2012年4月28日土曜日

太田城

太田城は、大阪府茨木市にあった平城
○概要
太田城は、この地域では最も古い城で平安時代末期、1180年前後太田頼基が築いたと言われている。この周辺では池田城が建武元年(1334年)前後に築城されたが、太田城はそれより150年前に築城されたと思われている。太田城の正確な位置は解っていないが、西国街道に接した南側、安威川と東岸、城の半分は現在の東芝中央倉庫が推定地、規模としては東西、南北150m前後ではないかと考えられている。城の東端に高さ2m程度の城の山という場所があり、その位置から推定すると物見櫓的な働きをしていたと思われるが、現在そのような場所は確認できない。昭和35年(1960年)、太田城の跡地の半分を東芝が取得し、中央倉庫を建設するために土地造成を実施、西方で青味がかった巾2-3mの土が50m続いて出てきたが、遺物はなにも出土されなかった。この東芝工場は2008年3月末で閉鎖された。平安時代の城であった太田城は、南北朝時代、戦国時代の本格的な城郭とは違い、砦、居館、館城の域を脱しなかったのではないかと思われている。
○沿革
太田城は太田頼基が築城したと思われているが、明確な古文献は見受けられないの細部に関しては不明な点が多い。ただし、太田頼基に関する記述はいくつか残っている。平家物語巻第四の治承4年(1180年)4月9日の夜の一節に
“ 摂津国には、多多蔵人行綱こそ候へども、新大納言成親卿の反乱の時、同心しながら返忠したる不当人にて候へば、申すに及ばず。さりながら、其の弟多田次郎朝実、手島冠者高頼、太田太郎頼基。 ”
?平家物語 巻第四とあり、行綱、朝実、高頼、太田頼基共に多田源氏の一族で太田頼基は摂津国でも有力な武士であったと思われる。
○廃城
その後約350年間この地域を治めていた太田城であったが、細川晴元と細川高国との争いの中、桂川原の戦いの前の大永7年(1528年)2月、波多野稙通軍は茨木にあった城を次々と降服し開城した。その後史上から太田城の名が消えたので、この時廃城になったものと思われている。
○所在地
茨木市太田



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