2012年8月3日金曜日

がんがら火祭り大一文字点灯・大文字献灯

8月24日、大阪府池田市で毎年行われるがんがら火祭は、1644年(正保元年)にその興りの起源を持つ、北大阪(北摂)を代表する貴重な伝統的火祭りです。また、同行事は、1978年(昭和53)10月21日、池田市の重要無形文化財祭礼行事に指定され、池田市民だけではなく多くの人に親しまれています。祭り当日は、池田のシンボルである五月山に京都の送り火の如く、大一文字と大文字がともされ、町には重さ100キログラム長さ4メートルの大松明が二本一組で二基繰り出します。全行程3キロメートルの道のりを光々と火を燃やしながら練り歩きます。その迫力は、毎年多くの見物客を魅了しています。がんがら火は、最初から今の形式になったのではなく、長い時を経て徐々に形を変え、要素を加えながら発展してきました。
<その興りと経緯>
がんがら火は、愛宕神社(五月山山上にある)と切っても切れない縁で結びついています。その始まりも愛宕信仰との関係があります。1727年頃作成された伊居太神社の「穴織宮拾要記」によると京都の愛宕神社との経緯があった事が記されています。正保元年(1644)に多田屋・板屋・中村屋・丸屋の四人が、五月山山上で百味の箱を竹に立て火をともしたところ、人々がその火を見て、池田に愛宕が飛来したといいながら、競って参集したのが池田の愛宕神社のはじまりとされています。防火設備もほとんど無く、日本の家屋には耐火素材がほとんど使われていませんので、一旦火災が発生すれば町全体を焼き尽くすような大惨事にもなりかねません。常にそういう状態に晒されていた当時の都市は、火に対する怖さの気持ちは現在では想像もできません。そういう時代背景から、当時は京都の愛宕さんは将軍地蔵を奉り、火伏に霊験ありと信じられていましたので、その信仰も盛んでした。池田地域にもその信徒が多かったのですが、京都まで行くとなると徒歩で数日がかりの大仕事で、それが手軽にお参りできるのは有り難いと五月山の新愛宕は忽ち繁盛しました。その評判があまりに高いために、京都の愛宕神社から抗議があったのですが、箕面勝尾寺宝泉院は京都所司代板倉周防守にはたらきかけて和解を果たします。それ以後、本格的な社殿建設を今の位置と同じ五月山山上に進められました。専門家によると、土着信仰では神が飛来するというパターンも多く見られるが、池田における愛宕神社の創始には、典型的な都市における民衆信仰の発生過程が見られるとのことです。もう少し愛宕神社の事について触れますと、1693年(元禄6)に作られた「池田村寺社御吟味帳」には、愛宕権現社は当時五月山にあった上仙寺の一社として記載されていて、その補足に「是ハ勝尾寺宝泉院当村高法寺両支配」と有ります。今も旧市街に残る高法寺は、当時村の会所としての機能があり、そこに集う庄屋衆が愛宕神社の権利の一部を貰い受け、高法寺が支配権を獲得しました。勧請から50年後、愛宕神社は池田の町が全体として執り行うという特別な位置を確かなものにしています。さて、当時の祭りの様子を見てみますと、はじめは「百味の箱を竹に立て火を灯した」だけの質素なものでしたが1696年(元禄9)に出された絵入りの俳諧集「俳諧呉服絹」には、五月山愛宕道で高張提灯の下に座した僧が鐘を叩き、その前を参詣の人や駕籠が登って行く様子が描かれています。また、愛宕火(がんがら火は後世になってよばれるようになった)について多くの俳諧が残っていて、池田に隣接する近在近郷の者にとって秋を迎える季節の風物詩となっていました。一句ご紹介しますと「愛宕火や池田伊丹の秋ひとつ 休計」などがあります。この5年後の1701年(元禄14)に刊行された「摂陽群談」には、愛宕火について「毎年七月廿四日(今は8月24日)夜種々ノ灯篭二火ヲトモシテ愛宕火ト号祭ル大坂北ノ町終ヨリ見ル人星光ヲ疑フ」とあって、当時の愛宕火が灯篭に火をつける形のものであったことがわかります。また、高層の建築物がなかった時代には大坂の町からも望まれたほど盛大に行われていました。他にも、1798年(寛政10)に刊行された「摂津名所図会」や1803年(享和3)に出された曲亭馬琴の「俳諧歳時記」にも、灯篭に火を点じてこれを愛宕火と称し、それが大坂の町から星のように望まれた事が書かれています。このようにはじめは信仰による静かな祭事だったものが、時代を経るに連れて地域の娯楽の色付けもされていきました。現在のように娯楽がなく、キツイ労働が当たり前の時代には、自然な成り行きだったのかもしれません。当時の祭りの記録には、各町毎に作り物(その時代を反映した人物や名物、ヒーローなどを人形などにして町々を飾る)が出され、だんじり、夜店が出ていたとの記録も見られます。後に(江戸期中頃に)文字火の形式が変わったりしますが、それ以降は明治時代まで、大旨スタイルは継承されています。昭和初期頃には大松明が登場し、がんがら火は華やいだものに変貌して行きます。今のがんがら火は、この大正から昭和の初めに完成されたスタイルを受け継いでいると言えます。
<五月山の文字火>
五月山の文字火が資料上で登場するのは、1819年(文政2)七月廿四日が最初です。郷土史家の故島田福雄氏による調査では、1803年(享和3)以降の化政時代(11代将軍家斉の頃19世紀前半あたりをいいます。)にその興りがあったことがわかりました。また、同じく郷土史家の故林田良平氏も1714年(正徳4)以降の記載がある「伊居太神社日記」等から文政以前、既に愛宕火の灯篭が一文字火になっていたこをが摘されています。しかし、その形式は現在のものとは違い、木製の足つき灯篭を山肌に突き立てて文字火にしていました。また、はじめの頃はその作業を有志が行なっていましたが、その後、愛宕講の講中が、更に後には甲ヶ谷町(今の城山町)が受け持つようになり、次第に文字火を燈すようになりました。点燈場所については現在よりも少し東側だったようです。この頃に建石町の文字火も始まっています。時代を経て、現在の文字火は城山町の「大一」と建石町の「大」の字ですが、城山町の「一」の字がいつ頃から「大一」の形になったかは古文書の記録には無く、時代は下った1910年(明治43)3月に箕面有馬電気軌道(阪急電鉄の前身)が発行した「箕面有馬電気軌道沿線名所御案内」で、五月山の文字火の紹介がされます。 「愛宕祠 山路七、八丁の処に在り、七月廿四日の夜、松明を点じて大と一との二文字を現はし、以て法会を修す。」とあって、この頃に大一文字(大一の意味は、大は天を、一は大地を松明は人を象徴との記載=愛宕神社縁起)になっています。また、肥松(松の木を伐採した後の切り株の根に含まれる油分が凝縮したところ。地中で20~30年以上経たないとできない。)がその燃料になっています。この頃から現在まで、そのスタイルは変わることなく受け継がれています。


2012年8月24日19:30~22:00(予定)
開催場所 大阪府池田市 五月山中腹~池田市役所周辺

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