高槻商工会議所前に、高山右近天主教会堂跡の碑が建てられている。高槻城主和田惟政が白井河原の合戦(1571年)で討死した後、家臣高山飛騨図書・右近父子は、惟政の子惟長と対立し、これを追放して、1573(天正元)年高槻城主となった。高山右近は、摂津高山庄(現在の能勢町)の地頭代官高山飛騨図書の長男として生まれ、1564(永禄7)年に受洗し、ジュストの名を授けられた。父(洗礼者ダリオ)とともに、熱心なキリスト教者であった。領民への積極的な布教により、高槻領内の信者は、領民2万5千人のうち、じつに1万8千人を数え、領内には、教会堂が20箇所も立てられたという。
天主教会堂は、1574年高槻城に隣接して立てられ、、宣教師ルイスフロイスの「日本史」によると、大きな木造の会堂と、傍らに司祭や修道士の館を立て、池を設けた美しい庭園を備え、一角には大十字架が建てられたと言う。1581年の復活祭には、約1万5千人の信者が集り、巡察師ヴァリニャーノを迎えて盛大に行われた。1998(平成10)年には、高槻商工会議所と隣接するマンション建設に伴う発掘で多くの人骨に加え、29基の木棺が発掘された。木棺の中には、蓋に十字架が墨書されたものがあった。また木製ロザリオも出土し、大規模なキリシタン墓地であることが判明した。
所在地:大阪府高槻市大手町3
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