2014年12月30日火曜日

今年1年ありがとうございました。

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2014年12月28日日曜日

素盞嗚尊神社

この神社の付近から出土した芥川廃寺の塔心礎の石が、手水鉢に使われている。
所在地:大阪府高槻市郡家新町36





瑞輪寺

瑞輪寺は豊中市にある黄檗宗の寺である。元は真言宗の桜墳山善光寺という寺で、原田神社の神宮寺だったが、1579(天正7)年荒木村重の乱の平価で消失した。元禄年間(1688~1704)に再考し、黄檗宗総本山万福寺の末寺として、現在の寺号になった。本殿には焼失を免れた、平安時代後期作と推定される寄木造の漆箔薬師如来坐像、木彫彩色持国天・増長天像が安置されている。室町時代には一休宗純が、1417(応永24)年から20年余り滞在したと伝えられ、境内には、子の紹偵の墓と伝えられる僧塚がある。
所在地:大阪府豊中市中桜塚2-2-24




熊野田八坂神社

この神社は原田神社と同様の獅子神事祭を行っており、こちらは、1078(承暦2)年に熊野三山の獅子頭と同様の2体を製作したのが始まりといわれている。
所在地:大阪府豊中市熊野町








金禅寺

大応山金禅寺は豊中市にある黄檗宗の寺である。もとは金寺の支院で、これも村重の乱の兵火で消失したが、1682(天和2)年に黄檗宗の鉄眼上人により再建され、黄檗宗総本山万福寺の末寺となった。金禅寺の本道右前には、三重宝篋印塔がある。書こう眼精で、現在失われている相輪の部分をあわせて、6個の部材から出来ており、傘が3重になった珍しい形式である。基礎の1面には刻銘があり、「貞和五(1349)年」の年号が記されている。この年号は南北朝時代の北朝年号で、南朝の年号の正平4年にあたる。本尊は木造釈迦三尊坐像だが、このほか木造11面観音立像がある。木造11面観音立像は、本堂中央の厨子の内部に、秘仏として安置されている(非公開)。像高145.8㎝で、ヒノキの寄木造である。また、胎内の左太股の辺りに、鎌倉時代末期の年号である「正安2(1300)年」の墨書がある。





所在地:大阪府豊中市本町5-3-64

旧新田小学校校舎

新田小学校は、1873(明治6)年、上新田村真覚寺に島下郡片山村一番小学校の分光として創立され、1881年に同村字分銅に移転、さらに1900年に当地に新築移転した。建造当時の図面では、中央に玄関・応接室・職員室が並び、東西両翼に第1・第2教室があり、その前に土間の廊下がある。東に刃物要れと用務員室があり、西には教員住宅が設けられている。明治時代のものとしては珍しい、和風建築の小学校校舎である。1973(昭和48)年に新築移転するまで、子の校舎は使い続けられ、現在は教育会館として保存されている。毎年秋に一般公開を行っており、明治時代の教室風景を再現し、明治~昭和時代の教科書などの教育資料を展示している。また、市民から寄贈された農耕具などの民俗資料なども紹介している。
所在地:大阪府豊中市上新田3-3-1




看景寺

看景寺は豊中市内にある浄土真宗の寺である。この寺から北東約500メートルの本町8丁目辺りには、飛鳥時代後期に創建されたと伝えられる、金寺(山)廃寺(新免廃寺)があった。この金寺廃寺の塔刹柱礎石が看景寺に移され、保存されている。
所在地:大阪府豊中市本町3-14-32




和田惟政供養塔

和田伊賀守惟政は清和現時の流れをくみ、天文元(1532)年近江の国甲賀郡和田村に生まれました。永禄11(1568)年10月、信長が摂津を平定した後、惟政は芥川城を守っていましたが猪名寺合戦から尾を引いている茨木・伊丹氏と池田氏との対立が、元亀2(1571)年茨木方を助ける惟政と池田方の荒木村重・中川清秀らとの合戦に発展しました。これがいわゆる「白井が藁の合戦」です。この戦で、大将和田惟政は、中川清秀によって討たれました。
所在地:大阪府茨木市五日市




不老水

花の井で老いを知った能因法師が、山麓に湧き出る清水に不老不死を願い、好んで煎茶に用いたと伝承される井戸である。大正11(1922)年発行の「大阪府全誌」には、「寒冽にして茶に適し、その他遠近に喧傳して、普く茶客の知るところなり」と記され、その名声が紹介されている。付近は都市化が進み、家屋が立ち並んでいるが、今も涸れることなく湧き続け、地元の人々からも親しまれている。
所在地:大阪府高槻市古曽部町



富田の酒造業

摂津富田は中世末期に、浄土真宗を中心に発達した寺内町である。富田の酒造業は1695(元禄8)年刊行の「本朝食鑑」に「和州南都造酒第一にして摂津・伊丹・鴻池・池田・富田これにつぐ」とあり、当時は酒造が最大の産業であった。1600(慶弔5)年、関が原の戦いで徳川方の食料調達に協力した清水家(紅屋)は、幕府から特権的な酒造株を認められ、酒造を開始した。その後、紅屋を中心に酒造業が発展し、明暦年間(1655~58)には、造酒屋24軒を数え、伊丹・池田と並ぶ、銘酒の産地となった。良質の酒米と富田台地の石灰層から湧き出る地下水を使った富田酒は、江戸までその名を知られるようになった。しかし、江戸時代中期に、西宮・灘の海岸地域に新しく酒造業が成立し、江戸への樽廻船による輸送経路が確立すると、立地条件の悪い富田の酒造業は、衰退して言った。1839(天保10)年には、造酒屋はわずか6軒になったという。現在では2軒の造酒屋が、本照寺や教行寺付近に店を構え、伝統の製法や技術を受け継ぎ、富田酒を守り続けている。
所在地:大阪府高槻市富田6







番山古墳

大阪府高槻市土室5丁目にあり、名神高速道路が南側に通っている。番山古墳は前塚古墳と同様の西向きの帆立貝式古墳たしく、小規模な前方部は既に削り取られて存在しない。現状では、後円部と外堤の輪郭が確認されている。昭和46年の測量調査では、全長約110m、後円部径約60m、高さ約7mを測り、北側墳丘裾部には、約1mの断上部がめぐっている。その内部構造などは不明であるが、5世紀末頃の構造と考えられる。道路に面したところに立つ番山古墳の石碑は、土室の人々が建てたものである。





文塚

中古36歌仙の1人で、平安時代の代表的歌人である能因法師が、死期を前にして吟稿(和歌の原稿)埋めた所と伝えられている。所在は不明であったが、江戸時代の嘉永2(1849)年、山藤辰政がこの碑を立てて顕彰した。晴れた日には、はるか南に生駒の山並みが望め「わが宿の梢の夏になるときは生駒の山ぞ見えずなりける」と詠んだ能因の時代がしのばれる。
所在地:大阪府高槻市古曽部町