2012年10月18日木曜日

美濃路

美濃路は江戸時代に東海道・宮宿と中山道・垂井宿とを結んだ脇往還である。関ヶ原の戦いにおいては、東軍の先鋒である福島正則が起(愛知県一宮市(旧尾西市))から美濃へ進軍し、戦いに勝利した徳川家康が凱旋した道で、「吉例街道」とも呼ばれ、将軍上洛時にも使われた。朝鮮通信使、琉球王使、お茶壺道中などが、この美濃路を通行した。東海道では、宮宿と桑名宿の間に七里の渡しが存在しており、江戸時代は水難事故も起こりやすい難所とされていたため、東西を移動するのに遠回りであっても海路を避けられる美濃路が好まれることがあった。
○美濃路の主な通行
朝鮮通信使(10回)
美濃路では、大垣泊、墨俣または起で休憩、名古屋泊が通例であった。
琉球王使(11回)
最初は東海道経由であったが、1714年(正徳4年)以降は、美濃路経由となった。休泊地は一定していなかった。
お茶壺道中(毎年)
往路は東海道で茶壺が運ばれ、宇治で新茶がつめられて、帰路は中山道を経由するというのが通例だったが、元禄以降、帰路は美濃路経由で東海道を通った。
象の通行(1729年)
美濃路での行程は、垂井泊、墨俣休、起泊、稲葉休、清須泊、宮休。
○宿場一覧
1.宮宿 (愛知県名古屋市熱田区)
2.名古屋宿 (愛知県名古屋市中区)
3.清須宿 (愛知県清須市)
4.稲葉宿 (愛知県稲沢市)
5.萩原宿 (愛知県一宮市)
6.起宿 (愛知県一宮市)
7.墨俣宿 (岐阜県大垣市)
8.大垣宿 (岐阜県大垣市)
9.垂井宿 (岐阜県垂井町)
○その他
東海道本線、東海道新幹線、東名・名神高速道路などは、東京から熱田までは江戸時代の「東海道」に沿って敷かれているが、岐阜・草津間は「中山道」、そして熱田・岐阜間は「美濃路」に沿って敷かれている。これは東西両京を結ぶ鉄道路線が計画された際、初めは中山道を経由して琵琶湖水運を当面の間は用いる案が採用されており、その建設資材を運びこむために愛知県武豊町の港を活用するべく、中山道の加納(岐阜)から名古屋を経由して武豊にいたる路線を敷設したことに起因している。東西両京を結ぶ路線は、後に「中山道線」から「東海道線」に計画変更されたが、既に神戸から大阪・京都を経て大津までと、上記の区間を含む長浜から岐阜・名古屋を経て武豊間の鉄道が開業し、大津・長浜間の琵琶湖水運を用いて神戸から武豊までが結ばれていたことから、熱田以西は本来の東海道ではなく、すでに完成していたこれら路線を活用することが決められ、現在の東海道本線が形成された。その後に建設された新幹線も、基本的にはこのルートを踏襲している。高速道路は当初、中央自動車道として東京から小牧を経て西宮に至る路線が計画されたが、そのうち優先度が高い小牧から西宮までを名神高速道路として先行開業させ、それに中央自動車道より先に開業した東名高速道路が接続したため、東海道本線に沿う現状形態となった。また新名神高速道路は、本来の東海道に沿ったルートで建設されている。

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