言わずとしれた「本能寺の変」の舞台となった場所。1568(永禄11)年に足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長は京都には居館を構えず、妙覚寺や本能寺を宿所としていたという。1582(天正10)年6月2日早朝、明智光秀により本能寺を襲撃された織田信長はこの地で自刃し、本能寺は炎上した。信長の「是非に及ばず」の言葉は有名。現在の本能寺は1587(天正15)年に豊臣秀吉によって都市計画による区画整理を名目に直線距離で1.2kmほど離れた場所(現在の中京区寺町御池下る)に移動させられた。本能寺跡の所在については、元本能寺町や本能寺町の町名などから旧京都市立本能小学校付近と推定されていた。しかし、1992(平成4)年に小学校の廃校後に行われた発掘調査により、織田信長の定宿だった当時の遺構が発見されて話題を呼んだ。現在では石柱が建立されている北側の一帯で、南は蛸薬師通、北は三条通、東は西洞院通、西は油小路に囲まれた区域とする説が有力視され、寺の大きさも東西約100m、南北約200mの規模を有していたものと考えられている。旧本能小学校は、現在では京都市立堀川高等学校本能学舎と京都市本能特別養護ルームの施設となっていて石碑がある。
住所:京都府京都市中京区小川通蛸薬師元本能寺町
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