2014年12月22日月曜日

間長涯天文観測の地

間長涯は、名は重富、長涯は号で、1956(宝暦6)年に富田屋橋北詰で生まれた。長涯は質屋の当主十一屋五郎兵衛として家業を営む傍ら、天文学を麻田剛立の塾先事館で学んだ。師の剛立は、ケプラーの第3法則を独学で発見した人物で、1795(乾性7)年に幕府から改暦の依頼を受け、門下から高橋至時と長涯を幕府天文方に派遣し、高橋は3年で寛政暦を完成させた。そのときの功績により、幕府から2人を直参に取立てる話があったが、長涯は辞退して帰坂した。天文観測は自宅の蔵の上にやぐらを組んだり、富田屋橋上で行われた。その際には、幕府が高張提灯をめぐらせて、橋を通行止めにした。長涯は天文方となった高橋至時とその子影保・渋川影祐を助け、至時の伊能忠敬に測量技術と器械を与え、日本地図の作成におおいに貢献した。また、長涯は、のちの大阪蘭学の中心人物となる橋本宗吉の学士援助などをした。1816(文化3)年61歳で没するが、その事業は子の重新に伝えられ、重新は、1819(文政2)年6月22日に、第2彗星を観測した。西欧よりも10日早い観測であったが、鎖国中のため、世界には認められなかった。偶然にも、長涯と重新の天文観測の地から東へ約400mの所に、1937(昭和12)年に東洋発のプラネタリウムを導入した市立電気科学館が開かれた。のち、1989(平成元)年に、市立科学館が中ノ島に開館されて、その伝統は引き継がれた。
所在地:大阪府大阪市西区北堀江2
最寄駅:大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線西大橋駅徒歩2分



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