ガーデニンググッズ販売,輸入雑貨,グリーンショップ・カフェ,レストラン,カルチャー教室など。
所在地:〒665-0881兵庫県宝塚市山本東2-2-1
TEL:0797-82-3570
営業期間営業 : 10:00~17:30
お問合わせ:0797-82-3570
2013年4月29日月曜日
2013年4月28日日曜日
葵祭2013
京都三大祭りの一つ「葵祭」は、賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の例祭です。平安貴族の衣装を纏った全長700mの行列が京都の町を巡行します。王朝行列は、総勢500余人、馬36頭、牛4頭、牛車2台、輿1台からなり、京都御所を出発し、下鴨神社を経て上賀茂神社へ向かいます。また、上、下両社それぞれの社頭で、勅使が御祭文を奏上し、御幣物を奉納する「社頭の儀」が行われ、雅な雰囲気の中で、神馬の引き回しや、舞人による「あずまあそび」の舞が披露されます。
所在地:〒603-8047京都府京都市北区、左京区
交通アクセス:上賀茂神社まで/JR「京都駅」から地下鉄烏丸線「北山駅」~市バス「上賀茂神社前」下車、またはJR「京都駅」から4系統のバス約40分「上賀茂御薗橋」~徒歩5分、下鴨神社まで/京阪「出町柳駅」~徒歩10分、またはJR「京都駅」から市バス「下鴨神社前」すぐ、またはJR「京都駅」から地下鉄「北大路駅」~市バス約10分「下鴨神社前」すぐ
開催期間:2013年5月15日
所在地:〒603-8047京都府京都市北区、左京区
交通アクセス:上賀茂神社まで/JR「京都駅」から地下鉄烏丸線「北山駅」~市バス「上賀茂神社前」下車、またはJR「京都駅」から4系統のバス約40分「上賀茂御薗橋」~徒歩5分、下鴨神社まで/京阪「出町柳駅」~徒歩10分、またはJR「京都駅」から市バス「下鴨神社前」すぐ、またはJR「京都駅」から地下鉄「北大路駅」~市バス約10分「下鴨神社前」すぐ
開催期間:2013年5月15日
2013年4月27日土曜日
興妙寺
興妙寺は、大阪府八尾市に所在する日蓮正宗の寺院。山号は本因山。
○起源と歴史
1981年(昭和56年)12月25日-建立される。開基は日蓮正宗大石寺第67世法主日顕上人。
○所在地
大阪府八尾市旭ヶ丘1丁目105
○交通アクセス
近鉄大阪線近鉄八尾駅から徒歩5分
○起源と歴史
1981年(昭和56年)12月25日-建立される。開基は日蓮正宗大石寺第67世法主日顕上人。
○所在地
大阪府八尾市旭ヶ丘1丁目105
○交通アクセス
近鉄大阪線近鉄八尾駅から徒歩5分
善光寺
善光寺は、大阪府八尾市垣内にある融通念仏宗の仏教寺院。 大念仏寺の末寺で、弥陀三尊仏を本尊としている。
○概要
信濃国の本田善光が難波・堀江にうち捨てられていた仏像を拾い、そのお告げにより信濃へ帰国する最中にここで一泊したのが縁で、信濃善光寺を建立した翌年にここを訪れて寺を建立し、分身を祀ったと伝えられている。境内北にあるクスノキは13世紀ごろのもので、幹回り約6.3m、高さ約25mあり、1949年に大阪府顕彰天然記念物に指定され、1986年に八尾市保全樹林に指定された。本田善光が再びここを訪れた時に持参していた杖を突き刺したものが芽を出して大きくなったと云い伝えられている。
○行事
毎年4月、9月の16日に「お通夜」が行われる。
○概要
信濃国の本田善光が難波・堀江にうち捨てられていた仏像を拾い、そのお告げにより信濃へ帰国する最中にここで一泊したのが縁で、信濃善光寺を建立した翌年にここを訪れて寺を建立し、分身を祀ったと伝えられている。境内北にあるクスノキは13世紀ごろのもので、幹回り約6.3m、高さ約25mあり、1949年に大阪府顕彰天然記念物に指定され、1986年に八尾市保全樹林に指定された。本田善光が再びここを訪れた時に持参していた杖を突き刺したものが芽を出して大きくなったと云い伝えられている。
○行事
毎年4月、9月の16日に「お通夜」が行われる。
八尾市立歴史民俗資料館
八尾市歴史民俗資料館は、市内文化財を調査研究し、収集・保存を図るとともに、展示などを通して広く公開している施設です。館内のスペースは、年に8回ほど行われる企画展用のスペースと、「八尾の歴史と文化財」に関する資料を、八つのテーマにわけて展示している、常設展示用のスペースに分かれています。1階のロビーには、実際に復元された銅鐸の展示も行われており、銅鐸の復元の様子をわかりやすく紹介しています。さらに2階では、この地域にゆかりのある、河内木綿が出来るまでの工程や、資料、機織機、糸車などを展示し、実際に綿から糸を紡ぐ体験学習が出来るようになっています。
所在地:〒581-0862大阪府八尾市千塚3-180-1
TEL:072-941-3601
営業期間営業 : 9:00~17:00 入館は16:30まで
休業 : 火曜日(火曜日が祝日の場合はその翌日)、年末年始、展示替等により臨時休館の場合あり
料金 : 大人200円、高・大学生100円、中学生以下、65歳以上の方無料※特別展の場合は別料金となる場合あり
所在地:〒581-0862大阪府八尾市千塚3-180-1
TEL:072-941-3601
営業期間営業 : 9:00~17:00 入館は16:30まで
休業 : 火曜日(火曜日が祝日の場合はその翌日)、年末年始、展示替等により臨時休館の場合あり
料金 : 大人200円、高・大学生100円、中学生以下、65歳以上の方無料※特別展の場合は別料金となる場合あり
来迎寺
来迎寺は、大阪府八尾市大窪にある浄土宗の仏教寺院。 正式名を聖衆山護念院来迎寺といい、阿弥陀如来を本尊としている。
○概要
創建の時期は定かではないが、宝永6年(1709年)に4代目住職が執筆したとされる「開基建立之由縁」によると、現在地に至るまでに数か所も所在地を変えており、創建は江戸時代の初期とされている。山門はなく、本堂が一宇あるのみで、その周囲は墓地になっている。さらに付近一帯には小さな古墳(円墳)が広範囲にわたり多数分布しており、高安古墳群とよばれている。境内にも「来迎寺塚」と名づけられている石室の名残りや、「抜塚」(ぬけづか)とよばれる石室の奥壁が抜かれて貫通している横穴式石室墳をはじめ、いくつか存在する。
○所在地
大阪府八尾市大窪35
○概要
創建の時期は定かではないが、宝永6年(1709年)に4代目住職が執筆したとされる「開基建立之由縁」によると、現在地に至るまでに数か所も所在地を変えており、創建は江戸時代の初期とされている。山門はなく、本堂が一宇あるのみで、その周囲は墓地になっている。さらに付近一帯には小さな古墳(円墳)が広範囲にわたり多数分布しており、高安古墳群とよばれている。境内にも「来迎寺塚」と名づけられている石室の名残りや、「抜塚」(ぬけづか)とよばれる石室の奥壁が抜かれて貫通している横穴式石室墳をはじめ、いくつか存在する。
○所在地
大阪府八尾市大窪35
天台院
天台院とは、大阪府八尾市西山本町(旧:河内国若江郡八尾中野村)にある天台宗の仏教寺院。山号は紫雲山。
○歴史・概要
天台宗総本山である比叡山延暦寺の末寺。室町時代初期、朝廷が南朝・北朝に分裂していた頃の創建とされている。開基は文観上人と伝えられており、確証はないが河内長野市の天野山金剛寺に伝わる「釈摩訶行論」の奥書きに、上人は 壮年四天王寺に遊び、また河内国に錫をとどめていた と記され、このとき 河内に小庵を結んだ とあり、その小庵が天台院であるとされている。昭和26年(1951年)、今東光が本山から住職として派遣された。今東光が派遣された頃の寺は木造の古びたボロ堂宇で、檀家が三十数件の貧乏寺であった。和尚は24年間ほど住職として滞在した。その間作家・政治家として活躍し、寺も世間の注目を集めていた。現在はコンクリート製の立派な堂宇となり、境内には八尾文化協会による「東光碑」が建てられた。境内に無畏智道上人の碑(文化4卯年7月8日)があり、さらに碑の前方に井戸があり、「智道の水」として知られている。
○所在地
大阪府八尾市西山本町2丁目5-8
○歴史・概要
天台宗総本山である比叡山延暦寺の末寺。室町時代初期、朝廷が南朝・北朝に分裂していた頃の創建とされている。開基は文観上人と伝えられており、確証はないが河内長野市の天野山金剛寺に伝わる「釈摩訶行論」の奥書きに、上人は 壮年四天王寺に遊び、また河内国に錫をとどめていた と記され、このとき 河内に小庵を結んだ とあり、その小庵が天台院であるとされている。昭和26年(1951年)、今東光が本山から住職として派遣された。今東光が派遣された頃の寺は木造の古びたボロ堂宇で、檀家が三十数件の貧乏寺であった。和尚は24年間ほど住職として滞在した。その間作家・政治家として活躍し、寺も世間の注目を集めていた。現在はコンクリート製の立派な堂宇となり、境内には八尾文化協会による「東光碑」が建てられた。境内に無畏智道上人の碑(文化4卯年7月8日)があり、さらに碑の前方に井戸があり、「智道の水」として知られている。
○所在地
大阪府八尾市西山本町2丁目5-8
大通寺
大通寺は、大阪府八尾市にある融通念仏宗の仏教寺院。山号は徳宝山。すぐ近くにある教興寺と関連がある。
○歴史
元は近くにある教興寺の一坊・塔頭寺院であり、周辺一帯を含めて教興寺の敷地だったが、中世以降、戦火に遭うなどして荒廃し、元禄年間に(大念仏寺第四十六世)大通上人により融通念仏宗の寺院として再興、山号・寺名は徳宝山大通寺と改められた。1927年(昭和2年)北丹後地震の影響で本堂が傾いたため仮本堂を設置し、太平洋戦争後に再建された。
○境内
山門から入って左(西)に「夫婦塚」と呼ばれる高さ120センチメートル余りの花崗岩でできた碑があり、『南無阿弥陀仏』と彫られている。 現在では「お初徳兵衛の墓」と伝えられている。寺伝では、教興寺村出身で大坂曾根崎に勤めていたお初が大坂の木綿問屋の養子・徳兵衛と恋仲になり、それを教興寺の浄厳和尚に相談し、最終的には二人は夫婦となるものの、まもなく徳兵衛が病死し、お初も後を追うように亡くなった。それを哀れんだ浄厳は碑を建てて供養したという。その話を聞いた(教興寺に縁のある)近松門左衛門がその話を脚色して大坂竹本座で上演したのが、浄瑠璃『曽根崎心中』であるとされる。
○所在地
大阪府八尾市教興寺7-110
○歴史
元は近くにある教興寺の一坊・塔頭寺院であり、周辺一帯を含めて教興寺の敷地だったが、中世以降、戦火に遭うなどして荒廃し、元禄年間に(大念仏寺第四十六世)大通上人により融通念仏宗の寺院として再興、山号・寺名は徳宝山大通寺と改められた。1927年(昭和2年)北丹後地震の影響で本堂が傾いたため仮本堂を設置し、太平洋戦争後に再建された。
○境内
山門から入って左(西)に「夫婦塚」と呼ばれる高さ120センチメートル余りの花崗岩でできた碑があり、『南無阿弥陀仏』と彫られている。 現在では「お初徳兵衛の墓」と伝えられている。寺伝では、教興寺村出身で大坂曾根崎に勤めていたお初が大坂の木綿問屋の養子・徳兵衛と恋仲になり、それを教興寺の浄厳和尚に相談し、最終的には二人は夫婦となるものの、まもなく徳兵衛が病死し、お初も後を追うように亡くなった。それを哀れんだ浄厳は碑を建てて供養したという。その話を聞いた(教興寺に縁のある)近松門左衛門がその話を脚色して大坂竹本座で上演したのが、浄瑠璃『曽根崎心中』であるとされる。
○所在地
大阪府八尾市教興寺7-110
水呑地蔵院
水呑地蔵院は、大阪府八尾市大字神立にある地蔵堂。一般には「水呑地蔵」の名で知られている。
○概要
八尾市の東北部、十三峠に至る十三街道を上がり、峠まで八分目ぐらいの場所に位置する。斜面から張り出して本堂が建ち、その北側には鐘楼、南側には弘法水の小堂がある。 本堂からは大阪平野の広範囲を見渡すことができる。本堂内に「水呑地蔵」と呼ばれる石造地蔵菩薩像が安置されている。縁起によれば地蔵菩薩は承和3年(836年)に僧 壱演により、この地に安置されたという。現在の地蔵菩薩像は元禄7年(1694年)に造立されたものである。本堂の南側に小堂があり、その中の水壺から清水が湧き出ている。俗に「弘法水」とよばれ、空海(弘法大師)が十三峠を越える旅人のために祈願して得た霊水と伝えられている。ここの湧水は脚気などに効能があると言い伝えられ、現在でも霊水を汲みに訪れる人々で賑わっている。当地から峠にかけて、「大阪府民の森 みずのみ園地」が広がっている。麓の神立地区にある「神立辻地蔵」の祠の前から当地までの旧街道沿いには、33箇所、66体の地蔵像が一定間隔で安置されている。
○アクセス
・自家用車の場合
国道170号(旧道)水越東交差点 と 楽音寺交差点の間の辻(メガネ屋がある)を東へ、車道を十三峠方面へ上がる。駐車スペースあり。 (注:オートバイ・原付は通行不可)
○所在地
大阪府八尾市大字神立
○概要
八尾市の東北部、十三峠に至る十三街道を上がり、峠まで八分目ぐらいの場所に位置する。斜面から張り出して本堂が建ち、その北側には鐘楼、南側には弘法水の小堂がある。 本堂からは大阪平野の広範囲を見渡すことができる。本堂内に「水呑地蔵」と呼ばれる石造地蔵菩薩像が安置されている。縁起によれば地蔵菩薩は承和3年(836年)に僧 壱演により、この地に安置されたという。現在の地蔵菩薩像は元禄7年(1694年)に造立されたものである。本堂の南側に小堂があり、その中の水壺から清水が湧き出ている。俗に「弘法水」とよばれ、空海(弘法大師)が十三峠を越える旅人のために祈願して得た霊水と伝えられている。ここの湧水は脚気などに効能があると言い伝えられ、現在でも霊水を汲みに訪れる人々で賑わっている。当地から峠にかけて、「大阪府民の森 みずのみ園地」が広がっている。麓の神立地区にある「神立辻地蔵」の祠の前から当地までの旧街道沿いには、33箇所、66体の地蔵像が一定間隔で安置されている。
○アクセス
・自家用車の場合
国道170号(旧道)水越東交差点 と 楽音寺交差点の間の辻(メガネ屋がある)を東へ、車道を十三峠方面へ上がる。駐車スペースあり。 (注:オートバイ・原付は通行不可)
○所在地
大阪府八尾市大字神立
常光寺
常光寺は、大阪府八尾市本町にある 臨済宗南禅寺派の寺院。南禅寺塔頭金地院の末寺で、山号は初日山。 通称は八尾地蔵尊。本尊は地蔵菩薩で、弘仁年間(810年~824年ごろ)、小野篁の作と伝えられている。 山門脇に大坂城の残石と「河内最古之音頭発祥地」の碑がある。また、境内に大坂の役で戦死した藤堂家の戦死者の墓がある。
○歴史
奈良時代に僧行基が創建したと伝えられている。当初は「新堂寺」と称していた。南北朝期に戦乱で寺は焼かれ、一旦は荒廃した。至徳2年(1385年)に土豪・藤原盛継により復興、翌年に地蔵尊・阿弥陀堂などを再建した。室町時代に足利義満から、自筆の 「初日山」「常光寺」 の額が納められた。(寺宝として現存。)大坂の役において、付近は激戦地となったが、本寺は徳川方の保護を受けた。 徳川方の武将・藤堂高虎は本堂の北にある住職の居間(方丈)の縁側に敵方の首級を並べて「首実検」をしたという。その縁板は後に方丈の西廊下の天井として貼り替えられた。 おびただしい血痕がついていたため、「血天井」と称された。
○行事
大般若会(4月)
地蔵盆会(8月23日、24日)
八尾は「河内音頭」発祥の地とされているが、特に常光寺で伝えられている 「流し節正調河内音頭」 は、その原型とされ、「日本の音風景100選」に選定されている。
○所在地
大阪府八尾市本町5-8-1
○交通アクセス
近鉄大阪線 八尾駅から徒歩約10分
○歴史
奈良時代に僧行基が創建したと伝えられている。当初は「新堂寺」と称していた。南北朝期に戦乱で寺は焼かれ、一旦は荒廃した。至徳2年(1385年)に土豪・藤原盛継により復興、翌年に地蔵尊・阿弥陀堂などを再建した。室町時代に足利義満から、自筆の 「初日山」「常光寺」 の額が納められた。(寺宝として現存。)大坂の役において、付近は激戦地となったが、本寺は徳川方の保護を受けた。 徳川方の武将・藤堂高虎は本堂の北にある住職の居間(方丈)の縁側に敵方の首級を並べて「首実検」をしたという。その縁板は後に方丈の西廊下の天井として貼り替えられた。 おびただしい血痕がついていたため、「血天井」と称された。
○行事
大般若会(4月)
地蔵盆会(8月23日、24日)
八尾は「河内音頭」発祥の地とされているが、特に常光寺で伝えられている 「流し節正調河内音頭」 は、その原型とされ、「日本の音風景100選」に選定されている。
○所在地
大阪府八尾市本町5-8-1
○交通アクセス
近鉄大阪線 八尾駅から徒歩約10分
教興寺
教興寺は、大阪府八尾市にある真言律宗の仏教寺院。奈良市西大寺の末寺である。山号は獅子吼山(ししくさん)。詳名は「獅子吼山大慈三昧院教興寺」。本尊は弥勒菩薩である。以前、藪がたくさん生えていたことから、地元では「藪寺」と親しまれている。
○歴史
寺伝によれば、聖徳太子が物部守屋の討伐を祈願するため、秦河勝に命じ崇峻天皇元年(588年)に建立したという。寺は中世には荒れ果て、鎌倉時代に、奈良・西大寺の叡尊が復興した。叡尊は河内布教の帰途の際、教興寺が荒れ果てているのを知り、文永6~7年(1269~1270年)にかけて再興した。また、叡尊は蒙古襲来の際に敵国降伏の祈祷をしばしば朝廷より命じられているが、教興寺においても祈祷している。戦国時代の永禄5年(1562年)5月19日、ここに陣を敷いた河内国守護畠山高政と三好義興・松永久秀の軍勢との合戦となり、教興寺は戦火に巻き込まれ伽藍と多くの施設を焼失した。再度荒廃した教興寺は、江戸時代の貞享年間(1684~1687年)に浄巌和尚によって再興された。浄厳と親交のあった近松門左衛門がしばらく寺に寄宿していたと伝えられている。明治18年(1885年)の台風で本堂が崩壊したため、北側の客殿を仮本堂とし、現在に至っている。
○境内
「河内三十三観音霊場」の第十六番霊場となっており、千手観音菩薩が安置されている。 また、かつて岩戸神社にあった弁財天像も安置されている。
○所在地
大阪府八尾市教興寺7丁目
近鉄高安駅下車、東へ徒歩約15分
国道170号(大阪外環状線)・教興寺交差点を東へ進み、国道170号旧道(東高野街道)を越えてすぐに山門へ突き当たる。
○歴史
寺伝によれば、聖徳太子が物部守屋の討伐を祈願するため、秦河勝に命じ崇峻天皇元年(588年)に建立したという。寺は中世には荒れ果て、鎌倉時代に、奈良・西大寺の叡尊が復興した。叡尊は河内布教の帰途の際、教興寺が荒れ果てているのを知り、文永6~7年(1269~1270年)にかけて再興した。また、叡尊は蒙古襲来の際に敵国降伏の祈祷をしばしば朝廷より命じられているが、教興寺においても祈祷している。戦国時代の永禄5年(1562年)5月19日、ここに陣を敷いた河内国守護畠山高政と三好義興・松永久秀の軍勢との合戦となり、教興寺は戦火に巻き込まれ伽藍と多くの施設を焼失した。再度荒廃した教興寺は、江戸時代の貞享年間(1684~1687年)に浄巌和尚によって再興された。浄厳と親交のあった近松門左衛門がしばらく寺に寄宿していたと伝えられている。明治18年(1885年)の台風で本堂が崩壊したため、北側の客殿を仮本堂とし、現在に至っている。
○境内
「河内三十三観音霊場」の第十六番霊場となっており、千手観音菩薩が安置されている。 また、かつて岩戸神社にあった弁財天像も安置されている。
○所在地
大阪府八尾市教興寺7丁目
近鉄高安駅下車、東へ徒歩約15分
国道170号(大阪外環状線)・教興寺交差点を東へ進み、国道170号旧道(東高野街道)を越えてすぐに山門へ突き当たる。
恵光寺
恵光寺は、大阪府八尾市にある浄土真宗本願寺派の仏教寺院。 通称「萱振御坊」。
○歴史・概要
蓮如上人が河内国での布教の際に萱振村に立寄り、その後当地に上人の6男である蓮淳によって恵光寺が建立された。 ただし、建立年ははっきりせず、1470年(文明2年)、1469年~1489年(文明年間)、1496年(明応5年)の3説がある。(公には1470年を一応の建立年としている)。戦国時代に入ると、恵光寺を中心とした萱振集落の周りに「環濠」がめぐらされるようになり、寺内町が形成された。環濠の一部はは現在も残っている。
1574年(天正2年)6月に織田信長は石山本願寺への攻略を開始するが、萱振の一向衆徒(門徒)は石山本願寺方に加勢し、撤退を拒否したため、1580年(天正8年)8月の石山本願寺陥落とほぼ同時期に恵光寺は放火・破壊された。
1685年(貞享2年)、当時の住職だった寂永は、前住職の准良と共に東派(大谷派)に転じ、摂津国平野郡(現在の大阪市平野区平野上町)の大徳山慧光寺へ、恵光寺のほとんどの寺宝とともにそこへ移った。 恵光寺はしばらく無住寺院となる。
明治時代末期ごろには別格寺として、また100以上の末寺を擁していた。
1976年(昭和51年)6月23日、本堂の屋根裏から出火し、本堂が全焼。 本尊のみは当時の住職により担ぎ出され難を逃れた。 現在の本堂は鉄筋2階建てで1979年に再建された。
現在恵光寺では、河内家菊水丸による盆おどり(慧灯大師盆おどり)や恵光寺文化講座など、活発な寺院活動が展開されている。
○交通アクセス
近鉄八尾駅下車、近鉄バスで「萱振南口」バス停下車。
○所在地
大阪府八尾市萱振町4-1
○歴史・概要
蓮如上人が河内国での布教の際に萱振村に立寄り、その後当地に上人の6男である蓮淳によって恵光寺が建立された。 ただし、建立年ははっきりせず、1470年(文明2年)、1469年~1489年(文明年間)、1496年(明応5年)の3説がある。(公には1470年を一応の建立年としている)。戦国時代に入ると、恵光寺を中心とした萱振集落の周りに「環濠」がめぐらされるようになり、寺内町が形成された。環濠の一部はは現在も残っている。
1574年(天正2年)6月に織田信長は石山本願寺への攻略を開始するが、萱振の一向衆徒(門徒)は石山本願寺方に加勢し、撤退を拒否したため、1580年(天正8年)8月の石山本願寺陥落とほぼ同時期に恵光寺は放火・破壊された。
1685年(貞享2年)、当時の住職だった寂永は、前住職の准良と共に東派(大谷派)に転じ、摂津国平野郡(現在の大阪市平野区平野上町)の大徳山慧光寺へ、恵光寺のほとんどの寺宝とともにそこへ移った。 恵光寺はしばらく無住寺院となる。
明治時代末期ごろには別格寺として、また100以上の末寺を擁していた。
1976年(昭和51年)6月23日、本堂の屋根裏から出火し、本堂が全焼。 本尊のみは当時の住職により担ぎ出され難を逃れた。 現在の本堂は鉄筋2階建てで1979年に再建された。
現在恵光寺では、河内家菊水丸による盆おどり(慧灯大師盆おどり)や恵光寺文化講座など、活発な寺院活動が展開されている。
○交通アクセス
近鉄八尾駅下車、近鉄バスで「萱振南口」バス停下車。
○所在地
大阪府八尾市萱振町4-1
慈願寺
慈願寺は、大阪府八尾市本町にある真宗大谷派の寺院である。
○歴史
弘安3年(1280年)、浄土真宗の開祖である親鸞の直弟子の24人のうちの一人、信願房法心が親鸞聖人の遺命により河内国久宝寺村に建立。
文明2年(1470年)、蓮如が久宝寺村にて布教活動を始めた時は慈願寺を本拠とした。
明応年間(1492~1501年)に「西証寺」(後の顕証寺)を建立し、久宝寺寺内町が形成されていく過程で、慈願寺は顕証寺の世話寺として貢献する。
江戸時代初期に、久宝寺寺内町を支配していた安井氏に対抗し、森本行誓ら17人の民衆が、当時荒地だった大和川右岸(現在の八尾市中心部)に移り住む。このとき慈願寺も十七人衆を支援したため破却され、八尾(現在の真宗大谷派八尾別院大信寺の南隣)に移り再建、八尾寺内町形成過程で建立された大信寺 (八尾御坊)の世話寺となる。
慶長7年(1602年)、本願寺が東西に分立する。その際に慈願寺は、「教如を十二代法主とする本願寺教団」(現、真宗大谷派)に属する。
万治3年(1660年)、現在地に移建。
文化11年(1814年)、本堂が火事で焼失。文化14年(1817年)再建される。
平成18年(2006年)、本堂、山門など境内の建築物が日本の登録有形文化財に登録された。
○文化財
登録有形文化財
本堂
鐘楼
太鼓楼
経蔵
手水屋
表門及び築地塀
脇門及び築地塀
八尾市指定文化財
慈願寺所蔵絵画資料
慈願寺文書
○行事
お逮夜市(おたいやいち)
毎月11日と27日に旧八尾寺内町一帯で開かれる露店市。27日は親鸞のお逮夜であるが、11日は信願房法心のお逮夜という説がある。
○所在地
大阪府八尾市本町3-5-5
○交通アクセス
近鉄大阪線 八尾駅から徒歩約10分
○歴史
弘安3年(1280年)、浄土真宗の開祖である親鸞の直弟子の24人のうちの一人、信願房法心が親鸞聖人の遺命により河内国久宝寺村に建立。
文明2年(1470年)、蓮如が久宝寺村にて布教活動を始めた時は慈願寺を本拠とした。
明応年間(1492~1501年)に「西証寺」(後の顕証寺)を建立し、久宝寺寺内町が形成されていく過程で、慈願寺は顕証寺の世話寺として貢献する。
江戸時代初期に、久宝寺寺内町を支配していた安井氏に対抗し、森本行誓ら17人の民衆が、当時荒地だった大和川右岸(現在の八尾市中心部)に移り住む。このとき慈願寺も十七人衆を支援したため破却され、八尾(現在の真宗大谷派八尾別院大信寺の南隣)に移り再建、八尾寺内町形成過程で建立された大信寺 (八尾御坊)の世話寺となる。
慶長7年(1602年)、本願寺が東西に分立する。その際に慈願寺は、「教如を十二代法主とする本願寺教団」(現、真宗大谷派)に属する。
万治3年(1660年)、現在地に移建。
文化11年(1814年)、本堂が火事で焼失。文化14年(1817年)再建される。
平成18年(2006年)、本堂、山門など境内の建築物が日本の登録有形文化財に登録された。
○文化財
登録有形文化財
本堂
鐘楼
太鼓楼
経蔵
手水屋
表門及び築地塀
脇門及び築地塀
八尾市指定文化財
慈願寺所蔵絵画資料
慈願寺文書
○行事
お逮夜市(おたいやいち)
毎月11日と27日に旧八尾寺内町一帯で開かれる露店市。27日は親鸞のお逮夜であるが、11日は信願房法心のお逮夜という説がある。
○所在地
大阪府八尾市本町3-5-5
○交通アクセス
近鉄大阪線 八尾駅から徒歩約10分
大聖勝軍寺
大聖勝軍寺は大阪府八尾市の旧奈良街道に面して建つ高野山真言宗の仏教寺院。山号は神妙椋樹山。開基は聖徳太子、本尊は植髪太子(聖徳太子)である。 聖徳太子建立三太子の一つで、叡福寺の「上の太子」、野中寺の「中の太子」に対して、「下の太子」と呼ばれている。地元では単に「太子堂」と呼ばれている。
○縁起
587年、崇仏派の聖徳太子が排仏派の物部守屋との戦いで「いまもし我をして敵に勝たしめば、かならずまさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし」(日本書紀)と祈願して戦勝したことから、戦後間もなく四天王を祭るための寺院として摂津国難波(大阪市天王寺区)の四天王寺とともに、当寺の太子堂が建立された。
594年、推古天皇より現在の山号と寺号が贈られ、この年が創建年とされる。
756年、聖武上皇から鎮護国家寺の称号を贈られ、勅願寺に定められる。
○周辺情報
門前に秦河勝が物部守屋の首を洗ったと伝わる「守屋池(守屋首洗池)」があり、近くには物部守屋の墓がある。
○年中行事
4月22日-聖徳太子会式法要
8月15・16日-絵燈籠供養
春と秋の彼岸中日-彼岸法要
○文化財
大聖勝軍寺 木造二臂如意輪観音半跏思惟像(大阪府指定文化財)
大聖勝軍寺 胎内仏 金銅菩薩思惟半跏思惟像(大阪府指定文化財)
大聖勝軍寺 木造四天王像(大阪府指定文化財)
大聖勝軍寺 木造毘沙門天像(大阪府指定文化財)
大聖勝軍寺 色々威胴丸(兜・広袖付)(大阪府指定文化財)
大聖勝軍寺 木造聖徳太子孝養像・木造二王子立像(八尾市指定文化財)
紙本着色 聖徳太子絵伝 長谷川永信作(八尾市指定文化財)
○所在地・交通アクセス
〒581-0063大阪府八尾市太子堂3-3-16
国道25号 太子堂交差点のすぐ西 (駐車場は無し)
近鉄大阪線八尾駅からバス「藤井寺駅」行きで「太子堂」下車すぐ
JR大和路線八尾駅から上記バス または徒歩15分
○縁起
587年、崇仏派の聖徳太子が排仏派の物部守屋との戦いで「いまもし我をして敵に勝たしめば、かならずまさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし」(日本書紀)と祈願して戦勝したことから、戦後間もなく四天王を祭るための寺院として摂津国難波(大阪市天王寺区)の四天王寺とともに、当寺の太子堂が建立された。
594年、推古天皇より現在の山号と寺号が贈られ、この年が創建年とされる。
756年、聖武上皇から鎮護国家寺の称号を贈られ、勅願寺に定められる。
○周辺情報
門前に秦河勝が物部守屋の首を洗ったと伝わる「守屋池(守屋首洗池)」があり、近くには物部守屋の墓がある。
○年中行事
4月22日-聖徳太子会式法要
8月15・16日-絵燈籠供養
春と秋の彼岸中日-彼岸法要
○文化財
大聖勝軍寺 木造二臂如意輪観音半跏思惟像(大阪府指定文化財)
大聖勝軍寺 胎内仏 金銅菩薩思惟半跏思惟像(大阪府指定文化財)
大聖勝軍寺 木造四天王像(大阪府指定文化財)
大聖勝軍寺 木造毘沙門天像(大阪府指定文化財)
大聖勝軍寺 色々威胴丸(兜・広袖付)(大阪府指定文化財)
大聖勝軍寺 木造聖徳太子孝養像・木造二王子立像(八尾市指定文化財)
紙本着色 聖徳太子絵伝 長谷川永信作(八尾市指定文化財)
○所在地・交通アクセス
〒581-0063大阪府八尾市太子堂3-3-16
国道25号 太子堂交差点のすぐ西 (駐車場は無し)
近鉄大阪線八尾駅からバス「藤井寺駅」行きで「太子堂」下車すぐ
JR大和路線八尾駅から上記バス または徒歩15分
真宗大谷派八尾別院大信寺
真宗大谷派八尾別院大信寺は、大阪府八尾市本町にある真宗大谷派の寺院である。同派の別院。 真宗本廟(東本願寺)を本山と仰ぐ。「八尾御坊」とも呼ばれる。
○歴史
慶長12年(1607年)、本願寺の東西分立に端を発し、久宝寺寺内町においても内部対立が起こり、森本行誓ら17人の民衆が、寺内町を支配していた安井氏と対立した。徳川家康に仲裁を願い出るも認められず、久宝寺寺内町を出ることとなった。 森本行誓らは家康の計らいにより、家康から東本願寺第十二世住職の教如に寄進された八尾荘(現在の八尾市中心部)に移住、教如と共に大信寺(八尾御坊)を建て、寺内町を形成。以後、八尾周辺は大信寺と寺内町を中心に発展していく。 最盛期には、大信寺の境内地の規模は約440m四方にもおよび、大信寺直轄の門徒は300戸あったとされる。
明治5年(1872年)、東本願寺の別格別院となり、別院大信寺と称するようになった。
昭和42年(1967年)、京都大学建築研究協会(当時)の棚橋諒博士設計による、現在の本堂、山門、鐘楼と納骨堂が落成する。鉄筋コンクリート構造のモダン建築である。旧本堂は明和4年(1767年)の建立であった。天明の大火(1788年)で東本願寺が被災した際、大信寺本堂が東本願寺に移築されて御影堂となったが、東本願寺の復興に伴い、寛政11年(1799年)に八尾に再移築されている。その後昭和28年(1953年)3月2日に旧本堂が白蟻の被害によって倒壊。この旧本堂の部材は東京都港区の善福寺に運ばれ、昭和36年(1961年)より同寺の本堂として使用されている。なお、真宗大谷派桑名別院本統寺の山門と鐘楼も八尾別院から移されたものである。
○河内県庁跡
明治2年(1869年)1月に河内県が設置されたときに、大信寺内の対面所に仮役所(県庁)が設置され、税所篤が河内県長官として赴任した。
同年8月に堺県の設置に伴い、河内県は廃止となり、河内県庁もなくなった。
現在は境内北側・大信寺梅林の一角に石碑が残るのみである。大阪府指定史跡となっている。
○行事
毎月11日と27日 ― お逮夜市。大信寺付近一帯で開かれる露店市。
○文化財
河内県庁跡(大阪府指定文化財)
大信寺文書 板倉勝重禁制(八尾市指定文化財)
大信寺文書 徳川年寄衆連署(八尾市指定文化財)
絹本著色 光明本尊(八尾市指定文化財)
絹本著色 法然上人配流御影(八尾市指定文化財)
絹本著色 親鸞聖人配流御影(八尾市指定文化財)
紙本著色 親鸞聖人水鏡白髪御影(八尾市指定文化財)
○所在地・交通アクセス
大阪府八尾市本町4-2-48
近鉄大阪線 八尾駅から徒歩約10分
○歴史
慶長12年(1607年)、本願寺の東西分立に端を発し、久宝寺寺内町においても内部対立が起こり、森本行誓ら17人の民衆が、寺内町を支配していた安井氏と対立した。徳川家康に仲裁を願い出るも認められず、久宝寺寺内町を出ることとなった。 森本行誓らは家康の計らいにより、家康から東本願寺第十二世住職の教如に寄進された八尾荘(現在の八尾市中心部)に移住、教如と共に大信寺(八尾御坊)を建て、寺内町を形成。以後、八尾周辺は大信寺と寺内町を中心に発展していく。 最盛期には、大信寺の境内地の規模は約440m四方にもおよび、大信寺直轄の門徒は300戸あったとされる。
明治5年(1872年)、東本願寺の別格別院となり、別院大信寺と称するようになった。
昭和42年(1967年)、京都大学建築研究協会(当時)の棚橋諒博士設計による、現在の本堂、山門、鐘楼と納骨堂が落成する。鉄筋コンクリート構造のモダン建築である。旧本堂は明和4年(1767年)の建立であった。天明の大火(1788年)で東本願寺が被災した際、大信寺本堂が東本願寺に移築されて御影堂となったが、東本願寺の復興に伴い、寛政11年(1799年)に八尾に再移築されている。その後昭和28年(1953年)3月2日に旧本堂が白蟻の被害によって倒壊。この旧本堂の部材は東京都港区の善福寺に運ばれ、昭和36年(1961年)より同寺の本堂として使用されている。なお、真宗大谷派桑名別院本統寺の山門と鐘楼も八尾別院から移されたものである。
○河内県庁跡
明治2年(1869年)1月に河内県が設置されたときに、大信寺内の対面所に仮役所(県庁)が設置され、税所篤が河内県長官として赴任した。
同年8月に堺県の設置に伴い、河内県は廃止となり、河内県庁もなくなった。
現在は境内北側・大信寺梅林の一角に石碑が残るのみである。大阪府指定史跡となっている。
○行事
毎月11日と27日 ― お逮夜市。大信寺付近一帯で開かれる露店市。
○文化財
河内県庁跡(大阪府指定文化財)
大信寺文書 板倉勝重禁制(八尾市指定文化財)
大信寺文書 徳川年寄衆連署(八尾市指定文化財)
絹本著色 光明本尊(八尾市指定文化財)
絹本著色 法然上人配流御影(八尾市指定文化財)
絹本著色 親鸞聖人配流御影(八尾市指定文化財)
紙本著色 親鸞聖人水鏡白髪御影(八尾市指定文化財)
○所在地・交通アクセス
大阪府八尾市本町4-2-48
近鉄大阪線 八尾駅から徒歩約10分
2013年4月26日金曜日
久宝寺
久宝寺は、大阪府八尾市内の一地域。八尾市の西側に位置し、大まかには近鉄大阪線とJR大和路線、府道大阪中央環状線と長瀬川に囲まれた地域である。新住所表記では、久宝寺、神武町の一部、東久宝寺の一部、北久宝寺、西久宝寺、南久宝寺、渋川町の一部に該当する。 ここでは、八尾市に合併される前の旧久宝寺村の地域について記述する。
○歴史概要
・近代以前
古代・飛鳥時代に聖徳太子がこの地に「久宝寺」を創建したことが名称の由来となっている。しかしどこに建てられ、いつごろ廃れたかははっきりしない。 律令制制定以降は、河内国渋川郡に属する。中世・鎌倉時代になると、慈願寺が創建される。室町時代には安井氏の領地となる。戦国時代に本願寺第八世蓮如がこの地で布教活動を始め、西証寺(のちの顕証寺)を創建し、周囲に環濠をめぐらせて環濠集落・寺内町が形成された。石山合戦時には安井氏は織田信長方に付いたため寺内町の一向宗派と対立し、当時の支配者であった安井主計兄弟は攻め殺されたが、石山本願寺が攻め落とされたため一向宗も弱体化してしまった。その後安井氏は豊臣氏・徳川氏に与して領地を安堵されている。江戸時代初期に、浄土真宗の東西分裂が表面化するのと前後して、久宝寺でも安井氏と一部住民が対立し、森本行誓ら17人衆が慈願寺と共に久宝寺川東の荒地へ移住した。移住先は「八尾寺内町」となり、現在の八尾市の中心となっている。
・近代以降
1889年4月1日の市町村制施行に伴い、久宝寺村、顕証寺新田、三津村新田が合併し、久宝寺村となる。
1948年4月1日に久宝寺村・八尾町・龍華町・大正村・西郡村の2町3村が合併、市制を施行し八尾市となり、中河内郡を離脱。
○主な施設・旧跡
・久宝寺
久宝寺寺内町
顕証寺を中心として発展した寺内町。平野から八尾を抜けて信貴山や奈良方面へ至る街道の中継地点にあたり、かつては在郷町としてにぎわった。寺内町の興りは、戦国時代に蓮如が西証寺を創建したことに始まる。それ以前はこの地の土豪で畠山氏を祖とする安井氏が屋敷地に環濠を巡らせて支配していた。文明2年(1470年)に蓮如がこの地で本格的に布教活動を始めたが、当初は慈願寺を拠点としていた。文明11年(1479年)に「西証寺」を創建した。安井氏も創建に協力し、環濠を二重にして防御を厳重にするなど、寺内町の様相となり、戦国時代における一向宗の拠点のひとつとなった。戦国時代から江戸時代にかけて多くの門徒衆や商人が集まり、地域の中心として賑わった。かつて周囲に張り巡らされた環濠や土居は現在も一部に名残りをとどめている。碁盤目状の町割りはほぼ当時の状態をとどめており、域内の道は一方通行が多かったり入り組んだりしており、土地勘がないと迷いやすい。主要道路は東西に7本、南北に6本で構成され、東西の道路は北から大手町通り、米屋町通り、馬追町通り、表町通り、中之町通り、慈願寺通りと呼ばれた。このうち表町通りがかつての八尾街道の道筋にあたる。
顕証寺
通称「久宝寺御坊」。最初「西証寺」として文明11年(1479年)に創建され、後に顕証寺と寺号を改めた。
寺内町ふれあい館
久宝寺寺内町に関する郷土資料館。2000年に開館。
久宝寺城址
畠山満基の長子、渋川満貞の居城であったと伝えられている。満貞の嫡子の光重の時代に安井と改姓し、定重の時代に織田信長に仕えたが、石山合戦の時に顕如が率いる本願寺の僧兵に攻められ城は陥落した。城址は寺内町の北西あたりにあったとされ、小字城土居の地名として残っていた。
許麻神社
延喜式神名帳に記載されている渋川郡の式内社。 創建年は不明であるが、付近に渡来系の者が多く住み着き、のちに祖神を祀ったとされる。祭神は素盞嗚命、許麻大神など。現在の本殿は昭和46年に再建され、コンクリート製である。
○歴史概要
・近代以前
古代・飛鳥時代に聖徳太子がこの地に「久宝寺」を創建したことが名称の由来となっている。しかしどこに建てられ、いつごろ廃れたかははっきりしない。 律令制制定以降は、河内国渋川郡に属する。中世・鎌倉時代になると、慈願寺が創建される。室町時代には安井氏の領地となる。戦国時代に本願寺第八世蓮如がこの地で布教活動を始め、西証寺(のちの顕証寺)を創建し、周囲に環濠をめぐらせて環濠集落・寺内町が形成された。石山合戦時には安井氏は織田信長方に付いたため寺内町の一向宗派と対立し、当時の支配者であった安井主計兄弟は攻め殺されたが、石山本願寺が攻め落とされたため一向宗も弱体化してしまった。その後安井氏は豊臣氏・徳川氏に与して領地を安堵されている。江戸時代初期に、浄土真宗の東西分裂が表面化するのと前後して、久宝寺でも安井氏と一部住民が対立し、森本行誓ら17人衆が慈願寺と共に久宝寺川東の荒地へ移住した。移住先は「八尾寺内町」となり、現在の八尾市の中心となっている。
・近代以降
1889年4月1日の市町村制施行に伴い、久宝寺村、顕証寺新田、三津村新田が合併し、久宝寺村となる。
1948年4月1日に久宝寺村・八尾町・龍華町・大正村・西郡村の2町3村が合併、市制を施行し八尾市となり、中河内郡を離脱。
○主な施設・旧跡
・久宝寺
久宝寺寺内町
顕証寺を中心として発展した寺内町。平野から八尾を抜けて信貴山や奈良方面へ至る街道の中継地点にあたり、かつては在郷町としてにぎわった。寺内町の興りは、戦国時代に蓮如が西証寺を創建したことに始まる。それ以前はこの地の土豪で畠山氏を祖とする安井氏が屋敷地に環濠を巡らせて支配していた。文明2年(1470年)に蓮如がこの地で本格的に布教活動を始めたが、当初は慈願寺を拠点としていた。文明11年(1479年)に「西証寺」を創建した。安井氏も創建に協力し、環濠を二重にして防御を厳重にするなど、寺内町の様相となり、戦国時代における一向宗の拠点のひとつとなった。戦国時代から江戸時代にかけて多くの門徒衆や商人が集まり、地域の中心として賑わった。かつて周囲に張り巡らされた環濠や土居は現在も一部に名残りをとどめている。碁盤目状の町割りはほぼ当時の状態をとどめており、域内の道は一方通行が多かったり入り組んだりしており、土地勘がないと迷いやすい。主要道路は東西に7本、南北に6本で構成され、東西の道路は北から大手町通り、米屋町通り、馬追町通り、表町通り、中之町通り、慈願寺通りと呼ばれた。このうち表町通りがかつての八尾街道の道筋にあたる。
顕証寺
通称「久宝寺御坊」。最初「西証寺」として文明11年(1479年)に創建され、後に顕証寺と寺号を改めた。
寺内町ふれあい館
久宝寺寺内町に関する郷土資料館。2000年に開館。
久宝寺城址
畠山満基の長子、渋川満貞の居城であったと伝えられている。満貞の嫡子の光重の時代に安井と改姓し、定重の時代に織田信長に仕えたが、石山合戦の時に顕如が率いる本願寺の僧兵に攻められ城は陥落した。城址は寺内町の北西あたりにあったとされ、小字城土居の地名として残っていた。
許麻神社
延喜式神名帳に記載されている渋川郡の式内社。 創建年は不明であるが、付近に渡来系の者が多く住み着き、のちに祖神を祀ったとされる。祭神は素盞嗚命、許麻大神など。現在の本殿は昭和46年に再建され、コンクリート製である。
顕証寺
顕証寺は、大阪府八尾市久宝寺にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は近松山。久宝寺御坊ともいう。 かつて、周囲に寺内町を形成し、現在もその町並みをとどめている。
○歴史
伝承によれば、顕証寺のある八尾市久宝寺地区には、飛鳥時代に聖徳太子が「久宝寺」を創建したといわれている。顕証寺西側の許麻神社(こまじんじゃ)境内には太子創建を伝える久宝寺観音院があったが、明治の神仏分離で廃絶した。文明元年(1469年)、本願寺8世法主蓮如は、近江近松(滋賀県大津市)に顕証寺を創建し、初めは長男順如、その死後は6男蓮淳に住持させた。これは後の本願寺派近松別院となり、寺号は後に久宝寺御坊顕証寺に引き継がれた。そのため、戦前まで近松別院は八尾の顕証寺が法要を勤めていた。文明2年(1470年)、蓮如は河内渋川郡(現・大阪府八尾市など)を訪れて布教活動を始めた。当初は同地にあった慈願寺(現・八尾市本町)を本拠としたが、明応年間(1492年 - 1501年)、久宝寺跡に「西証寺」を建立した。この時、近くにある久宝寺城主の安井氏は地域住民が一向宗に与するのを見計らい、地域支配を維持するために創建に協力している。蓮如の11男の実順を住持とし、ここを河内一向宗の中心道場とした。しかし実順は永正15年(1518年)、25歳で没し、その跡を継いだ子の実真も享禄2年(1529年)に13歳で早世したため、近江顕証寺から蓮淳を迎え、その時に「顕証寺」と寺号を改めた。戦国時代に入ると、戦乱を防ぎ、門徒の団結をはかるため、天文10年(1541年)頃に久宝寺御坊を中心に周囲に二重の堀と土塀を巡らし、その内側に碁盤目に道を巡らした寺内町を作った。寺内町では久宝寺御坊がいっさいの支配権をもち、安井氏がこの権利を委されていた。戦国時代が終わると、本願寺の東西分裂に端を発して、慶長11年(1606年)、一部の住人は安井氏と対立して久宝寺寺内町を出て、大和川(現在の長瀬川)の対岸、八尾の荒地を開墾し、八尾御坊(現、真宗大谷派八尾別院大信寺)を中心に八尾寺内町を作った。慶長19年(1614年)から元和元年(1615年)にかけて徳川家康と豊臣秀頼が衝突した大坂冬の陣・大坂夏の陣において、この地域は主戦場のひとつとなり、辺りは焼き払われ、焼け野原になった。現在の本堂には江戸時代中期・正徳6年(1716年)の棟札があり、この年再建されたものとわかる。江戸時代前半頃には八尾街道の中継地として栄えたが、宝永元年(1704年)の大和川付け替えを境に、地域の中心は久宝寺から八尾寺内町に移っていった。
○西本願寺・大谷家との関係
蓮如の子蓮淳を開基とし、大谷宗家に準ずる連枝格寺院である。また、住職から歴代宗主(門主)を輩出している。
顕証寺第11代寂峰は、亀山本徳寺8世住職の寂円連枝(大谷昭尊)の子として生まれ、当山住職就任後、本願寺第16世宗主湛如の急逝を受け、本願寺第17世宗主法如となる。
顕証寺第13代暉宣の子は、一旦は顕証寺住職を継ぐも、本願寺第20世宗主広如となった。広如の実子に本願寺第21世宗主明如がいる。
顕証寺第14代摂真の子は、広如の養子に迎えられ、徳如となるが宗主を継職せず遷化。なお、摂真は二条家(二条治孝)から室を迎えている。
顕証寺第16代近松尊定は、鏡如(大谷光瑞)引退を受けて浄土真宗本願寺派管長代理を務めた。近代以降は近松姓を名乗っている。
○所在地
大阪府八尾市久宝寺4-4-3
○歴史
伝承によれば、顕証寺のある八尾市久宝寺地区には、飛鳥時代に聖徳太子が「久宝寺」を創建したといわれている。顕証寺西側の許麻神社(こまじんじゃ)境内には太子創建を伝える久宝寺観音院があったが、明治の神仏分離で廃絶した。文明元年(1469年)、本願寺8世法主蓮如は、近江近松(滋賀県大津市)に顕証寺を創建し、初めは長男順如、その死後は6男蓮淳に住持させた。これは後の本願寺派近松別院となり、寺号は後に久宝寺御坊顕証寺に引き継がれた。そのため、戦前まで近松別院は八尾の顕証寺が法要を勤めていた。文明2年(1470年)、蓮如は河内渋川郡(現・大阪府八尾市など)を訪れて布教活動を始めた。当初は同地にあった慈願寺(現・八尾市本町)を本拠としたが、明応年間(1492年 - 1501年)、久宝寺跡に「西証寺」を建立した。この時、近くにある久宝寺城主の安井氏は地域住民が一向宗に与するのを見計らい、地域支配を維持するために創建に協力している。蓮如の11男の実順を住持とし、ここを河内一向宗の中心道場とした。しかし実順は永正15年(1518年)、25歳で没し、その跡を継いだ子の実真も享禄2年(1529年)に13歳で早世したため、近江顕証寺から蓮淳を迎え、その時に「顕証寺」と寺号を改めた。戦国時代に入ると、戦乱を防ぎ、門徒の団結をはかるため、天文10年(1541年)頃に久宝寺御坊を中心に周囲に二重の堀と土塀を巡らし、その内側に碁盤目に道を巡らした寺内町を作った。寺内町では久宝寺御坊がいっさいの支配権をもち、安井氏がこの権利を委されていた。戦国時代が終わると、本願寺の東西分裂に端を発して、慶長11年(1606年)、一部の住人は安井氏と対立して久宝寺寺内町を出て、大和川(現在の長瀬川)の対岸、八尾の荒地を開墾し、八尾御坊(現、真宗大谷派八尾別院大信寺)を中心に八尾寺内町を作った。慶長19年(1614年)から元和元年(1615年)にかけて徳川家康と豊臣秀頼が衝突した大坂冬の陣・大坂夏の陣において、この地域は主戦場のひとつとなり、辺りは焼き払われ、焼け野原になった。現在の本堂には江戸時代中期・正徳6年(1716年)の棟札があり、この年再建されたものとわかる。江戸時代前半頃には八尾街道の中継地として栄えたが、宝永元年(1704年)の大和川付け替えを境に、地域の中心は久宝寺から八尾寺内町に移っていった。
○西本願寺・大谷家との関係
蓮如の子蓮淳を開基とし、大谷宗家に準ずる連枝格寺院である。また、住職から歴代宗主(門主)を輩出している。
顕証寺第11代寂峰は、亀山本徳寺8世住職の寂円連枝(大谷昭尊)の子として生まれ、当山住職就任後、本願寺第16世宗主湛如の急逝を受け、本願寺第17世宗主法如となる。
顕証寺第13代暉宣の子は、一旦は顕証寺住職を継ぐも、本願寺第20世宗主広如となった。広如の実子に本願寺第21世宗主明如がいる。
顕証寺第14代摂真の子は、広如の養子に迎えられ、徳如となるが宗主を継職せず遷化。なお、摂真は二条家(二条治孝)から室を迎えている。
顕証寺第16代近松尊定は、鏡如(大谷光瑞)引退を受けて浄土真宗本願寺派管長代理を務めた。近代以降は近松姓を名乗っている。
○所在地
大阪府八尾市久宝寺4-4-3
教興寺の戦い
教興寺の戦いは、永禄5年(1562年)5月19日、20日の両日に、河内高安郡教興寺村(現在の大阪府八尾市教興寺)付近であった三好長慶と畠山高政との合戦。別名は教興寺合戦。戦国時代における畿内での最大規模の会戦として有名である。
○概要
この戦いは、下克上で細川政権を崩壊させた新興勢力である三好政権と、細川氏と同じく室町幕府三管領の1つであり、長年対立してきた旧勢力の河内畠山氏が、畿内の覇権をめぐって争った一連の戦いの最終章、つまり最終決戦だった。新興勢力の智将三好長慶と旧勢力の勇将畠山高政が互いの勢力の全てを結集した会戦であり、長慶はこの戦いに勝利することで畿内の旧勢力の抵抗を排除できた。また、河内、和泉を勢力下におき、大和、紀伊へも勢力を浸透させることに成功したことで長慶は天下人となった。しかし、この戦いの中で一族の有力者であった三好政成、三好義賢などを失ったことから三好政権の前途に暗雲が見え隠れするようになった。
○合戦前の状況
河内守護として畠山氏は室町時代の初期より君臨してきたが、戦国時代になると隣国摂津をはじめ、阿波や淡路、讃岐などの守護であった長慶によって圧迫されることが多かった。また、畠山氏の当主畠山高政は勇将ではあったが、家中の状況は戦国の風潮があり、家臣団の統制も困難を伴った。その結果、隣国の戦国大名である長慶によって内政干渉を受けることも多く、家臣団筆頭である守護代を独自に決定することさえ長慶の干渉を受けることがあった。天文20年(1551年)5月5日に守護代で実質的に河内の国主といえた守護代遊佐長教が暗殺されると、河内は混乱を極めたが、翌天文21年(1552年)には長教の一族で、河内交野の有力国人の安見氏の養子に入っていた安見宗房(直政)が、長教を暗殺した萱振賢継などを討伐して台頭した。安見宗房は守護代となったが、守護の高政と宗房が対立すると、永禄2年(1559年)、高政は有力国人を味方につけた宗房に対抗するために三好長慶の援助を受けて宗房に対抗した。その際、宗房は居城の飯盛山城を長慶に攻略され、飯盛山城は長慶の居城となった。その後、永禄3年(1560年)には高政と宗房が和睦したが、それが長慶に畠山氏攻撃の口実とされた。高政は国人領主の統制を整え、宗房や湯川直光などの有力諸将を纏め上げ、長慶に対抗した。永禄4年(1561年)、そこへ近江の六角義賢(承禎)から高政に長慶挟撃の軍事同盟の提案がなされた。背後には室町幕府の権威回復を謀る13代将軍足利義輝などの思惑もあった。新興勢力の三好氏に対して旧勢力の六角氏・畠山氏が反撃にでたといえる。
○合戦までの経過
永禄4年(1561年)7月28日 六角義賢、将軍地蔵山に2万の軍勢で布陣。
永禄4年(1561年)11月24日 将軍地蔵山の戦い(六角義賢対三好義興)。六角方の勝利。
永禄4年(1561年)12月25日 三好政成の河内三箇城が畠山方に奇襲を受けて落城。
永禄5年(1562年)1月10日 六角義賢と三好義興が京都で対陣。
永禄5年(1562年)1月22日 三好義興、松永久秀、将軍足利義輝に年賀を述べる。
永禄5年(1562年)2月23日 反三好、親畠山・六角の国人一揆が大和で起こる。
永禄5年(1562年)2月26日 六角義賢の軍勢、大和の国人一揆に呼応する出動を行う。
永禄5年(1562年)3月5日 畠山高政が総大将となり旗本を率い、紀州の湯川直光の率いる湯川衆と、雑賀・根来衆を中核にして、
河内の諸将を動員して久米田の戦いで三好長慶の弟の三好義賢(物外軒実休)ら阿波衆・淡路衆・讃岐衆を中核とする三好軍を撃破。
三好義賢を討ちとり、意気盛んとなる。
永禄5年(1562年)3月6日 三好軍の敗報と三好義賢の討死が飯盛山城の三好長慶、京都に布陣中の
三好義興、松永久秀に伝わる。三好義興、松永久秀らは山崎城に撤退。
勝竜寺城に三好方の今村慶満が入城。西岡に池田長正、松山新介が布陣。
永禄5年(1562年)3月7日 六角義賢軍が入洛。三好義興、松永久秀の軍勢は山崎城に移動し、六角軍の迎撃体制をとりつつ、畠山軍に対応すべく布陣。
永禄5年(1562年)3月9日 畠山軍に大和の諸将(澤房満、秋山教家、芳野民部大輔らの宇陀郡の宇陀三将、片岡氏、箸尾氏、筒井氏、島氏、井戸氏など)の軍勢が参陣し合流。
永禄5年(1562年)3月10日 三好義興、松永久秀が摂津鳥飼(鳥養)に布陣し、摂津の国人領主の能勢頼道(または能勢頼幸)、塩川長満、伊丹親興らに参集するように命じた。
また、一度帰郷した池田長正にも再出陣を命ず。
永禄5年(1562年)3月11日 丹波の内藤宗勝、摂津の有馬村秀らに参集を命じた。
永禄5年(1562年)3月29日 畠山高政の軍勢が南河内の三好方の諸城を攻略し終え、高野街道を北上しはじめ、三好長慶の居城、飯盛山城に向けて進撃を開始。
永禄5年(1562年)4月5日 畠山高政の軍勢が飯盛山城を包囲し、周辺の三好方の出城の攻略を開始。
永禄5年(1562年)4月11日 畠山高政の軍勢が飯盛山城の周辺の城を攻略し終える。
永禄5年(1562年)4月14日 池田長正、伊丹親興らの摂津衆が鳥飼の三好義興、松永久秀の元に参集を終える。
永禄5年(1562年)4月15日 内藤宗勝、有馬村秀らも参集した。
永禄5年(1562年)4月17日 畠山高政の軍勢、2度目の総攻撃を行う(1度目がいつであったかは不明、一説に4月5日)。
永禄5年(1562年)4月25日 六角義賢の軍勢が停滞。畠山高政が督促。
永禄5年(1562年)5月10日 久米田の戦いで敗走した、讃岐衆、阿波衆、淡路衆などもこの頃までに随時参集し、態勢を整え終える。
永禄5年(1562年)5月14日 三好義興、松永久秀、三好康長、三好政康、三好長逸、安宅冬康、十河存保の軍勢が飯盛山城救援に出撃。号して5万ともいう大軍であったという。
永禄5年(1562年)5月15日 畠山高政の軍勢、飯盛山城の包囲を解き、援軍を迎撃するために後退。高野街道を南下。
永禄5年(1562年)5月16日 三好長慶の篭城の軍勢と救援の軍勢が合流。
永禄5年(1562年)5月17日 三好長慶の軍勢と畠山高政の軍勢が教興寺畷付近で対陣。
永禄5年(1562年)5月18日 安見宗房や湯川直光が謀反との流言が広がる。
○教興寺の戦い
・兵力
兵力的には久米田の戦いとは異なり、態勢を整えなおした三好方が優勢となった。当初、畠山方が三好長慶の居城の飯盛山城を攻撃した時点では、畠山方の兵力が三好方を圧倒したが、三好義興らが摂津の国人や丹波の国人に檄を飛ばして終結させたために劣勢を挽回し、教興寺で両軍が対陣する時点では逆に三好方が優勢となっていた。ただし、畠山方に参戦していた雑賀・根来衆の火縄銃4000丁が三好方の脅威であった。
三好方 60000余 摂津国人衆:25000余 丹波国人衆:7000余 山城国人衆:300余 播磨国人衆:500余 淡路国人衆:200余
讃岐国人衆:7000余 阿波国人衆:5000余 譜代・旗本:5000余 一門衆:10000余
畠山方 40000余 湯川衆:6000余 雑賀衆:3000余 根来衆:1000余 湯浅衆:1000余 紀伊国人衆:8000余
河内国人衆:7000余 大和国人衆:8000余 宇陀三将:3000余 和泉国人衆:500余 その他:500余
譜代・旗本衆:2000余
○指揮系統
指揮系統に関しては三好方が各部隊(各国人衆)の指揮官に一族を配置して、総大将三好長慶の命令が伝わりやすい編成となっているのに対し、畠山方は国人衆の旗頭や独立した国人領主が各自で参加する編成であったために、全体の指揮系統が一元化されていない。経過をみると、明らかに三好方が先攻し、それに対して畠山方が対応するという図式となっており、戦場で指揮系統が一元化されていた三好方は先手を取り、指揮系統が一元化できていなかった畠山方は後手に回ったと思われる。
○概要
この戦いは、下克上で細川政権を崩壊させた新興勢力である三好政権と、細川氏と同じく室町幕府三管領の1つであり、長年対立してきた旧勢力の河内畠山氏が、畿内の覇権をめぐって争った一連の戦いの最終章、つまり最終決戦だった。新興勢力の智将三好長慶と旧勢力の勇将畠山高政が互いの勢力の全てを結集した会戦であり、長慶はこの戦いに勝利することで畿内の旧勢力の抵抗を排除できた。また、河内、和泉を勢力下におき、大和、紀伊へも勢力を浸透させることに成功したことで長慶は天下人となった。しかし、この戦いの中で一族の有力者であった三好政成、三好義賢などを失ったことから三好政権の前途に暗雲が見え隠れするようになった。
○合戦前の状況
河内守護として畠山氏は室町時代の初期より君臨してきたが、戦国時代になると隣国摂津をはじめ、阿波や淡路、讃岐などの守護であった長慶によって圧迫されることが多かった。また、畠山氏の当主畠山高政は勇将ではあったが、家中の状況は戦国の風潮があり、家臣団の統制も困難を伴った。その結果、隣国の戦国大名である長慶によって内政干渉を受けることも多く、家臣団筆頭である守護代を独自に決定することさえ長慶の干渉を受けることがあった。天文20年(1551年)5月5日に守護代で実質的に河内の国主といえた守護代遊佐長教が暗殺されると、河内は混乱を極めたが、翌天文21年(1552年)には長教の一族で、河内交野の有力国人の安見氏の養子に入っていた安見宗房(直政)が、長教を暗殺した萱振賢継などを討伐して台頭した。安見宗房は守護代となったが、守護の高政と宗房が対立すると、永禄2年(1559年)、高政は有力国人を味方につけた宗房に対抗するために三好長慶の援助を受けて宗房に対抗した。その際、宗房は居城の飯盛山城を長慶に攻略され、飯盛山城は長慶の居城となった。その後、永禄3年(1560年)には高政と宗房が和睦したが、それが長慶に畠山氏攻撃の口実とされた。高政は国人領主の統制を整え、宗房や湯川直光などの有力諸将を纏め上げ、長慶に対抗した。永禄4年(1561年)、そこへ近江の六角義賢(承禎)から高政に長慶挟撃の軍事同盟の提案がなされた。背後には室町幕府の権威回復を謀る13代将軍足利義輝などの思惑もあった。新興勢力の三好氏に対して旧勢力の六角氏・畠山氏が反撃にでたといえる。
○合戦までの経過
永禄4年(1561年)7月28日 六角義賢、将軍地蔵山に2万の軍勢で布陣。
永禄4年(1561年)11月24日 将軍地蔵山の戦い(六角義賢対三好義興)。六角方の勝利。
永禄4年(1561年)12月25日 三好政成の河内三箇城が畠山方に奇襲を受けて落城。
永禄5年(1562年)1月10日 六角義賢と三好義興が京都で対陣。
永禄5年(1562年)1月22日 三好義興、松永久秀、将軍足利義輝に年賀を述べる。
永禄5年(1562年)2月23日 反三好、親畠山・六角の国人一揆が大和で起こる。
永禄5年(1562年)2月26日 六角義賢の軍勢、大和の国人一揆に呼応する出動を行う。
永禄5年(1562年)3月5日 畠山高政が総大将となり旗本を率い、紀州の湯川直光の率いる湯川衆と、雑賀・根来衆を中核にして、
河内の諸将を動員して久米田の戦いで三好長慶の弟の三好義賢(物外軒実休)ら阿波衆・淡路衆・讃岐衆を中核とする三好軍を撃破。
三好義賢を討ちとり、意気盛んとなる。
永禄5年(1562年)3月6日 三好軍の敗報と三好義賢の討死が飯盛山城の三好長慶、京都に布陣中の
三好義興、松永久秀に伝わる。三好義興、松永久秀らは山崎城に撤退。
勝竜寺城に三好方の今村慶満が入城。西岡に池田長正、松山新介が布陣。
永禄5年(1562年)3月7日 六角義賢軍が入洛。三好義興、松永久秀の軍勢は山崎城に移動し、六角軍の迎撃体制をとりつつ、畠山軍に対応すべく布陣。
永禄5年(1562年)3月9日 畠山軍に大和の諸将(澤房満、秋山教家、芳野民部大輔らの宇陀郡の宇陀三将、片岡氏、箸尾氏、筒井氏、島氏、井戸氏など)の軍勢が参陣し合流。
永禄5年(1562年)3月10日 三好義興、松永久秀が摂津鳥飼(鳥養)に布陣し、摂津の国人領主の能勢頼道(または能勢頼幸)、塩川長満、伊丹親興らに参集するように命じた。
また、一度帰郷した池田長正にも再出陣を命ず。
永禄5年(1562年)3月11日 丹波の内藤宗勝、摂津の有馬村秀らに参集を命じた。
永禄5年(1562年)3月29日 畠山高政の軍勢が南河内の三好方の諸城を攻略し終え、高野街道を北上しはじめ、三好長慶の居城、飯盛山城に向けて進撃を開始。
永禄5年(1562年)4月5日 畠山高政の軍勢が飯盛山城を包囲し、周辺の三好方の出城の攻略を開始。
永禄5年(1562年)4月11日 畠山高政の軍勢が飯盛山城の周辺の城を攻略し終える。
永禄5年(1562年)4月14日 池田長正、伊丹親興らの摂津衆が鳥飼の三好義興、松永久秀の元に参集を終える。
永禄5年(1562年)4月15日 内藤宗勝、有馬村秀らも参集した。
永禄5年(1562年)4月17日 畠山高政の軍勢、2度目の総攻撃を行う(1度目がいつであったかは不明、一説に4月5日)。
永禄5年(1562年)4月25日 六角義賢の軍勢が停滞。畠山高政が督促。
永禄5年(1562年)5月10日 久米田の戦いで敗走した、讃岐衆、阿波衆、淡路衆などもこの頃までに随時参集し、態勢を整え終える。
永禄5年(1562年)5月14日 三好義興、松永久秀、三好康長、三好政康、三好長逸、安宅冬康、十河存保の軍勢が飯盛山城救援に出撃。号して5万ともいう大軍であったという。
永禄5年(1562年)5月15日 畠山高政の軍勢、飯盛山城の包囲を解き、援軍を迎撃するために後退。高野街道を南下。
永禄5年(1562年)5月16日 三好長慶の篭城の軍勢と救援の軍勢が合流。
永禄5年(1562年)5月17日 三好長慶の軍勢と畠山高政の軍勢が教興寺畷付近で対陣。
永禄5年(1562年)5月18日 安見宗房や湯川直光が謀反との流言が広がる。
○教興寺の戦い
・兵力
兵力的には久米田の戦いとは異なり、態勢を整えなおした三好方が優勢となった。当初、畠山方が三好長慶の居城の飯盛山城を攻撃した時点では、畠山方の兵力が三好方を圧倒したが、三好義興らが摂津の国人や丹波の国人に檄を飛ばして終結させたために劣勢を挽回し、教興寺で両軍が対陣する時点では逆に三好方が優勢となっていた。ただし、畠山方に参戦していた雑賀・根来衆の火縄銃4000丁が三好方の脅威であった。
三好方 60000余 摂津国人衆:25000余 丹波国人衆:7000余 山城国人衆:300余 播磨国人衆:500余 淡路国人衆:200余
讃岐国人衆:7000余 阿波国人衆:5000余 譜代・旗本:5000余 一門衆:10000余
畠山方 40000余 湯川衆:6000余 雑賀衆:3000余 根来衆:1000余 湯浅衆:1000余 紀伊国人衆:8000余
河内国人衆:7000余 大和国人衆:8000余 宇陀三将:3000余 和泉国人衆:500余 その他:500余
譜代・旗本衆:2000余
○指揮系統
指揮系統に関しては三好方が各部隊(各国人衆)の指揮官に一族を配置して、総大将三好長慶の命令が伝わりやすい編成となっているのに対し、畠山方は国人衆の旗頭や独立した国人領主が各自で参加する編成であったために、全体の指揮系統が一元化されていない。経過をみると、明らかに三好方が先攻し、それに対して畠山方が対応するという図式となっており、戦場で指揮系統が一元化されていた三好方は先手を取り、指揮系統が一元化できていなかった畠山方は後手に回ったと思われる。
いけだ薪能2013
新緑がさわやかな夕暮れのひととき、幽玄の世界へ誘う「いけだ薪能」が池田城跡公園で開催されます。池田城を背景にかがり火で照らし出された舞台で、謡や鼓の音色が夜空に響くなか、源氏物語の王朝美を幽玄の世界で表現した文学的情緒あふれる半能「源氏供養」が披露されます。そのほか、窮地に立たされた盗人とその家の主人のやりとりが滑稽な狂言「盆山」や、天界から地獄までを映し出す(池の精霊のような存在である)鬼神の勇壮な舞姿が見どころの能楽「野守」が上演されます。※会場は夜になると肌寒くなりますので、防寒着のご持参をおすすめします。駐車場がありませんので、近隣の駐車場をご利用ください。
開催場所:池田城跡公園
所在地:〒563-0052大阪府池田市城山町3-46
交通アクセス:阪急「池田駅」から徒歩12分
開催期間:2013年5月18日開場/16:30、開演/17:00※雨天の場合:池田市民文化会館アゼリアホール開場/17:30、開演/18:00に変更 .イベント料金大人3000円、学生1000円、中小生500円(前売り自由席 ※未就学児の入場はご遠慮ください)
開催場所:池田城跡公園
所在地:〒563-0052大阪府池田市城山町3-46
交通アクセス:阪急「池田駅」から徒歩12分
開催期間:2013年5月18日開場/16:30、開演/17:00※雨天の場合:池田市民文化会館アゼリアホール開場/17:30、開演/18:00に変更 .イベント料金大人3000円、学生1000円、中小生500円(前売り自由席 ※未就学児の入場はご遠慮ください)
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