駒札によると・・・
平野國臣殉難の地
幕末尊王攘夷派の指導者平野国臣が処刑されたところである。この地はもと「六角獄舎」があったところで、安政の大獄以後は多くの政治犯が収容されたので会所ともいった。 国臣は、生野の乱に挙兵して捕えられ、元治元年(1864)1月17日ここに収容された。同年7月19日禁門の変(蛤御門の変)の兵火の中で幕吏は獄中の尊王攘夷派の志士たちを斬った。この時斬られた一人が国臣である。この難にあったものは、国臣のほか37名にのぼった。なお、当地は、宝暦4年(1754)に医師山脇東洋がわが国で初めて死体解剖を行ったところと言われ、付近に記念碑がある。
京都市
六角獄舎(今の刑務所)があったようです。六角獄舎とは次のようなもので巣。
六角獄舎は平安時代に建設された左獄・右獄を前身とする京都の牢獄である。正式名は三条新地牢屋敷。移転を繰り返して宝永5年(1708年)の京都大火以降に中京区六角通りに移転されてからは六角獄舎または六角獄、六角牢などと呼ばれるようになった。
○歴史
宝暦4年(1754年)、医学者・山脇東洋が京都所司代の許可を得て日本で初めて人体解剖を行った場所が六角獄舎である。解剖には死刑囚が用いられた。幕末の混乱の中、井伊直弼の安政の大獄による政治犯や過激な尊皇攘夷派志士らが多く捕らえられて処刑されるようになる。しかし反面、尊皇攘夷思想の強い囚人が集まったため牢内で囚人達に尊皇論を説いたり同志と知り合ったりなどという事もあったらしい。元治元年7月19日(1864年8月20日)に始まった禁門の変に伴い生じた火災(どんどん焼け)は、京都市中に広がり六角獄舎にも及ぶ恐れが生じた。管理を任されていた京都町奉行の滝川具挙は過激な志士達の脱走を恐れて囚人解き放ちをせず、いまだ判決が定まっていなかった生野の変首謀者・平野国臣、天誅組の変の水郡善之祐(河内)乾十郎(大和)など囚人33人を斬罪に処してしまう。しかし六角獄舎に火は回って来なかった。これについて、安政の大獄で捕らえられていた村井正礼が記した手記『縲史』に当時の生々しい記録が残る。さらに、先月の池田屋事件の折に捕縛されていた古高俊太郎をはじめとする尊皇攘夷志士らも斬罪。この件は新選組の仕業と疑われるようになる。明治以後、監獄から保護施設として改築された。斬首に使われた刀を洗う「首洗井」が埋め立てられてはいるが跡地に現存しており、密かな心霊スポットになっている。
こういう経緯があって近所に近代医学発祥の地という石碑もある。
所在地:京都府京都市中京区六角通大宮西入ル因幡町
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