高瀬神社は、大阪府守口市にある神社である。式内社で、旧社格は村社。
○祭神
天之御中主神
○由緒
社伝では聖武天皇の勅願により行基が高瀬里に鎮座したものとされる。ただし、主祭神の天之御中主神は当時の主神天照大神よりも古い神である事からもう少し時代を遡るとする説もある。行基年譜によれば行基は高瀬付近で高瀬川(淀川旧流)に架けた高瀬大橋、橋を管理する高瀬橋院(行基四十九院の一つ、高瀬寺。華厳宗。現在は浄土宗の常称寺に縁起が伝えられている。現在の高瀬寺とは異なるとされる)を建立、当時の淀川南流(現在の古川筋)から高瀬川へ通ずる運河大庭溝を開いており、高瀬寺は高瀬神社の宮寺としても機能したものらしい。昭和30年代には高瀬寺跡から飛鳥時代の古瓦が出土しており、聖徳太子が建立したとされる茨田寺がこれで、高瀬寺はその跡に創建されたのではないかとの説もある。(守口市史本文編第1巻・昭和38年刊)延暦4年(785年):早良親王が淡路国へ配流の途上、高瀬里で憤死。住吉大社神代記に難波長柄泊の記述があり、同記中延暦8年(789年)の住吉大社解状に長柄船瀬の東限を高瀬(守口市高瀬・馬場~大阪市鶴見区東部)・大庭(守口市北東部)、西限を鞆淵(大阪市都島区友淵)として領有していたとの記述が見られる。平安時代には荘園として河内十七箇所(十七箇庄、いずれも皇室領)が成立、高瀬は小高瀬庄となる。十七箇所の一部は門跡寺院仁和寺に寄進され上仁和寺庄(寝屋川市仁和寺)、下仁和寺庄(守口市中部)となり、鎌倉期に至る。この時代、高瀬川~大庭溝は伊勢斎宮退下の通路としても利用された。高瀬とは浅瀬の意で、紀貫之の土佐日記にもこの近辺で淀川の水位が下がり、船待ちをした旨の記述がある。鎌倉時代には皇統が持明院統と大覚寺統とに分かれ、十七箇所も両統入り乱れることとなる。建治元年(1275年)、常称寺縁起によれば一遍が荒廃していた高瀬寺の伽藍を再興し、時宗に改宗したとされる。南北朝期には十七箇所は楠木氏と足利氏との争奪の場となる。上下仁和寺庄は花園天皇により妙心寺へ寄進される。高瀬神社、高瀬寺は再び荒廃。北朝後光厳天皇の勅願により、足利義満が高瀬寺を再興。これは十七箇所で大きな勢力となった南朝方の来迎寺を抑える為と言われる。応永6年(1399年)、妙心寺6世住持拙堂宗朴が応永の乱に敗れた大内義弘に連座、寺領は足利幕府に没収され、上仁和寺庄は石清水八幡宮領に下仁和寺庄は幕府領とされた。応永記には応永の乱の際、下仁和寺庄森口城に拠る大内方守将杉九郎200余騎が堺城に呼び戻されたとの記述がある。この頃、十七箇所はそれぞれ禁裏御料、幕府料所、足利氏一族料所とされた。応仁の乱後は畠山氏、三好氏等の同族争いの場となり、高瀬神社、高瀬寺は度々の戦火に晒される。南北朝期まで続いた河内の荘園体制が崩壊、十七箇所は自治的な惣村制に移行。石山本願寺成立後、8代蓮如の時、下仁和寺郷は一向宗の勢力化に組み込まれる。同郷守口(この頃、森口よりこの表記が多く見られる)に寺内町が築かれ、石山本願寺51塁の筆頭として織田氏に対抗した。元亀元年(1570年)、三好三人衆が四国より侵入し、織田信長に味方した旧主三好義継、畠山昭高らを攻める。翌年、義継も信長に反旗を翻す。天正2年(1574年)、信長公記によれば佐久間信盛が河内の三好氏、一向一揆勢を破る。この元亀・天正年間に高瀬神社、高瀬寺は再び焼失した。豊臣秀吉の検地、刀狩により、十七箇所の惣村制が勢力を失い、江戸時代初期までに自然消滅。江戸時代、旧小高瀬郷は7村に分割され、高瀬寺の後裔たる常称寺はその内、世木村を管轄するに過ぎなくなった。江戸時代中期、高瀬神社が再興される。現在の社殿はこの時のもの。現在の社域は非常に狭く、民家の壁が迫っている。京阪電鉄土居駅前商店街の南端に鎮座し、民家や商店街上に高く突き出した楠の巨木が神域の森の名残を残す。
○アクセス
京阪電鉄土居駅徒歩3分
○例祭
歳亘祭:1月1日
稲荷祭:2月13日
夏祭:7月23日直近の金土曜
御例祭:11月23日直近の金土曜
○所在地
大阪府守口市馬場町1-1-11
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