豊後街道は、肥後国熊本(現在の熊本県熊本市)と豊後国鶴崎(現在の大分県大分市鶴崎)を結ぶ全長約124km(31里)の街道である。江戸時代に加藤清正によって拓かれ、熊本藩の参勤交代に用いられた。
○概要
肥後国熊本城の札の辻から、阿蘇、久住を経て、豊後国鶴崎に至る街道である。加藤清正が天正16年(1588年)に初めて肥後国に入国した際に通った道とされ、後に清正によって拡張され肥後国と豊後国との間の主要な街道となった。江戸時代には、豊後国のうち豊後街道沿いの久住、野津原、鶴崎が熊本藩の飛び地となり、熊本藩の参勤交代は、豊後街道を通って陸路で九州を横断した後、鶴崎の港から海路で瀬戸内海を通って大坂に至り、東海道を江戸に向かっていた。これは、当時、大坂、江戸への最短経路であった。熊本から鶴崎までは4泊5日を要し、大津、内牧、久住、野津原の4つの宿場が整備された。後に、これらの間の坂梨、今市等にも宿場が設けられた。文久4年(1864年)に四国艦隊下関砲撃事件調停の幕命を受け、江戸から長崎に向かった勝海舟、坂本龍馬等一行は、佐賀関に上陸した後、豊後街道を通って熊本経由で長崎に向かった。豊後街道のうち、熊本市から菊池郡大津町に至る部分は大津街道、大津町から阿蘇郡阿蘇町二重峠に至る部分は清正公道(せいしょこどう)とも呼ばれる。また、大分側から見ると肥後国に向かう街道であることから、肥後街道とも呼ばれる。さらに、豊後往還、肥後往還と呼ばれることもある。経路は、現在の国道57号、熊本県道337号熊本菊陽線、熊本県道339号北外輪山大津線、熊本県道110号阿蘇一の宮線、国道442号等にほぼ沿っており、所々に石畳や杉並木などが残されている。
○日向往還/肥後往還
豊後街道とは別に、肥後国(起点は熊本市新町札の辻)から、現在の上益城郡嘉島町~御船町~山都町を通り、日向国(宮崎県、終点は延岡市)へ至る旧藩時代の街道が熊本の県央(宮崎県の北部)にあった。これは阿蘇の南外輪山と九州山地の間にある谷間を縫うように続く道で、生活道路であった。 詳細地図など特に内陸部にあった山都町(旧・矢部町、旧・清和村、旧・蘇陽町)など山間部から延岡市へは、重要な塩を手に入れるために牛馬を引き歩いて通ったという。現在、街道沿いにある史跡・八勢眼鏡橋(御船町七滝)や立野橋(山都町金内)などには案内看板や石柱が設置されており、一部では石畳なども残り旧街道沿いを歩くことが可能である。この地方の町興しの一環として近年、「日向往還歴史ウォーク」のような参加型イベントが山都町を中心に開催されている。
○街道上の旧跡
・二里数木(熊本県菊池郡菊陽町)
街道に一里ごとに設けられた一里塚に植えられた木で、豊後街道では唯一現存するもの。他に、一里木は熊本バスの停留所、三里木はJR九州豊肥本線の三里木駅等にその名が残っている。
・菊陽杉並木(熊本県菊池郡菊陽町)
道路の両端に土手を設けて杉を植え、人馬の通る部分を周囲より低くした凹道で、人馬が通る部分の道幅は30-40mにも及ぶ。侵入した敵を道の両側から攻撃することができ、並木を切り倒すことにより交通を遮断できるという戦略的な意味を持つ。現在は、杉並木の間に熊本県道337号熊本菊陽線(旧国道57号)と豊肥本線とが併走している。
・清正公道(熊本県菊池郡大津町・阿蘇郡阿蘇町)
・二重峠(熊本県阿蘇郡阿蘇町)
・今市の石畳(大分県大分市(旧大分郡野津原町))
今市は豊後街道の宿場町として栄え、本陣、脇本陣、茶屋、代官所、造酒屋が軒を並べていた。現在は、延長約660mにわたって、道幅8mのうち2.1mに石畳が残っている。外敵の侵入を防ぐために、街道は街の中心部で2度鍵形に折り曲げられ、クランク状になっている。1972年(昭和47年)に大分県の史跡に指定されている。
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