2012年4月29日日曜日

福井城

○概要
現在の福井城跡は殆んどが田んぼになっており、一見城跡なのか解りにくいが、土地の高低と堀の構造、そして現在も使用されている、「子字名本丸・城ケ谷・構え」などの地名から城の概要を推し量ることができる。地理的には、茨木川東岸、北側には福井山の支脈の突端部、台地に築かれた、山城もしくは丘城と考えられている。また近隣には、追手門学院大学を挟み直線距離で約1.5 kmの場所に安威城がある。
○沿革
この城の歴史については多くは解っていない。明治時代初期頃に作成された『東摂津址城図誌』によると、建武元年(1334年)摂津国、河内国、和泉国に楠木正成守護が築いたとあるが、楠木正成が摂津国の守護職についた史実は無いので伝承レベルで記載されたと思われる。ただ西国街道と丹波街道の抑えとして築いた、としている点は可能性が十分あり、楠木正成説を否定できない。
同じ『東摂津址城図誌』には、細川頼之が福井城に摂津国の守護代を、また細川勝元の時には秋庭元明を守護代として配したと記載されている。また福井城の西側に、古来「矢上」と称する場所があったようで、『福井村誌』によると「大永5年(1525年)から翌年まで、四国方の三好勢と京方の薬師寺勢と数度の合戦ありし古跡」とあるが、これは、大永6年(1527年)から翌年の誤りで、桂川原の戦いの事で波多野稙通軍がこの辺りまで戦線を拡大していたと思われる。この『福井村史』によると「矢上」と称する場所は、武士が矢の稽古をしていた場所、との記載もある。廃城は、この桂川原の戦いの大永7年(1528年)2月の事で、細川晴元方に降服し開城した。その後史上からその名を消したので、この時に廃城になったものと思われている。
所在地:茨木市東福井3丁目(上福井バス停すぐ)

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