土佐海援隊の出身で外務大臣陸奥宗光とその家族の墓地跡。陸奥の父、伊達宗広は鎌倉時代の歌人、藤原家隆を敬慕し、家隆の墓付近に隠居所「自在庵」を作り、この地を「夕日岡」と創名した。陸奥宗光は紀州藩を脱藩し、勝海舟の門下生となる。坂本龍馬率いる海援隊に入り、龍馬の片腕となった。陸奥らは龍馬暗殺後、いろは丸事件の交渉で海援隊と衝突した紀州藩の三浦休太郎を暗殺犯と疑った。三浦が宿泊していた、京都西本願寺の東にあった天満屋を襲い、警護にあたっていた斎藤一・大石鍬次郎ら新選組と海援隊が斬り合っている(天満屋事件)。薩摩藩家老小松帯刀は、慶応4年(1868)5月23日~7月12日、大阪府の知事代行(府事管理)や外国事務掛、総裁局顧問、外国官副知官事、玄蕃頭などの要職を歴任していたこともあり、「神戸事件」「堺事件」など外国との折衝に苦慮していた。明治3年(1870)、労咳を患っていた小松は、大阪で亡くなりこの近辺に葬られた。同郷の大久保利通や五代友厚がお墓参りに訪れている。明治9年(1876 )、鹿児島の「小松家墓所」に改葬された。陸奥宗光の父・伊達宗広は明治10年(1877)に亡くなり、遺言どおりこの地に埋葬され、陸奥家の墓所とし、宗光や家族もここに葬られた。昭和28年(1953)、陸奥家の子孫の方が鎌倉に移葬した。
所在地:大阪府大阪市天王寺区夕陽ケ丘町11
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