この窯跡は平成2(1990)年に窯本体と灰原(不良品などを廃棄処分した場所)の規模や構造などの基礎資料を得る目的で確認調査を実施しました。その結果、全長13m、最大幅2.5m高さ2m以上を有する半地下式構造の登り窯であることが判明しました。窯自体は焚口、燃焼部(薪等を集積し、燃やすところ)、焼成部(土器を置き、焼き上げるところ)などに区分され、床面や壁面には土器と同じ灰青色に硬く焼きしめられています。一方不良品や薪の燃えカスの炭・灰などが捨てられた灰原は窯本体の下方斜面に最大幅25m、、長さ30mの範囲に広がり、その厚さは1~2mにも達しています。操業時期は、これらから出土した遺物によって古墳時代後期前半(6世紀前半)であることも明らかになりました。この窯跡では土器が焼きあがった状態のまま残存しています。これは取り出す直前、天井部の崩落というアクシデントにより放棄されたと推定されています。この災いが私達には幸して、どのような器種をどのように窯詰めするのか、また一窯当りの生産量がどれくらいかなど、古代窯業生産の実態解明に欠かすことの出来ない資料を提供しているそうです。それとこれは余談ですが、この窯の近所に「太鼓塚古墳群」と言う古墳群があるらしい(一部の文献によると個人宅内にあるため見学できないらしい)。
所在地:大阪府豊中市永楽荘4-3
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