金毘羅街道とは、各地と金刀比羅宮(香川県仲多度郡琴平町)を結ぶ参詣道として整備された街道。
○概要
江戸時代、海上交通の守り神である金毘羅大権現への信仰が一般民衆にも広がると、金毘羅参りが盛んに行われるようになり、全国各地から多くの参詣客が訪れるようになった。多くの旅人が利用した参詣道には灯篭や丁石などが設置され、街道として整備された。特に利用者が多かった高松街道、丸亀街道、多度津街道、阿波街道、伊予・土佐街道は通称金毘羅五街道と呼ばれる。これら主要な街道以外にも金毘羅参りに利用されていた街道は金毘羅街道と呼ばれていた。明治中期以降、鉄道や自動車が登場する時代になると、歩行街道としての金比羅街道は廃れ、旧街道の流れを汲む新しい道が整備されていった。現在はその多くが県道や国道に指定されている。
○主な金毘羅街道
・高松街道
別名は琴平街道、高松金毘羅街道など。高松城から讃岐国の各地を結んでいた高松藩の讃岐五街道の一つでもある。起点は高松城(玉藻城)外堀にかけられていた常盤橋(現在の高松三越の付近)。栗林からは香川県内陸部の円座、畑田十三塚、滝宮、岡田、榎井などを経由し琴平に至る。高松藩松平家が金刀比羅宮を厚く保護したため、街道も早くから整備され、伝馬所は栗熊に、高松側起点の一里塚は紙町、円座、福家、陶、小野、岡田、四条に置かれ、街道沿の町は宿場として賑わった。 現在の高松街道は香川県道266号勅使室新線・香川県道282号高松琴平線(旧国道32号)とそのバイパスとして整備された国道32号であり、旧街道と重なる部分もある。円座から琴平までは高松琴平電気鉄道琴平線がほぼ並行して走っている。中讃地方を流れる一級河川の土器川は、高松街道が渡河をする中流のあたりでは別名の祓川と呼ばれている。これは金刀比羅宮へ向かう参拝者がこの川で身を祓い清めたためと言われている。
・丸亀街道
丸亀港から中府、郡家、与北などを経て琴平に至る道。陸路の距離が短く平坦であったため、大坂や対岸の備前国などから金毘羅船で讃岐を訪れた参詣客が多く利用していた。延享年間には大坂-丸亀間に定期船が就航し、数ある金毘羅街道のうちで最も賑わったと伝わる。現在は香川県道4号などがその流れを汲む道路である。
・多度津街道
多度津港から善通寺、生野、大麻等を経て琴平に至る道。丸亀街道と同じく金毘羅船でやってくる参詣客が多く利用していたが、こちらは西国・九州からの参詣客が多かった。天保年間に多度津藩が多度津港の大改修をしてからは丸亀街道をも凌ぐ賑わいを見せたと伝わる。多度津琴平間の道は明治時代に政治家・大久保諶之丞が四国新道を建設した。現在の香川県道25号や国道319号が流れを汲む。JR四国土讃線と並行している。
・阿波街道
徳島県から讃岐山脈を越えて琴平に至る道。琴平町内の阿波町の名称は阿波国からの多くの人がやってきたことに由来する。阿波からの参詣客は金刀比羅宮とゆかりがあり、金毘羅奥の院と呼ばれる箸蔵寺も併せて参詣することが多かった。阿波国と讃岐国を結ぶ街道はいくつか存在しているが、阿波池田から猪ノ鼻峠、財田戸川、樅の木峠等を経て琴平に至る街道、貞光から三頭峠を越え、久保谷、造田、四条等を経て琴平に至る街道がよく知られる。猪ノ鼻越えの街道は阿波別街道ともいい、この街道は明治時代になってから大久保諶之丞により四国新道として整備され、後に国道32号に指定された。並行してJR四国土讃線が走っている。三頭越の阿波街道の大部分は後に国道438号に指定された。峠区間は自動車道路としては整備が遅れていたが、1997年にようやく三頭トンネルが開通し、自動車の行き来が容易になった。美馬市美馬町立見山では埋もれていた旧街道の鳥居が住民の手により活用されている[1]。
・伊予・土佐街道
愛媛県川之江から燧灘沿いに豊浜へ、ここから内陸を進み伊予見峠を経て琴平の牛屋口に至る道。伊予からの参詣客のほか、土佐(北)街道を通ってやってきた土佐からの参詣客も多く利用していた。この街道沿いに残る灯籠などの寄進物は伊予・土佐の人々によるものが多い。幕末に土佐の志士もこの街道を利用していたため、牛屋口には坂本龍馬像も設置されている。またここから少し外れたところには金比羅大権現の歴代別当の墓がある広谷墓地がある。現在の国道377号はこの街道の流れを汲む道路である。
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。