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2020年11月15日日曜日

境野1号墳と明智光秀本陣跡

 ○境野1号墳

境野1号墳は、古墳時代前記後半の前方後円墳で、4世紀後半に当たります現在まで9次までにわたる調査の結果、全長58m、後円部径31mを測る規模に復元されています。斜面は、後円部が2段か3段、前方部が2段に築かれています。斜面には葺石を施し、平坦面には円筒埴輪を樹立させています。埋葬施設は不明ですが後円部の藪土からは車輪石・石釧等の石製品や鉄刀などが採取されています。これらは副葬品の1部と思われます。境野1号墳が立地する下植野の段丘は、南側を見下ろすことが出来ます。淀川を行き交う人々からの眺めを意識して造営されたことがうかがえます。


○明智光秀本陣跡

境野1号墳は天承10(1582)年6月13日夕刻に起こった天下分け目の天王山「山崎の合戦」のとき、明智が他の本陣がおかれたのではないかと考えられています。「太閤記」の記述に御坊塚に光秀本陣が置かれ、兵力は5千有余とあり、当地周辺の地形を考慮すると、当古墳上が本陣に利用されたことが考えられます。古墳のある場所は標高25.2mを測り、周辺と比べるとひときわ高く、天王山や西国街道方向に視界が開けます。羽柴秀吉の軍勢と対峙し、見方の軍勢を把握して指揮するのにうってつけの場所が本古墳であったといえるでしょう。当地周辺で行った発掘調査では空堀跡と見られる遺稿が複数発見され、合戦前夜から本陣の準備が進められ、秀吉軍を迎え撃つ準備を進めていたと考えられます。また火縄銃の鉄砲玉も出土し、両軍の激戦の様子が窺えます。合戦は圧倒的な兵力を誇る秀吉軍の勝利に終わります。光秀はわずかばかりの手勢を伴い勝龍寺城から近江坂本城途上に向かう途中に向かう途上、山科小栗栖で落武者狩りの村人の手にかかり、無念の最後を遂げたといわれています。


所在地:京都府乙訓郡大山崎町下植野宮脇1-107(サントリー工場横)








2016年12月2日金曜日

四條畷の戦い

四條畷の戦いは、南北朝時代の1348年(正平3年/貞和4年)1月5日、河内国北條(大阪府四條畷市・大東市)における、南朝方の楠木正行と足利尊氏の家臣高師直との間の戦い。また、四條縄手という地名や、味方であった水走氏が東大阪市五条町に館があったことなどから、大阪府東大阪市の四条(縄手)付近で戦いがあったという説もある。
○背景
1336年(延元元年/建武3年)、楠木正成が湊川の戦いで敗死してから、楠木氏はしばらくの間鳴りを潜めていた。正成の子楠木正行が成長すると、本拠地である河内国南部で次第に力を蓄え、摂津国南部の住吉・天王寺周辺までゲリラ的に出没し、足利方を脅かすようになった。1347年(正平2年/貞和3年)9月、楠木軍は藤井寺近辺で細川顕氏を破り、11月には住吉付近で山名時氏を破った。
○経過
足利方は本格的な南朝攻撃を決意し、ついに1348年1月に高師直を大将とする大軍を編成して、北上する楠木軍と四條畷に対峙した。楠木軍は足利方の圧倒的な兵力の前に敗れ、正行は弟の正時と刺し違えて自決した。勢いに乗った高師直は、南朝の本拠吉野(奈良県吉野郡吉野町)に攻め入り陥落させ、後村上天皇はじめ南朝は賀名生(同県五條市)に逃れた。戦後、楠木氏は楠木正儀が後を継ぐ。『太平記』では、楠木軍が少数の兵で突撃し、あと一歩で師直の首を取るところまで迫ったように描かれているが、実際には兵力の差は歴然で、楠木軍の惨敗だったようである。

湊川の戦い

湊川の戦いは、南北朝時代の1336年((建武3年)5月25日)に、摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦である。
○背景
この年の初め、足利尊氏は新田義貞・楠木正成・北畠顕家らに敗れて京都を追われ九州へ落ち延びていた。ここで、正成が後醍醐天皇に、状況が宮方に有利な今のうちに足利方と和睦する事を進言するが、後醍醐はこれを退け、義貞を総大将とする尊氏追討の軍を西国へ向けて派遣した。なお、正成は和睦を進言した事で朝廷の不信を買い、この追討軍からは外され、国許での謹慎を命じられた。義貞は播磨国の白旗城に篭城する足利方の赤松則村(円心)を攻めている間に時間を空費し、この間に尊氏は多々良浜の戦いで九州を制覇して体制を立て直すと、京都奪還をめざして東進をはじめた。尊氏は高師直らと博多を発ち、備後国の鞆津を経て、四国で細川氏・土岐氏・河野氏らの率いる船隊と合流して海路を東進した。尊氏軍の東上に遭い、撤退を始めた新田軍に赤松勢が追撃を仕掛け、新田軍は大量の寝返りや足利軍への投降者を出しながら敗走した。一気に陣営がやせ細ってしまった義貞は、兵庫まで兵を退いて体制の立て直しを図った。
○経緯
後醍醐天皇は正成に兵庫で足利軍と戦うよう命じ、援軍として差し向けた。水軍を用意できなかった新田軍は、本陣を二本松(和田岬と会下山の中間)に置き、和田岬にも義貞配下の脇屋義助・大館氏明などの軍勢を配置して水軍の上陸に備えた。楠木軍は湊川の西側、本陣の北西にあたる会下山に布陣した。合戦では、足利直義を司令官とする陸上軍の主力数万の大軍は西国街道を進み、少弐頼尚は和田岬の新田軍に側面から攻撃をかけた。また、斯波高経の軍は山の手から会下山に陣する楠木正成の背後に回った。さらに、細川定禅が海路を東進し生田の森(神戸市三宮、御影付近)から上陸すると、義貞は退路を絶たれる危険を感じて東走し、楠木軍は孤立する。ここで誰も居なくなった和田岬から、悠々と尊氏の本隊が上陸した。楠木正成は重囲に落ち、奮戦するものの多勢に無勢はいかんともしがたく、楠木軍は壊滅。正成は弟の楠木正季ら一族とともに自害した。建武の新政にて功績を上げた武士で安芸国有力在庁官人の石井末忠も戦死した。新田義貞は西宮から軍勢を返すと、生田の森を背にして足利軍と激しく激突した。合戦は「新田・足利の国の争ひ今を限りとぞ見えたりける」との激しさに及んだ。合戦の規模からすると、新田と足利の合戦が湊川の合戦の本戦と呼べる。しかし、兵力差は歴然であり宮方は敗北、義貞は求塚において源氏重代の鬼切、鬼丸の太刀を振るって奮戦し、大将みずから殿軍を務めて、味方を都へと退却させた。この際、窮地に陥ったところ配下の小山田高家が駆けつけ、身替わりとなって義貞の命を救ったという。高家は秩父平氏・小山田氏の系譜を引く武将と見られ、建武3年3月に播磨で刈田狼藉を行い軍令違反に問われていたが義貞に赦免され、その恩義から義貞の身代わりになったという。ただし、この逸話は『太平記』古本には見られず、後世の加筆である可能性が考えられている。当時の神戸市付近は、現在よりも海面が高かったこともあり、今以上に海が六甲山地に迫っていて平地が狭く、大軍の行動には適さなかった。そのため、宮方は水軍を全く持っていなかったことが決定的な敗因となった。
○後世への影響
湊川の戦いや、正成が出陣前に嫡子の楠木正行を本拠地の河内国へ帰した「桜井の別れ」などは、勝ち目のない戦と知りながら天皇のために忠義を尽くして死んだとして講談などで人気を博し、戦前の皇国史観教育や唱歌などでも盛んに取り上げられた。 現在の兵庫県神戸市中央区には、正成・正季兄弟終焉の地として楠木一族を祭神に祀った湊川神社があり、徳川光圀自筆の「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑などが存在する。太平洋戦争末期の1945年3月21日の九州沖航空戦の際、神風特別攻撃隊第一神雷桜花隊、第一神雷攻撃隊(桜花とその母機である一式陸上攻撃機で編成された攻撃隊)は、九州南方沖に迫ったアメリカ海軍高速空母機動部隊に対する攻撃に出撃したものの、敵の艦上戦闘機部隊の迎撃により全滅した。この部隊の指揮官であった海軍少佐野中五郎は、鹿屋基地を出撃する際に、「これは湊川だよ(湊川の戦いのようなものだよ)」と嘆息したと言われている。また、正成は当初、京都から撤退し足利軍を京都に引き入れた後に挟撃する作戦を主張したのに対し、公家の坊門清忠がたびたびの動座(天皇の行在所への移動)は体面が悪いとしてこれを退け、結果として敗北に終わったことから、昭和の軍部における、内閣からの指揮を拒否する思潮の論拠のひとつともなった。

2013年4月26日金曜日

教興寺の戦い

教興寺の戦いは、永禄5年(1562年)5月19日、20日の両日に、河内高安郡教興寺村(現在の大阪府八尾市教興寺)付近であった三好長慶と畠山高政との合戦。別名は教興寺合戦。戦国時代における畿内での最大規模の会戦として有名である。
○概要
この戦いは、下克上で細川政権を崩壊させた新興勢力である三好政権と、細川氏と同じく室町幕府三管領の1つであり、長年対立してきた旧勢力の河内畠山氏が、畿内の覇権をめぐって争った一連の戦いの最終章、つまり最終決戦だった。新興勢力の智将三好長慶と旧勢力の勇将畠山高政が互いの勢力の全てを結集した会戦であり、長慶はこの戦いに勝利することで畿内の旧勢力の抵抗を排除できた。また、河内、和泉を勢力下におき、大和、紀伊へも勢力を浸透させることに成功したことで長慶は天下人となった。しかし、この戦いの中で一族の有力者であった三好政成、三好義賢などを失ったことから三好政権の前途に暗雲が見え隠れするようになった。
○合戦前の状況
河内守護として畠山氏は室町時代の初期より君臨してきたが、戦国時代になると隣国摂津をはじめ、阿波や淡路、讃岐などの守護であった長慶によって圧迫されることが多かった。また、畠山氏の当主畠山高政は勇将ではあったが、家中の状況は戦国の風潮があり、家臣団の統制も困難を伴った。その結果、隣国の戦国大名である長慶によって内政干渉を受けることも多く、家臣団筆頭である守護代を独自に決定することさえ長慶の干渉を受けることがあった。天文20年(1551年)5月5日に守護代で実質的に河内の国主といえた守護代遊佐長教が暗殺されると、河内は混乱を極めたが、翌天文21年(1552年)には長教の一族で、河内交野の有力国人の安見氏の養子に入っていた安見宗房(直政)が、長教を暗殺した萱振賢継などを討伐して台頭した。安見宗房は守護代となったが、守護の高政と宗房が対立すると、永禄2年(1559年)、高政は有力国人を味方につけた宗房に対抗するために三好長慶の援助を受けて宗房に対抗した。その際、宗房は居城の飯盛山城を長慶に攻略され、飯盛山城は長慶の居城となった。その後、永禄3年(1560年)には高政と宗房が和睦したが、それが長慶に畠山氏攻撃の口実とされた。高政は国人領主の統制を整え、宗房や湯川直光などの有力諸将を纏め上げ、長慶に対抗した。永禄4年(1561年)、そこへ近江の六角義賢(承禎)から高政に長慶挟撃の軍事同盟の提案がなされた。背後には室町幕府の権威回復を謀る13代将軍足利義輝などの思惑もあった。新興勢力の三好氏に対して旧勢力の六角氏・畠山氏が反撃にでたといえる。
○合戦までの経過
永禄4年(1561年)7月28日 六角義賢、将軍地蔵山に2万の軍勢で布陣。
永禄4年(1561年)11月24日 将軍地蔵山の戦い(六角義賢対三好義興)。六角方の勝利。
永禄4年(1561年)12月25日 三好政成の河内三箇城が畠山方に奇襲を受けて落城。
永禄5年(1562年)1月10日 六角義賢と三好義興が京都で対陣。
永禄5年(1562年)1月22日 三好義興、松永久秀、将軍足利義輝に年賀を述べる。
永禄5年(1562年)2月23日 反三好、親畠山・六角の国人一揆が大和で起こる。
永禄5年(1562年)2月26日 六角義賢の軍勢、大和の国人一揆に呼応する出動を行う。
永禄5年(1562年)3月5日 畠山高政が総大将となり旗本を率い、紀州の湯川直光の率いる湯川衆と、雑賀・根来衆を中核にして、
河内の諸将を動員して久米田の戦いで三好長慶の弟の三好義賢(物外軒実休)ら阿波衆・淡路衆・讃岐衆を中核とする三好軍を撃破。
三好義賢を討ちとり、意気盛んとなる。
永禄5年(1562年)3月6日 三好軍の敗報と三好義賢の討死が飯盛山城の三好長慶、京都に布陣中の
三好義興、松永久秀に伝わる。三好義興、松永久秀らは山崎城に撤退。
勝竜寺城に三好方の今村慶満が入城。西岡に池田長正、松山新介が布陣。
永禄5年(1562年)3月7日 六角義賢軍が入洛。三好義興、松永久秀の軍勢は山崎城に移動し、六角軍の迎撃体制をとりつつ、畠山軍に対応すべく布陣。
永禄5年(1562年)3月9日 畠山軍に大和の諸将(澤房満、秋山教家、芳野民部大輔らの宇陀郡の宇陀三将、片岡氏、箸尾氏、筒井氏、島氏、井戸氏など)の軍勢が参陣し合流。
永禄5年(1562年)3月10日 三好義興、松永久秀が摂津鳥飼(鳥養)に布陣し、摂津の国人領主の能勢頼道(または能勢頼幸)、塩川長満、伊丹親興らに参集するように命じた。
また、一度帰郷した池田長正にも再出陣を命ず。
永禄5年(1562年)3月11日 丹波の内藤宗勝、摂津の有馬村秀らに参集を命じた。
永禄5年(1562年)3月29日 畠山高政の軍勢が南河内の三好方の諸城を攻略し終え、高野街道を北上しはじめ、三好長慶の居城、飯盛山城に向けて進撃を開始。
永禄5年(1562年)4月5日 畠山高政の軍勢が飯盛山城を包囲し、周辺の三好方の出城の攻略を開始。
永禄5年(1562年)4月11日 畠山高政の軍勢が飯盛山城の周辺の城を攻略し終える。
永禄5年(1562年)4月14日 池田長正、伊丹親興らの摂津衆が鳥飼の三好義興、松永久秀の元に参集を終える。
永禄5年(1562年)4月15日 内藤宗勝、有馬村秀らも参集した。
永禄5年(1562年)4月17日 畠山高政の軍勢、2度目の総攻撃を行う(1度目がいつであったかは不明、一説に4月5日)。
永禄5年(1562年)4月25日 六角義賢の軍勢が停滞。畠山高政が督促。
永禄5年(1562年)5月10日 久米田の戦いで敗走した、讃岐衆、阿波衆、淡路衆などもこの頃までに随時参集し、態勢を整え終える。
永禄5年(1562年)5月14日 三好義興、松永久秀、三好康長、三好政康、三好長逸、安宅冬康、十河存保の軍勢が飯盛山城救援に出撃。号して5万ともいう大軍であったという。
永禄5年(1562年)5月15日 畠山高政の軍勢、飯盛山城の包囲を解き、援軍を迎撃するために後退。高野街道を南下。
永禄5年(1562年)5月16日 三好長慶の篭城の軍勢と救援の軍勢が合流。
永禄5年(1562年)5月17日 三好長慶の軍勢と畠山高政の軍勢が教興寺畷付近で対陣。
永禄5年(1562年)5月18日 安見宗房や湯川直光が謀反との流言が広がる。
○教興寺の戦い
・兵力
兵力的には久米田の戦いとは異なり、態勢を整えなおした三好方が優勢となった。当初、畠山方が三好長慶の居城の飯盛山城を攻撃した時点では、畠山方の兵力が三好方を圧倒したが、三好義興らが摂津の国人や丹波の国人に檄を飛ばして終結させたために劣勢を挽回し、教興寺で両軍が対陣する時点では逆に三好方が優勢となっていた。ただし、畠山方に参戦していた雑賀・根来衆の火縄銃4000丁が三好方の脅威であった。
三好方 60000余 摂津国人衆:25000余 丹波国人衆:7000余 山城国人衆:300余 播磨国人衆:500余 淡路国人衆:200余
讃岐国人衆:7000余 阿波国人衆:5000余 譜代・旗本:5000余 一門衆:10000余
畠山方 40000余 湯川衆:6000余 雑賀衆:3000余 根来衆:1000余 湯浅衆:1000余 紀伊国人衆:8000余
河内国人衆:7000余 大和国人衆:8000余 宇陀三将:3000余 和泉国人衆:500余 その他:500余
譜代・旗本衆:2000余
○指揮系統
指揮系統に関しては三好方が各部隊(各国人衆)の指揮官に一族を配置して、総大将三好長慶の命令が伝わりやすい編成となっているのに対し、畠山方は国人衆の旗頭や独立した国人領主が各自で参加する編成であったために、全体の指揮系統が一元化されていない。経過をみると、明らかに三好方が先攻し、それに対して畠山方が対応するという図式となっており、戦場で指揮系統が一元化されていた三好方は先手を取り、指揮系統が一元化できていなかった畠山方は後手に回ったと思われる。

2012年6月10日日曜日

天王寺の戦い

天王寺の戦いは、石山合戦の一環として天正4年(1576年)に行なわれた織田信長と一向一揆との戦いである。天王寺砦の戦いともいう。
○発端
足利義昭を擁立し上洛を果たした織田信長は、上洛早々堺と石山本願寺に法外な矢銭を要求するなど、畿内の支配基盤の確立に努めていた。堺は信長と三好氏と結んだものの敗れ、服従を余儀なくされる。信長は敵対する三好氏を討つため、石山本願寺のある摂津国に軍を進めたため、堺の二の舞となることを恐れた本願寺は危機感を強め、元亀元年(1570年)9月、顕如は織田信長との対決を決意した。これが石山合戦の始まりである。本願寺軍と織田軍は一進一退を繰り返したが、顕如の義兄武田信玄の病死や浅井長政・朝倉義景・長島一向一揆滅亡などで次第に追いつめられていった。そんな中、天正4年(1576年)2月、足利義昭の呼びかけに応じて毛利輝元が信長包囲網の一翼に参加し、本願寺に兵糧援助を始めた。これが顕如を強気にして、畿内の信徒に動員令を出して5万の兵力をかき集めた。このため、諸々の事情から停滞していた本願寺と織田家の戦闘が再燃することとなった。
○戦況
信長は本願寺の挙兵に危機感を強め、佐久間信盛・明智光秀・原田直政・細川藤孝・筒井順慶・中川清秀・高山右近・荒木村重らを摂津方面に出兵させた。このとき、信長が光秀・藤孝宛てに送った書状が現存している。
其表(大坂表=石山本願寺)の麦悉く薙捨て候哉。猶以て油断無く申付くべき事専一に候。然して隙を明け候はば、大坂籠城候男女の事は相免ずべき候間、早々罷出ずべきの旨、口々に立札然るべく候。坊主以下用にも立ち候者をば、赦免すべからず候。其意をなすべく候也。
(本願寺周辺の麦を薙ぎ捨てて兵糧攻めに追い込み、助命を条件に信徒の内部分裂を策し、坊主は赦免せずに殺せとのこと)
4月14日、信長は、荒木村重には尼崎から海上を通って北野田に3箇所、明智光秀・細川藤孝らは南東の守口・森河内の2箇所に、塙直政は天王寺に1箇所それぞれ砦を築かせ、本願寺の包囲を強めようとした。一方、本願寺側は楼の岸・木津の2箇所に砦があり、難波方面への水路を確保していた。信長はこれを断つため木津砦を攻撃する事を決め、天王寺砦に佐久間信栄・明智光秀を入れ置いた。5月3日早朝、織田軍は木津に攻撃をかける。陣立ては先陣が三好康長・根来衆・和泉衆、2番手が塙直政・大和衆・山城衆である。しかし、楼の岸砦から本願寺清勢・約1万が討って出てきて、織田軍を包囲しつつ数千丁の鉄砲で銃撃を加えた(精強鉄砲隊の雑賀衆が味方していた)。塙直政の軍勢がこの攻撃を引き受けて数刻の間戦ったが、敵に囲まれ、一族の塙喜三郎・塙小七郎や蓑浦無右衛門・丹羽小四郎らとともに討ち死にした。本願寺勢は勢いに乗じて天王寺砦を包囲し、攻撃した。窮地に陥った光秀は、京都に滞在していた信長に援軍を要請した。
これを聞いた信長は諸国に動員令を出し、5月5日に100人の兵を率いて河内若江城に入った。しかし突然の命令だったため、兵力が集まらなかった。このときのことを、『信長公記』では次のように記している。
(信長は)五月五日、後詰として御馬を出だされ、明衣の仕立、僅か百騎ばかりにて若江に至つて御参陣。次日御逗留あつて、先手の様子をもきかせられ、御人数を揃へられ候といへども、俄懸の事に候間、相調はず、下々の者、人足以下中々相続かず、首々ばかり着陣候
? 『信長公記』
5月6日、信長は軍勢の到着を待ったが、なにぶん突然の出陣だったため、あまり兵力が集まらなかった。天王寺砦からは「あと3、5日さえ持ちこたえるのは難しい」とたびたび知らせてきたため、信長はこのまま眼前で味方を攻め殺させて面目を失っては無念と考え、わずかな手勢で本願寺勢を強襲することを決める。5月7日、信長は3000ほどの兵で本願寺勢1万5千に突撃した。陣立ては3段。先陣は佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝・若江衆、2番手は滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉一鉄ら、3番手は信長の馬廻りで、信長自身は先手の足軽に混じって指揮を取った。本願寺勢は多数の鉄砲で防戦したが、織田軍はこれに突っ込んで敵陣を切り崩し、天王寺砦の守備隊と合流した。この際、信長は敵の鉄砲を足に受けて軽傷を負った。合流されたとはいえ、本願寺勢は退却せず、陣形を立て直しつつあった。信長はそこへ再度攻撃かける事を決める。家老たちは多勢に無勢であるとして止めたが、信長は「今度間近く寄り合ひ侯事、天の与ふる所の由(いま敵が間近にいるのは天の与えた好機である)」と言い放ち、陣形を2段に立て直して突撃。本願寺勢を撃破し、更にこれを石山本願寺の木戸口まで追撃し、2700余りの敵を討ち取った。こうして織田軍の大勝で天王寺砦の戦いは幕を閉じた。信長は大坂の10箇所に付城を作るよう命じ、佐久間信盛・松永久秀らを入れると、6月5日に若江城に帰還した。
○影響と戦略
この戦いで大勝した織田軍は、摂津方面での陸戦での優位を確立した。以後、本願寺軍は討って出ようとはせず、徹底した籠城戦に持ち込んだのである。一時は第一次木津川口の戦いで毛利水軍が織田水軍に大勝して戦況が逆転しかけたこともあったが、天王寺砦の戦いで大損害を受けた本願寺軍は2度と陸戦に出ようとはせず、毛利水軍もやがて第二次木津川口の戦いで織田水軍に敗れて壊滅し、本願寺勢力の孤立化が決定的となることになる。織田信長は、常に敵勢力の内部分裂を策し、謀略が完成したところで敵を圧倒する軍事力で戦うということが通説となっている。しかし信長は弘治2年(1556年)の稲生の戦い、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦い、そしてこの天王寺砦の戦いの3度だけは敵に劣る兵力で戦い、いずれも勝利している。しかもこの3度は、いずれも信長自らが陣頭に立って戦っているのである。

瀬川合戦

瀬川合戦は、元弘3年(1333年)に行われた赤松則村(円心)を総大将とする後醍醐天皇軍と鎌倉幕府六波羅探題軍との戦い。
○開戦経緯
元弘元年(1331年)に後醍醐天皇が起こした元弘の乱以後、鎌倉幕府倒幕運動が盛んになり、護良親王の令旨を受けて播磨国で赤松則村が挙兵した。赤松則村は挙兵後、六波羅探題側の武将を次々と破り、元弘3年(1333年)に摂津国摩耶山に城を築城した。同年六波羅探題側の軍勢は2月11日に赤松軍を討伐するため、摩耶山麓に陣を構えるが赤松勢に破られた。28日、六波羅側は摩耶山麓に再度陣を構えるが、猪名川付近まで赤松方が攻め入り、赤松方は猪名川付近に停滞して六波羅方を待ち構えた。同年3月10日になると、六波羅方も猪名川付近に布陣し、両軍の睨み合いが続いたが、10日夜になると尼崎から上陸した四国の小笠原勢が赤松方に攻め入り、赤松方は敗走する事になる。
○開戦
『太平記』によると、赤松則村は四国の小笠原勢に敗走するが、赤松則祐の進言により、約3000騎の兵を率いて瀬川宿(現:大阪府箕面市)に陣を構えていた約23万騎の六波羅探題に夜襲をかけ、六波羅方を打ち破ったと書かれている。これを機に、赤松則村は赤松則祐の六波羅探題追撃の進言を聞き入れ、3月12日には山城国山崎に侵攻し、その後赤松方は六波羅方を攻め続け、同年に六波羅は鎌倉に敗走して元弘の乱は終結している。

2012年4月29日日曜日

白井河原の戦い

白井河原の戦いは元亀2年(1571年)8月28日に白井河原一帯で行われた戦い。池田氏の一家臣であった荒木村重が、摂津国内で勢力を拡大するために起こした戦いと考えられている。この戦いに勝利した荒木村重は、織田信長からも一目おかれる存在となる。
○開戦までの経緯
織田信長が上洛し摂津国に入国し、松永久秀が芥川山城で織田軍に与すると、松永久秀の家臣であった高山友照もそれに従った。高山友照は永禄11年(1568年)に摂津国三守護であった和田惟政より芥川山城を預けられ、国人から戦国大名に飛躍していったものと考えられている。戦国時代初期の永正の錯乱以降、摂津国は常に戦乱の地であり、織田信長の上洛以降は徐々に平定されていくとはいえ、この時はまだ一つにまとまっていなかった。永禄11年(1568年)8月の猪名寺の戦いは茨木重朝、伊丹親興連合軍と池田勝正軍の戦いであったが、その後の情勢は、茨木重朝を支援する和田惟政と、池田城から池田勝正を追いだした荒木村重と中川清秀の連合との対立へ変化し、元亀2年(1571年)8月、白井河原を挟んで両軍が対峙することとなった。この時、茨木重朝、和田惟政連合軍は約500騎で耳原古墳の西側の糠塚に陣どり、一方の荒木村重、中川清秀連合軍は郡山の北側の馬塚に約2500騎で陣取った。
○戦いの情況
未だ陣形が整わない茨木重朝、和田惟政連合軍から、郡山城城主郡正信が単身で、荒木村重、中川清秀連合軍の陣取る馬塚に出向き、「わが主人である茨木重朝、和田惟政は両名ともにわかに将軍の呼び出しで京にいっている。できれば大将が帰ってから戦端をひらきたい」と時間稼ぎをしようとした。和田惟政の子和田惟長の軍が後続し、高槻城には高山友照らも居たため、それらの戦力を加えるための時間稼ぎの行動ではないかと推察されている。しかしこの計略は見破られ、逆に戦闘が開始された。『陰徳太平記』によると、この時、郡正信は、大将の和田惟政に「多勢に無勢、これでは勝目は無い。大将は強いだけが能ではなく、可をみて進み、不可を見て退き、無事をもって利をはかるのが名将なのである」と進言したようである。しかし和田惟政はこの申し出を全く聞き入れず、『日本史』によると、200騎を引き連れて馬塚に突撃したようである。また『陰徳太平記』によると、進言を聞き入れてもらえなかった郡正信は、「ここに至り仕方なし」とし名馬「金屋黒」にまたがり敵陣を縦横無尽に大暴れしたが、荒木村重、中川清秀連合軍の武将山脇源太夫に討ち取られてしまった。『中川史料集』によると、荒木村重は「和田惟政の首を取ったものには呉羽台をやる」という陣礼を出し、中川清秀が見事、和田惟政の首を取り、名をあげたようである。『茨木市史』によると、この呉羽台というのは現在の池田市旭丘2丁目周辺ではなかったかとされる。この呉羽台の石高は300石-500石程度で、この土地が恩賞として与えられたと考えられている。また茨木市南耳原2丁目周辺には、和田惟政の墓と伝わる五輪塔がある。一方、中川清秀と和田惟政が激突している中、茨木重朝軍は手薄となった荒木村重の本陣に突進してきた。しかし『日本史』によると、山陰に隠れていた2000兵が茨木重朝軍を囲い込み、鉄砲衆300兵を駆使して落としいれた。それでも茨木重朝軍は奮闘し、最後には茨木重朝自身が荒木村重に傷を負わせるほど肉薄したが、荒木村重自身に討ち取られたとされる。司令官を2人とも失った茨木重朝、和田惟政連合軍の残兵は「主を討たれてどうして生き残れようか」と玉砕覚悟で討って出てほぼ全滅した。この時の様子を『陰徳太平記』では「白井河原は名のみにして、唐紅の流となる」と記している。後続する和田惟長の軍は、敗戦の報を知るや高槻城に引き返し、高山友照、高山右近親子と城の守りを固めた。
○戦後の影響
いに乗る荒木村重、中川清秀連合軍は茨木城を攻め落とした。また郡山城等も手中に収めると、高槻城を攻囲した。松永久秀、松永久通の親子も攻囲軍に加わり、『日本史』によると、高槻城の城下町を2日2晩かけてすべて焼き払い破壊したとされる。ここで宣教師ルイス・フロイスが助け舟を出した。当時、高槻城周辺にはキリスト教会があり、和田氏、高山氏の庇護を受けていた。フロイスは事の成り行きを見守っていたが、ここに至って、ロレンソ了斎を織田信長のもとに派遣し戦況を報告させた。自分の知らないところで戦が行われていたことを知った織田信長は、『尋憲記』によると、同年9月9日に佐久間信盛を使者として高槻城から撤兵を勧告した。しかし両軍は動かず、『言継卿記』によると、重ねて同年9月24日に明智光秀が1000兵を率いて調停に乗り出す。ここに至ってさすがの荒木村重も撤兵を決意したものと考えられている。その後、荒木村重は伊丹城に、中川清秀は茨木城に入り、それぞれ威勢を誇る。一方、和田惟長は高槻城主となったが、高山友照、右近親子と対立し、天正元年(1573年)荒木村重と通じた高山親子によって高槻城から追放された。
○補説
どのような経緯を経て8月28日に白井河原で両軍が対峙したかは、未だ解明されていない。しかし、茨木重朝、和田惟政連合軍が十分な戦力を整えないうちに戦端を開くことを強いられたのに対して、荒木村重、中川清秀連合軍は伏兵まで準備していた点から、荒木村重、中川清秀連合軍の側から仕掛けた戦いではなかったかと考えられている。
この戦いを境に、織田信長によって任命された「摂津三守護」(池田勝正、伊丹親興、和田惟政)は勢力を失い、荒木村重、中川清秀、高山友照、右近親子など、以後摂津国で活躍する武将が表舞台に登場してくる。戦国時代から安土桃山時代初期への、世代交代の戦いとも考えられている。
新屋坐天照御魂神社には、中川清秀が和田惟政の首を取ったと伝わる短刀が奉納されている。それには「長サ一尺五寸、幅一寸三分、太刀作名、奉謝、中川瀬兵衛、作平増盛」と記載されている。

2012年2月5日日曜日

鴫野古戦場跡

1614年の大阪冬の陣の際に大阪市城東区鴫野東のあたりで豊臣方と徳川方の激戦があったと言われているのがこの「鴫野古戦場跡」である。説にもよるため一概に言えないのだが、大阪冬の陣の際に鴫野・今福の付近で大きな戦があったことは事実である。地形的には旧大和川の支流が分流して、深田が多く大規模線j等には不向きだったらしい。そこで双方は銃撃戦で望み、合間に堤防上で遭遇戦を繰り返した。
この時大阪城側(豊臣方)は玉造を守っていた木村重成(冬の陣和睦のときに御勝山の徳川秀忠陣屋へ使者として派遣された)が初陣し、後藤又兵衛と共に今福や鴫野のあたりで奮戦したらしい。徳川方は予想外の抵抗に手を焼き、和睦に持ち込んだそうです。
所在地:大阪市城東区鴫野3丁目(城東小学校内)
JR片町線「鴫野」下車東約300M