烏帽子形城は大阪府河内長野市喜多町の烏帽子形山にあった城。奥河内の観光地の一つで、国の史跡に指定されている。現在は烏帽子形公園となっており、これについても併記する。
○概要
楠木正成が築城した楠木七城のひとつで、上赤坂城の支城の山城である。東側斜面に烏帽子形八幡神社、北側斜面に烏帽子形古墳がある。2012年1月に国の史跡に指定されて以降、遊歩道などの再整備や案内板などの改修などが行われた。
○歴史
元弘2年 / 正慶元年(1332年)、楠木正成が上赤坂城の支城として築城。西高野街道を眼下に見下ろす要所の地にあるため、南北朝時代には主に南朝の楠木氏の城として北朝の畠山氏との争奪戦が行われ、室町時代・戦国時代には義就流畠山氏と政長流畠山氏の間で争奪戦が行われた。天文年間には楠木正季の子孫である甲斐庄氏の当主隆成が城主であったが、敵対する義就流畠山氏の畠山定国によって落とされ、代わって碓井定純が入城した。元亀年間には甲斐庄正治(橘長治)が入り、畠山高政や根来寺衆徒等が幾度も入城して三好長慶に抵抗した。正治はキリシタンであったため、城下でキリスト教を奨励し、南河内の一大拠点として大いに賑わいを見せた。畠山氏滅亡後、正治は徳川家康の家臣となって遠江へ移ったため、烏帽子形城は岸和田城主である中村一氏の支城となり天正12年(1584年)には改築なども行われはしたが特に使用されることなく放置される。だが、大阪の陣で正治の子正房が幕府方として河内の道案内を行ったことにより甲斐庄氏は戦後加増されて旗本として再び故地である烏帽子形城に戻ってくることが出来た。しかし、大規模なこの城を維持できずに元和3年(1617年)に廃城処分にした。
○烏帽子形公園
昭和30年代に風致公園として烏帽子形城跡を含む烏帽子形山の敷地に開園された。烏帽子形山に遊歩道(ハイキングコース)を整備した公園であり、ありのまま自然が残されている。そのほか、プールや展望台などがある。烏帽子形遺跡という古墳時代後期(6世紀代)の円墳があり、過去の調査で自然石で構成された横穴式石室の存在が確認されている。市内にある公園の中でも長年整備されないままであったため、この公園自体を烏帽子形城跡と認識されることも多い。現在は、園内の案内図によると一部を除いて再整備がなされている。
○交通
南海高野線・近鉄長野線河内長野駅から南海バスの岩湧線、南花台・南ヶ丘線、南青葉台線、モックルコミュニティバスのいずれかの路線で「上田」停留所を下車後、上田町北交差点から西へ約600メートル。阪和自動車道美原北ICから国道170号(大阪外環状線)、もしくは国道309号を経由し、国道371号上田町北交差点から西へ約600メートル。
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