が神域の森の名残を残す。
○アクセス
京阪電鉄土居駅徒歩3分
○例祭
歳亘祭:1月1日
稲荷祭:2月13日
夏祭:7月23日直近の金土曜
御例祭:11月23日直近の金土曜
○所在地
大阪府守口市馬場町1-1-11
應典院
應典院はお寺のイメージを覆す斬新な建物が目を引くお寺。活動も現代的で、気軽に参加できる仏門に関する講座や文化・芸術活動を通して、心の成長に貢献する活動を推進しており、現代のお寺の在り方に取り組んでいる。本堂はホール仕立ての「シアトリカル應典院」として、ギャラリーやパフォーマンスステージの場にと、多くのアーティスト達に活用されている。
所在地:〒543-0076大阪府大阪市天王寺区下寺町1-1-27
TE:06-6771-7641
交通アクセス:地下鉄堺筋線・近鉄「日本橋駅」徒歩7分、地下鉄谷町線「谷町九丁目駅」近鉄「近鉄上本町駅」徒歩8分
料金:拝観無料
バリアフリー設備:専用トイレ、スロープ、エレベーター
所在地:〒543-0076大阪府大阪市天王寺区下寺町1-1-27
TE:06-6771-7641
交通アクセス:地下鉄堺筋線・近鉄「日本橋駅」徒歩7分、地下鉄谷町線「谷町九丁目駅」近鉄「近鉄上本町駅」徒歩8分
料金:拝観無料
バリアフリー設備:専用トイレ、スロープ、エレベーター
齢延寺
もともとは元和9年(1620)僧義春によって曹洞宗の寺として真田山に開創され、1623年にいまの場所、源聖寺坂を上がってすぐ左手のところへ移転。志摩国領主稲葉家の菩提寺でもあった。江戸時代は「齢延寺の彼岸桜」と呼ばれた桜の名所で、いまも大樹古墓の多い風格のある寺として知られる。境内には、幕末に私塾・泊園書院を興して活躍した儒者の藤澤東咳・南岳父子や、画家の鍋井克之、名刀鍛冶師の左行秀の墓がある。また、御方洪庵、斉藤方策と並ぶなにわの3名医のひとり・原老柳ゆかりの老柳観音には、病気平癒を願って訪れる参拝者が多い。
所在地:〒543-0071大阪府大阪市天王寺区生玉町13-31
TE:06-6772-0065
営業期間:6:00~18:00
所在地:〒543-0071大阪府大阪市天王寺区生玉町13-31
TE:06-6772-0065
営業期間:6:00~18:00
萬福寺
天王寺区の生玉町から下寺町界隈は歴史ある寺社が多く点在することから、寺町と呼ばれる。松屋町筋沿いに建つ萬福寺は、文禄3年(1594)、前田利家の弟の前田次郎兵衛利信と僧開導によって開創され、阿弥陀如来を本尊として祀る。文久3年(1863)~慶応3年(1867)、新撰組の大坂駐屯地とされ、大坂相撲力士との乱闘、町奉行与力内山彦次郎暗殺などの事件はその間に起こった。当時、本堂裏にあった納屋は牢として使われ、慶応1年(1865)、漢詩人・藤井藍田を拷問の上、絶命させた場所である。その他、多くの志士が牢内に捕らえられていたという。現在、境内には四季の風情が楽しめる美しい庭園が広がり、芭蕉句碑がたたずむ。
所在地:〒543-0076大阪府大阪市天王寺区下寺町1丁目3-82
TEL:06-6771-2183
交通:アクセス近鉄「日本橋駅」から徒歩で
所在地:〒543-0076大阪府大阪市天王寺区下寺町1丁目3-82
TEL:06-6771-2183
交通:アクセス近鉄「日本橋駅」から徒歩で
心眼寺
真田幸村とその子大助の供養の為に真田家の祖先滋野氏が江戸時代に建てた寺です。宰相山公園の西側にあり、心眼寺から南へはお寺が続いています。
所在地:〒543-0016大阪府大阪市天王寺区餌差町2-22
TEL:06-6764-0630
交通アクセス:JR環状線「玉造駅」から徒歩で
営業期間:8:00~17:00
所在地:〒543-0016大阪府大阪市天王寺区餌差町2-22
TEL:06-6764-0630
交通アクセス:JR環状線「玉造駅」から徒歩で
営業期間:8:00~17:00
織田作之助文学碑
昭和19年「新潮」に発表された作品「木の都」は、古き大阪への作者自身のノスタルジーが色濃く漂い、大阪的庶民気質や大阪人情への深い共感が読み取れる優れた作品。
所在地:〒543-0075大阪府大阪市天王寺区夕陽丘町5口縄坂
交通アクセス:地下鉄谷町線四天王寺「夕陽ヶ丘」駅2号出口
営業期間:見学自由
休業:なし
料金:無料
所在地:〒543-0075大阪府大阪市天王寺区夕陽丘町5口縄坂
交通アクセス:地下鉄谷町線四天王寺「夕陽ヶ丘」駅2号出口
営業期間:見学自由
休業:なし
料金:無料
四天王寺庚申堂
四天王寺の南門から南へ300mの庚申堂は、庶民信仰に支えられる浪花の名刹で、かつては四天王寺の境内の一部であったそうだ。「庚申」は道教の影響を受けた日本人の信仰のひとつで、三尸(さんし)という虫に由来している。人間の体内には3匹の虫が住みつき、その人の行動を監視している。そして庚申(かのえのさる)の夜、眠っている人の体から虫が抜け出して、その人の罪や過ちのいちいちを天帝に告げるという。そこから、庚申の日に眠らず「庚申待ち」という慣わしが生まれたとか。四天王寺・庚申堂は大宝元年(701)正月庚申の日に、毫範という僧侶の前に青面金剛童子が現れ庚申の法を伝授したと伝えられる。現在、60日に一度巡ってくる庚申の日には、境内にコンニャクの店が出ている。庚申のコンニャクを北向きで食べると頭痛が治るとの言い伝えがあり、大勢の参拝者で賑わう。
所在地:〒543-0056大阪府大阪市天王寺区堀越町2-15
TEL:06-6772-9420
料金備考:拝観無料
その他:駐車場(普通車:30分200円)
ご利益:商売繁盛、家内安全、病気平癒
所在地:〒543-0056大阪府大阪市天王寺区堀越町2-15
TEL:06-6772-9420
料金備考:拝観無料
その他:駐車場(普通車:30分200円)
ご利益:商売繁盛、家内安全、病気平癒
銀山寺
銀山寺は源聖寺坂を上がってすぐ右手、天正19年(1591)豊臣秀吉の城下町建設の一環として寺町が建設される中、現在地に光明寺第24世住職・縁譽上人休岸によって創建された寺。当初は「大福寺」と称したが、秀吉が中国の金山寺に劣らぬとして寺号を「銀山寺」に改名。秀吉の守り本尊と伝えられる雨宝童子立像が安置されているほか、秀吉の画像、朱印状などが伝わる(大阪城にて保存)。また創建当時のものとされる木造阿弥陀如来立像は、右肩背面に貝殻が付着していることから、海中から引き上げられた仏像と考えられている(像高77.5cm、平安後期)。境内には、大坂東町奉行所の元与力で陽明学者であった大塩平八郎中斎門人松本乾知と父寛吾をはじめ、俳人・医者・儒者であった岡西惟中や、近松門左衛門「心中宵庚申」のモデル、お千代・半兵衛のほか、2006年に亡くなった昭和・平成期の人形浄瑠璃文楽の人形遣い・吉田玉男の墓がある。境内の桜が咲き乱れる春に参拝するのがおすすめ。
所在地:〒543-0073大阪府大阪市天王寺区生玉寺町6-26
TE:06-6771-2702
営業期間営業:8:00~17:00
料金備考:無料
敷地面積:5000平方m
所在地:〒543-0073大阪府大阪市天王寺区生玉寺町6-26
TE:06-6771-2702
営業期間営業:8:00~17:00
料金備考:無料
敷地面積:5000平方m
科長神社
科長神社は、大阪府南河内郡太子町にある神社である。式内社で、旧社格は郷社。
○祭神
風の神である級長津彦命・級長津姫命を主祭神とし、以下の神を配祀・合祀する。
配祀 -- 素盞嗚命・品陀別命・建御名方命・武甕槌命・経津主命・天児屋根命・天照大神
合祀 -- 天御柱国御柱大神・天児屋根命・品陀別命・八坂大神・道祖大神・保食神・菅原道真・市杵島姫命・天照大神
○歴史
創建の由緒は不詳である。元は二上山上に鎮座し、二上権現と称していた。延喜式神名帳には「河内国石川郡 科長神社」と記載され、小社に列している。暦仁元年(1238年)に現在地に遷座した。現在地には元々恵比須神社(一名 土祖神社)があり、科長神社が当地に遷座するに当たりその末社とされたと伝える。江戸時代までは八社大明神と称していた。『式内社調査報告』では「藤原頼孝が二上権現を現在地に遷座させた時に藤原氏の祖神である春日神を勧請・合祀し、科長神社の旧名を抑えて八社大明神と称したのであろう」としている。また、当地は神功皇后誕生の地という伝承もあり、社宝に神功皇后所用と伝える雛形の兜がある。『式内社調査報告』では「科長→磯長→息長と転じ、息長氏の出である神功皇后の誕生地伝説が生まれたのではないか」と記している。明治5年4月1日に郷社に列格し、明治40年1月28日、神饌幣帛供進社に指定された。明治40年、近隣の科長岡神社・素盞嗚神社を合祀した。
○施設
境内社として二上神社・恵比須神社・琴平神社・稲荷神社がある。一帯はかつて蘇我倉山田石川麻呂の本貫地で、社頭には小野妹子の墳墓があり、近くには孝徳天皇陵・推古天皇陵がある。また、太子町内の叡福寺には磯長陵 (しながりょう、聖徳太子廟所、叡福寺北古墳)がある。
○所在地
大阪府南河内郡太子町山田3778
○別名
八社大明神
○例祭
7月第4日曜日
○祭神
風の神である級長津彦命・級長津姫命を主祭神とし、以下の神を配祀・合祀する。
配祀 -- 素盞嗚命・品陀別命・建御名方命・武甕槌命・経津主命・天児屋根命・天照大神
合祀 -- 天御柱国御柱大神・天児屋根命・品陀別命・八坂大神・道祖大神・保食神・菅原道真・市杵島姫命・天照大神
○歴史
創建の由緒は不詳である。元は二上山上に鎮座し、二上権現と称していた。延喜式神名帳には「河内国石川郡 科長神社」と記載され、小社に列している。暦仁元年(1238年)に現在地に遷座した。現在地には元々恵比須神社(一名 土祖神社)があり、科長神社が当地に遷座するに当たりその末社とされたと伝える。江戸時代までは八社大明神と称していた。『式内社調査報告』では「藤原頼孝が二上権現を現在地に遷座させた時に藤原氏の祖神である春日神を勧請・合祀し、科長神社の旧名を抑えて八社大明神と称したのであろう」としている。また、当地は神功皇后誕生の地という伝承もあり、社宝に神功皇后所用と伝える雛形の兜がある。『式内社調査報告』では「科長→磯長→息長と転じ、息長氏の出である神功皇后の誕生地伝説が生まれたのではないか」と記している。明治5年4月1日に郷社に列格し、明治40年1月28日、神饌幣帛供進社に指定された。明治40年、近隣の科長岡神社・素盞嗚神社を合祀した。
○施設
境内社として二上神社・恵比須神社・琴平神社・稲荷神社がある。一帯はかつて蘇我倉山田石川麻呂の本貫地で、社頭には小野妹子の墳墓があり、近くには孝徳天皇陵・推古天皇陵がある。また、太子町内の叡福寺には磯長陵 (しながりょう、聖徳太子廟所、叡福寺北古墳)がある。
○所在地
大阪府南河内郡太子町山田3778
○別名
八社大明神
○例祭
7月第4日曜日
叡福寺
叡福寺は、大阪府南河内郡太子町にある仏教寺院。聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳があることで知られている。山号は磯長(しなが)山、本尊は如意輪観音である。開基(創立者)は聖武天皇ともいい、聖徳太子または推古天皇ともいう。宗派は真言宗系の単立寺院で、太子宗を名乗る。また「中之太子」野中寺、「下之太子」大聖勝軍寺とともに三太子の一つに数えられ、「上之太子」と呼ばれている。
○歴史
この寺にある叡福寺北古墳には、聖徳太子本人とその母・穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう、? - 621年)、太子の妃・膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ、? - 622年)が眠っているとされている。叡福寺の所在する磯長(しなが)は蘇我氏ゆかりの地であり、聖徳太子の父(用明天皇)と母はともに蘇我氏の血を引いているが、この古墳の被葬者を聖徳太子とすることについては異説もある。なお、叡福寺近辺には敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇の陵もある。
寺伝によれば、聖徳太子は生前、推古天皇28年(620年)にこの地を墓所と定めたという。推古天皇29年(621年)、穴穂部間人皇后が没するとここに葬られ、翌年、相次いで没した聖徳太子と妃の膳部菩岐々美郎女が追葬されたという。太子の没後、伯母にあたる推古天皇が土地建物を寄進し、墓守りの住む堂を建てたのが叡福寺の始まりとされている。約1世紀後の神亀元年(724年)、聖武天皇の発願で東院・西院の2つの伽藍を整備し、西院を叡福寺と称したというが、このことは正史には見えず、史実かどうか定かではない。叡福寺の創建年代については諸説あり、実際の創建は平安時代以降に下るとする見かたもある。叡福寺は聖徳太子ゆかりの寺として、歴代の天皇や権力者に重んぜられた。平安時代には嵯峨天皇をはじめ多くの天皇が参拝しており、平清盛は子息の平重盛に命じて堂塔の修理をさせている。また、日本仏教の祖ともいうべき聖徳太子の墓所があることから、空海、親鸞、日蓮など新仏教の開祖となった僧たちもこの寺に参篭したことが知られている。寺は天正2年(1574年)の兵火で大きな被害を受け、古代の建物は残っていない。その後、慶長年間(17世紀初め)、後陽成天皇の勅願により豊臣秀頼が伽藍を再興した。
○伽藍
豊臣秀頼再建の聖霊殿(聖徳太子を祀る)と承応元年(1652年)建立の多宝塔が重要文化財に指定されている。他に金堂、南大門などがある。
○叡福寺北古墳
叡福寺が聖徳太子磯長廟として祀り聖徳太子らの墓所とされる叡福寺北古墳は、宮内庁により天皇家の陵墓(磯長陵)に指定されている。明治12年(1889年)、学術調査がなされた。聖徳太子の墓所とするのは後世の仮託だとする説もある。古墳は約直径55メートルの円墳で、横穴式石室をもち、内部には3基の棺が安置されているという。中央の石棺に穴穂部間人皇女(母)が葬られ、東と西の乾漆製(麻布を漆で貼り固めたもの)の棺には東に聖徳太子、西に膳部菩岐々美郎女(妻)が葬られているとされる。明治12年(1889年)の修復調査が実施された際に、横穴入口をコンクリートで埋めてしまったため、中を調査する事は困難である。また調査の際に、棺は確認できたが、遺骸は風化して残っていなかったとされている。墳丘の周囲は「結界石」と呼ばれる石の列によって二重に囲まれている。平成14年(2002年)に結界石の保存のため、宮内庁書陵部によって整備され、墳丘すそ部が3カ所発掘された。平成14年(2002年)11月14日、考古学、歴史学の学会代表らに調査状況が初めて公開された。墳丘の直径が55メートルを下回る可能性が指摘されている。
○札所
新西国三十三箇所観音霊場客番
仏塔古寺十八尊第2番
聖徳太子霊跡第6番
河内西国三十三箇所第21番
神仏霊場巡拝の道第57番
○太子廟の七不思議
1.樹木が生い茂った御廟内には、松や笹が生えない。
2.鳥が巣を造らない。
3.大雨が降っても御廟の土が崩れない。
4.御廟を取り巻く結界石は何度数えても数が合わない。
5.メノウ石に太子の御記文が彫られたものが、太子の予言どおりに死後430年後(天喜2年(1054年))に発見された。
6.御廟も西にあるクスノキは、母后を葬送したときに、太子自らがかついだ棺の轅(ながえ)を挿したものが芽をふき茂った。
7.寛平6年(894年)、法隆寺の康仁大徳が御廟内を拝見した時、太子の着衣は朽ちていたが、その遺骸は生きているように温かくやわらかだった。
○韓国人窃盗団による盗難事件
平成10年(1998年)に高麗仏画『楊柳観音像』を含む仏画32点が盗まれた。2004年10月にソウルで韓国人窃盗団が逮捕され、平成17年(2005年)1月には懲役判決を受けた。韓国では、日本にある高麗仏画は文禄・慶長の役や日本統治時代に略奪されたと認識されており、窃盗団は「神が『日本が略奪した我が国の文化財を取り戻せ』と言った」と主張したが、盗品をすぐ売却して金に替えており、金銭目的の犯行だと判明している。「楊柳観音像」は韓国に持ち込まれたと言われているが、行方不明である。[1]
○その他
南大門の南側には聖徳太子の3人の乳母を祀る日本最初の尼寺とされる西方院がある。 また聖徳廟と南大門の延長線上の南側にある南林寺は叡福寺の四季講堂であったといわれている(南林寺パンフレットより)。
○交通アクセス
近鉄長野線 喜志駅または近鉄南大阪線 上ノ太子駅から、金剛バス太子線・喜志循環線「太子前」バス停下車徒歩約3分。
○所在地
大阪府南河内郡太子町太子2146
○歴史
この寺にある叡福寺北古墳には、聖徳太子本人とその母・穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう、? - 621年)、太子の妃・膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ、? - 622年)が眠っているとされている。叡福寺の所在する磯長(しなが)は蘇我氏ゆかりの地であり、聖徳太子の父(用明天皇)と母はともに蘇我氏の血を引いているが、この古墳の被葬者を聖徳太子とすることについては異説もある。なお、叡福寺近辺には敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇の陵もある。
寺伝によれば、聖徳太子は生前、推古天皇28年(620年)にこの地を墓所と定めたという。推古天皇29年(621年)、穴穂部間人皇后が没するとここに葬られ、翌年、相次いで没した聖徳太子と妃の膳部菩岐々美郎女が追葬されたという。太子の没後、伯母にあたる推古天皇が土地建物を寄進し、墓守りの住む堂を建てたのが叡福寺の始まりとされている。約1世紀後の神亀元年(724年)、聖武天皇の発願で東院・西院の2つの伽藍を整備し、西院を叡福寺と称したというが、このことは正史には見えず、史実かどうか定かではない。叡福寺の創建年代については諸説あり、実際の創建は平安時代以降に下るとする見かたもある。叡福寺は聖徳太子ゆかりの寺として、歴代の天皇や権力者に重んぜられた。平安時代には嵯峨天皇をはじめ多くの天皇が参拝しており、平清盛は子息の平重盛に命じて堂塔の修理をさせている。また、日本仏教の祖ともいうべき聖徳太子の墓所があることから、空海、親鸞、日蓮など新仏教の開祖となった僧たちもこの寺に参篭したことが知られている。寺は天正2年(1574年)の兵火で大きな被害を受け、古代の建物は残っていない。その後、慶長年間(17世紀初め)、後陽成天皇の勅願により豊臣秀頼が伽藍を再興した。
○伽藍
豊臣秀頼再建の聖霊殿(聖徳太子を祀る)と承応元年(1652年)建立の多宝塔が重要文化財に指定されている。他に金堂、南大門などがある。
○叡福寺北古墳
叡福寺が聖徳太子磯長廟として祀り聖徳太子らの墓所とされる叡福寺北古墳は、宮内庁により天皇家の陵墓(磯長陵)に指定されている。明治12年(1889年)、学術調査がなされた。聖徳太子の墓所とするのは後世の仮託だとする説もある。古墳は約直径55メートルの円墳で、横穴式石室をもち、内部には3基の棺が安置されているという。中央の石棺に穴穂部間人皇女(母)が葬られ、東と西の乾漆製(麻布を漆で貼り固めたもの)の棺には東に聖徳太子、西に膳部菩岐々美郎女(妻)が葬られているとされる。明治12年(1889年)の修復調査が実施された際に、横穴入口をコンクリートで埋めてしまったため、中を調査する事は困難である。また調査の際に、棺は確認できたが、遺骸は風化して残っていなかったとされている。墳丘の周囲は「結界石」と呼ばれる石の列によって二重に囲まれている。平成14年(2002年)に結界石の保存のため、宮内庁書陵部によって整備され、墳丘すそ部が3カ所発掘された。平成14年(2002年)11月14日、考古学、歴史学の学会代表らに調査状況が初めて公開された。墳丘の直径が55メートルを下回る可能性が指摘されている。
○札所
新西国三十三箇所観音霊場客番
仏塔古寺十八尊第2番
聖徳太子霊跡第6番
河内西国三十三箇所第21番
神仏霊場巡拝の道第57番
○太子廟の七不思議
1.樹木が生い茂った御廟内には、松や笹が生えない。
2.鳥が巣を造らない。
3.大雨が降っても御廟の土が崩れない。
4.御廟を取り巻く結界石は何度数えても数が合わない。
5.メノウ石に太子の御記文が彫られたものが、太子の予言どおりに死後430年後(天喜2年(1054年))に発見された。
6.御廟も西にあるクスノキは、母后を葬送したときに、太子自らがかついだ棺の轅(ながえ)を挿したものが芽をふき茂った。
7.寛平6年(894年)、法隆寺の康仁大徳が御廟内を拝見した時、太子の着衣は朽ちていたが、その遺骸は生きているように温かくやわらかだった。
○韓国人窃盗団による盗難事件
平成10年(1998年)に高麗仏画『楊柳観音像』を含む仏画32点が盗まれた。2004年10月にソウルで韓国人窃盗団が逮捕され、平成17年(2005年)1月には懲役判決を受けた。韓国では、日本にある高麗仏画は文禄・慶長の役や日本統治時代に略奪されたと認識されており、窃盗団は「神が『日本が略奪した我が国の文化財を取り戻せ』と言った」と主張したが、盗品をすぐ売却して金に替えており、金銭目的の犯行だと判明している。「楊柳観音像」は韓国に持ち込まれたと言われているが、行方不明である。[1]
○その他
南大門の南側には聖徳太子の3人の乳母を祀る日本最初の尼寺とされる西方院がある。 また聖徳廟と南大門の延長線上の南側にある南林寺は叡福寺の四季講堂であったといわれている(南林寺パンフレットより)。
○交通アクセス
近鉄長野線 喜志駅または近鉄南大阪線 上ノ太子駅から、金剛バス太子線・喜志循環線「太子前」バス停下車徒歩約3分。
○所在地
大阪府南河内郡太子町太子2146
逆櫓の松
逆櫓の松とは今の大阪府大阪市福島区福島付近にあったとされる老松のことである。源平合戦において、この老松の下で源義経と梶原景時が論争した事で知られる。
○歴史
平安時代末期の元暦2年/寿永4年 (1185年)2月、源頼朝から平家追討の命を受けた源義経が摂津国の港・渡邊津に軍を集めた。『平家物語』によれば、源義経と戦奉行の梶原景時がこの地の大きな松の下で軍議の評定を行った。景時は、「船のへさきにも櫓を付けて、どの方向へもたやすく転回出来るようにしたい」と進言した。それに対して義経は、「はじめから逃げることを考えては縁起が悪い」と景時の意見を退けたといわれる。2月16日(旧暦)、暴風雨のために景時は出航を見合わせようとするが、義経は僅か5艘150騎で暴風雨をついて出航する。義経の兵団は通常3日の航路を6時間ほどで阿波国勝浦に到着し、平家の軍が居た屋島を急襲した。
○現在
「逆櫓の松址」碑が、マンションドミール堂島(福島2-2-4)の敷地内にある。 石碑には第二次世界大戦の空襲で焼けた痕跡が残っている。 老松は枯れて、現在はその痕跡をとどめていない。
○交通アクセス
・鉄道
JR西日本東西線新福島駅徒歩5分
JR西日本大阪環状線福島駅徒歩7分
阪神本線福島駅徒歩5分
京阪中之島線中之島駅徒歩5分
○歴史
平安時代末期の元暦2年/寿永4年 (1185年)2月、源頼朝から平家追討の命を受けた源義経が摂津国の港・渡邊津に軍を集めた。『平家物語』によれば、源義経と戦奉行の梶原景時がこの地の大きな松の下で軍議の評定を行った。景時は、「船のへさきにも櫓を付けて、どの方向へもたやすく転回出来るようにしたい」と進言した。それに対して義経は、「はじめから逃げることを考えては縁起が悪い」と景時の意見を退けたといわれる。2月16日(旧暦)、暴風雨のために景時は出航を見合わせようとするが、義経は僅か5艘150騎で暴風雨をついて出航する。義経の兵団は通常3日の航路を6時間ほどで阿波国勝浦に到着し、平家の軍が居た屋島を急襲した。
○現在
「逆櫓の松址」碑が、マンションドミール堂島(福島2-2-4)の敷地内にある。 石碑には第二次世界大戦の空襲で焼けた痕跡が残っている。 老松は枯れて、現在はその痕跡をとどめていない。
○交通アクセス
・鉄道
JR西日本東西線新福島駅徒歩5分
JR西日本大阪環状線福島駅徒歩7分
阪神本線福島駅徒歩5分
京阪中之島線中之島駅徒歩5分
2012年12月2日日曜日
万代池公園
阪堺電気軌道上町線の帝塚山3丁目駅から東へ歩いて数分。周囲約700メートルの万代池を中心に広がる総面積4.3haの公園。昭和2年(1927)に発行された住吉村誌によると、その昔、万代池には不思議な魔物が住み、人々を悩ませていたが、聖徳太子が四天王寺から人を遣わし、お経をあげさせたところ、魔物は現れなくなった。その時、あげた経が曼陀羅(まんだら)経だったことから、当初は曼陀羅池と呼ばれていたが、いつの間にかその名が訛り、萬代池(まんだいいけ)になったという。現在の万代池公園は子供向けの遊具などが置かれ、ラジオ体操やウォーキングなどを楽しむ市民の憩いの場。桜の時期には地元の花見客でにぎわい、冬はやってくる渡り鳥めあてに野鳥ファンが集う。
所在地:〒558-0055大阪府大阪市住吉区万代3丁目
TEL:06-6691-7200
営業期間休業:なし
料金備考:無料
所在地:〒558-0055大阪府大阪市住吉区万代3丁目
TEL:06-6691-7200
営業期間休業:なし
料金備考:無料
奥田家住宅奥田邸
JR関西本線加美駅を下車し、南へ約100m。河内国の鞍作村と呼ばれていたこの地域で、代々鞍作の庄屋を務めていた奥田家は、付近10ヶ村の庄屋総代として苗字帯刀が許された豪農だったと考えられている。現在も残る屋敷は、江戸時代初期に建てられたもので国指定重要文化財。約3300平方メートルもの広大な敷地に、主屋、表門、乾蔵、旧綿蔵、納屋、米蔵2棟などが並ぶ。中でも、かやぶき屋根の主屋はもっとも古い建物で、風格を漂わす美しい建築。奥田邸保存会の奥田順一理事によると、家康の軍勢が大坂城を攻める際、ここで食事を摂ったという逸話も残っているという。民家ならではのくらしぶりや素朴な歴史物語が興味深い。
所在地:〒547-0004大阪府大阪市平野区加美鞍作1-8-5
TEL:06-6792-2695
交通アクセス:JR大和路線「加美駅」から徒歩で
営業期間:10:00~16:00 第1・第3日曜日
休業:第1・第3日曜日以外は休館
料金:大人300円
文化財:国重要文化財
所在地:〒547-0004大阪府大阪市平野区加美鞍作1-8-5
TEL:06-6792-2695
交通アクセス:JR大和路線「加美駅」から徒歩で
営業期間:10:00~16:00 第1・第3日曜日
休業:第1・第3日曜日以外は休館
料金:大人300円
文化財:国重要文化財
上新田天神社
上新田天神社は大阪府豊中市に鎮座する神社。法人名は天神社。千里天神と通称される。
○祭神
菅原道真公を祀る。
○歴史
創建は不明だが、上新田村の開墾により貞享3年(1686年)に現在地に社殿を再建された。天明元年(1781年)に御旅所が建立された時に、神輿・太鼓・金幣が巡幸して祝った。明治5年(1872年)村社に列し、同38年(1905年)本殿覆屋根と拝殿を建立。
○文化財
上新田天神社本殿:豊中市指定有形文化財 (平成5年10月1日指定)貞享3年(1686年)の建立。
上新田天神社とんど祭:豊中市指定無形民俗文化財(昭和62年9月1日指定)毎年1月14日夕刻。
○交通アクセス
北大阪急行電鉄千里中央駅より 中国自動車道を超えて南へ10分
○例祭
5月5日・10月第2日曜日
○所在地
大阪府豊中市上新田1丁目17-1
○祭神
菅原道真公を祀る。
○歴史
創建は不明だが、上新田村の開墾により貞享3年(1686年)に現在地に社殿を再建された。天明元年(1781年)に御旅所が建立された時に、神輿・太鼓・金幣が巡幸して祝った。明治5年(1872年)村社に列し、同38年(1905年)本殿覆屋根と拝殿を建立。
○文化財
上新田天神社本殿:豊中市指定有形文化財 (平成5年10月1日指定)貞享3年(1686年)の建立。
上新田天神社とんど祭:豊中市指定無形民俗文化財(昭和62年9月1日指定)毎年1月14日夕刻。
○交通アクセス
北大阪急行電鉄千里中央駅より 中国自動車道を超えて南へ10分
○例祭
5月5日・10月第2日曜日
○所在地
大阪府豊中市上新田1丁目17-1
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