2012年12月31日月曜日

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2012年12月30日日曜日

龍光寺

曹洞宗。河内鑑名所記によると、敏達天皇(572 ~ 585 年)の開基、その後頼朝が建立したが度々兵火にあい荒れていると記されている。また別の記録によると正保二年(1645)僧玄光が再興したとあるが無住のため荒廃。往時をしのばせる地名として付近に「土堂(つちんどう)」「無念堂」が残る。

龍眼寺

大阪府大東市にある高野山真言宗の寺院。
□龍眼寺について
虚空つき 衆生つき 涅槃尽きなば、わが願いもつきなん
□龍の伝説
その昔、天下が大干ばつとなり聖武天皇は行基に雨乞いの祈祷を命じました。 行基が賢明に祈願していると若い龍が現れ「私はあなたの佛恩に報いたいと思います。しかし竜の王は怒って私を殺すに違いありません。そのとき、きっ と雨が降るでしょう。」竜王の怒りにふれた若い龍は体を三つに裂かれてしまいましたが雨は大地を潤しすべての命がよみがえりました。 龍の体は頭、胸、尾に分かれて空から落ちてきました。 天皇は深く感銘しそれぞれに寺を建てたと伝えられます。胸の落ちたところが「竜間」となりました。(大東市の民話より)
□龍眼寺の周辺
当山は生駒山系のほぼ北側に位置し、大阪と奈良をつなぐ重要な道として栄えた竜間の地にあります。 西に東高野街道があり南北朝時代の楠木正行と高師直の四条畷の合戦の地として今も名残をとどめており、多くの史跡に囲まれた地域です。殊に「竜間」の地名にもなっている龍の伝説は大東市の民話として親しまれています。
□龍眼寺の由来
当山の開基、妙久法尼は四国巡錫の砌、虚空蔵菩薩様が現れ、「生駒の山に龍の住む山あり。供養すべし」と霊示をうけ、生駒の山に登りこの竜間の地にたどり 着きました。そこで一心に三七日(二十一日間)護摩供養を修していると不思議に水が湧き出て、光明に包まれた八面六臂の三寳荒神様が現れ、「龍の眼をもっ て世の中を見渡し、衆生の苦悩を救わん」と説かれました。このことより、寺号を龍眼寺と号し、虚空蔵菩薩様をご本尊に、また三寳荒神様を鎮守とするように なりました。 現在では「生駒の荒神さん」として親しまれ、商売繁盛、厄難除に多数のご参詣を得ています。
所在地:大阪府大東市龍間37-3

龍間神社

祭神は天忍穂耳命。本殿は春日造。由緒は不詳。燈籠には「延享元年」(1744 年)をみることが出来る。また龍間で生産されていた天然氷の記念燈籠もある。

役行者像

役行者は、奈良時代の修験者役小角(えんのおづぬ)のことである。葛城山で修行し、神通力をもつという伝説があり、修験者の祖とされている。飛翔に似た像は、「永禄十年三月七日」(1567 年)の銘あり、北河内最古。

延徳銘地蔵

舟型をもつ延命地蔵である。「延徳二年庚戌三月」(1490 年)の造像銘をもち、本市最古の石仏である。

一石二段六地蔵板碑

永禄十年(1567)二月二十三日の六斎日に六斎念仏の群集たちが、かれら自身と世の人々の供養のため建立したもの。

一石十三仏板碑

慶長十一年(1606)龍間の逆修講の人々が建立したもの。一枚石に死者の初七日から三十三回忌まで13 回の供養をしてくれる仏を刻んだもの。逆修というのは、生きている間に往生菩提を願い供養することで、生前に行うと没後のそれより7倍の効果があるという。

菅原神社

菅原神社は、堺市堺区にある神社である。通称「堺天神」。地元では「天神さん」とよばれ親しまれている。堺北組(大小路・竪川以北)の氏神社。
○祭神
菅原道真、天穂日命、野見宿祢を祀る。
○歴史
997年に天神社として菅原大神を奉祀する。
明治5年天神社を菅原神社と改める。
明治40年宿屋町の薬祖神社を境内末社の地主神社合祀し、そして明治41年神明町の神明神社・宿屋町の事代主神社・熊野町の熊野神社・泉北郡三宝村の附島神社を夫々合祀した。
また、戎之町の事代主神社・戎島町の恵比須神社・境外飛地末社を遷座合祀した。
○祭事
歳旦祭 - 1月1日
とんど祭 - 1月15日
節分祭 - 2月3日
初午祭 - 2月最初の午の日
ホタル観賞会 - 6月中の2日間
自然発生したホタルを人工飼育している。期間中には、2日間だけ神社の庭が無料で一般公開され「ホタル観賞会」が行われる(※詳細はHP参照)。ゲンジボタルとヘイケボタル、約1000匹が見物人を魅了する。
大祓・茅の輪くぐり - 6月30日
八朔祭(例大祭) - 9月13日14日(ふとん太鼓の宮入)
大祓 - 12月31日
○摂社
堺戎神社 - 戎之町・戎島町の町名の由来にもなった戎社二社を合わせ祀る。
薬祖神社
稲荷神社
○文化財
大阪府文化財「楼門」
○交通
阪堺電気軌道阪堺線 大小路駅
○所在地
大阪府堺市堺区戎之町東2丁1-38










方違神社

方違神社は、大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2丁2-1にある神社。近郷では「ほうちがいさん」と称され、方違え、方災除けの神として知られる。
○祭神
方違幸大神
天神地祇
素盞嗚尊
住吉大神
神功皇后
○概要
社伝では、応神天皇の時代に天神地祇ほか三座を祀り、方違大依羅神と号し、この社を方違宮と称したとされる。
社地は摂津、河内、和泉の境の三国山(現在は三国ヶ丘と称される)にあり、三令制国のいずれにも属さない地、方位のない地であるとして、古くから方位、地相、家相などの方災除けの神社として信仰を集めてきた。現在でも、転勤、結婚などでの転宅や海外旅行などの際に祈願する参拝者が多い。自分の在所からでかけていく先の方位についてのお祓いをしてもらい、清めの御砂を頂いて、自分の家の四方に撒く。
古くから方除けには当地の埴土を包んだちまきを奉ったことから、厄除守に御札のほか御砂、ちまきがある。
○交通機関
南海高野線堺東駅から東へ徒歩5分  JR阪和線堺市駅より西へ徒歩10分  阪神高速15号堺線 堺出口より車で5分
○所在地
大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2-2-1
○例祭
5月31日、9月中旬







石津神社

石津神社は、大阪府堺市堺区にある神社である。式内社石津太神社に比定される。石津太神社については、同市西区浜寺石津町の石津太神社も論社となっており、元々はどちらかが本社、どちらかが御旅所か分社であったと考えられている。両社とも八重事代主神(戎神)降臨の地として、「日本最古の戎宮」を称している。えびす神は一般的に耳が遠いとされており、石津神社では、本殿横に木槌で叩いて願い事を唱える板が設置されている。大祓の時期には茅の輪が備えられる。
○祭神
八重事代主神、大己貴神、天穂日神を主祭神とする。境内社に、野見宿禰を祀る宿禰神社と菅原道真を祀る天満宮がある。なお、明治時代に六所神社を合祀したため、同社の祭神であった誉田別神、伊邪那美神、白山比賣神、水分神、高野神、高?神も祀っている。
○歴史
社伝では、八重事代主神が五色の石を携えてこの地に降臨したとしており、そこから石津の地名ができたという。孝昭天皇7年8月10日に勅願により創建され、垂仁天皇の時代に天穂日命の子孫である野見宿禰を神主としたとしている。八重事代主神が携えた石は神社の前に埋められており、天変地異のあるときには地面から出て浮き上がると伝えられる。蛭子命が漂着されたと伝承される御旅所は石津川北岸の元海岸の地にある。
○所在地
大阪府堺市堺区石津町1丁15-21
○例祭
10月初旬

開口神社

開口神社は、堺市堺区にある神社である。通称「大寺」。地元では「大寺さん」とよばれ親しまれている。堺南組(大小路・竪川以南)の氏神社。式内社で、旧社格は府社。
○祭神
塩土老翁神、素盞嗚神、生国魂神を祀る。塩土老翁神は住吉大社の住吉三神を一つにして神徳を現した神とされ、「住吉の奥の院」と呼ばれる。
○歴史
社伝には、神功皇后の三韓征伐の帰途、この地に塩土老翁神を祀るべしとの勅願により創建されたと伝える。延喜式神名帳に和泉国大鳥郡24座のうちの一社として記載されている。932年(承平2年)には神階が正五位上まで昇った。古代から中世にかけて、当社付近は開口村と呼ばれていた。1113年(天永4年)、原村の素盞嗚命、木戸村の生国魂命を合祀し、「開口三村大明神」と呼ばれ、崇敬されるようになった。1873年(明治6年)に郷社に列し、1902年(明治35年)に府社に昇格した。1945年(昭和20年)7月10日未明の堺空襲により本殿と三重塔を含め悉く焼失した。現在の社殿は1961年(昭和36年)の再建である。通称の「大寺」はかつて存在した神宮寺の念仏寺に由来する。念仏寺の開山は744年(天平16年)で行基による。山号は密乗山。平安期には空海や空也とゆかりがあり、密教や浄土教の道場にもなって活況を呈したことから、大寺の通称が定着するに至った。
○祭事
元旦祭 - 1月1日
とんど祭 - 1月15日
節分祭 - 2月節分
初午祭 - 3月下旬午の日
さつき祭 - 5月5日
大祓・茅の輪くぐり・流鏑馬神事 - 6月30日
八朔祭(例祭) - 9月中旬(堺最古の歴史を持つふとん太鼓がかつぎだされる)9月12日に近い金~日曜日
三宝荒神祭 - 11月28日
○境内外社
豊竹稲荷神社
白髭神社
松風神社
金比羅神社
塞神社(庚申さん)
竈神社(荒神さん)
厳島神社(弁天さん)
舳松神社
北辰神社
楠本神社
三宅八幡神社
少彦名神社
恵比須神社(戎さん)
大国魂神社(大黒さん)
神明神社
豊受神社
熊野神社
薬師社
舟玉神社
菅原神社
産霊神社
兜神社
○文化財
重要文化財「大寺縁起」 土佐光起筆
重要文化財「短刀銘吉光」
○交通
阪堺電気軌道阪堺線 大小路駅
阪堺電気軌道阪堺線 宿院駅
○所在地
大阪府堺市堺区甲斐町東2丁1-29





宿院頓宮

宿院頓宮は、大阪府堺市堺区にある頓宮・神社である。
○由緒
住吉大社の御旅所として設置され(年代不詳)、住吉の「宿居」から転じて「宿院」と呼ばれるようになったと言われる。古くから夏の大祓日に住吉大社から神輿を迎え、境内にある飯匙堀で「荒和大祓神事」が行われてきた。明治以降は大鳥大社からも神輿の渡御が行われるようになり、国境の町「堺」を象徴する、摂津国和泉国両一宮の頓宮となった。現在は、7月31日に大鳥大社から、8月1日に住吉大社から神輿の渡御が行われている。神社としては、大正期に境内へ遷座された「波除住吉神社」と「大鳥井瀬神社」の二社がある。堺大空襲による焼失以前は二社殿が並んでいたが、以降は一社殿にて合わせ祀られている。
○祭神
住吉大神(底筒男命、中筒男命、表筒男命、息長足姫命)
大鳥井瀬大神(弟橘媛命)
○歴史
年代不詳、住吉大社の御旅所となる。
706年(慶雲3年)、大鳥井瀬神社創建。
式内社。大鳥五社の一社。大鳥郡蜂田郷平岡もしくは堀上に鎮座。
1816年(文化13年)、波除住吉神社創建。
旧堺港の海上守護として、住吉大社の分霊を勧請した。当初は吾妻橋通(現在の堺駅付近)に鎮座。
1841年(天保12年)の勧請とする説もある。
1860年(万延元年)、波除住吉神社を旧堺港小波止へ遷座。
ただし、1851年(嘉永4年)の『嘉永改正堺大絵図』において、小波止に「新住吉」の記載が既に見られる。
現在の北波止緑地。菅原神社の御旅所の隣に神社跡碑が建てられ、対岸の大浜公園にあった龍女神像が2000年(平成12年)に移設された。
1875年(明治8年)、大鳥大社の御旅所となる。
1878年(明治11年)、大鳥井瀬神社を大鳥大社境内へ遷座。
1921年(大正10年)、波除住吉神社を宿院頓宮境内へ遷座。
1922年(大正11年)、大鳥井瀬神社を宿院頓宮境内へ遷座。
1945年(昭和20年)、堺大空襲により社殿焼失。
1949年(昭和24年)、社殿再建。
御用材は廣田神社から譲られたものを使用。
この間、フェニックス通り(宿院通り)の貫通・拡幅等によって、神域が六分の一程度に縮小された。以前の神域は東西84間・南北60間(旧間)で、フェニックス通り北側の大町にも及んでいた。フェニックス通りの分離帯に「住吉大鳥両大社頓宮」と書かれた石柱(山之口筋交差点)や旧宿院跡碑が建てられており、かつて神域であったことを表している。
○祭事
歳旦祭 - 1月1日
桜祭り - 4月上旬
大鳥大社渡御祭 - 7月31日
住吉大社渡御祭・荒和大祓神事 - 8月1日
除夜祭 - 12月31日
○境内
本殿
拝殿
飯匙堀 - 海幸山幸の神話に登場する潮干珠を埋めたところとされ、雨水が溜まらないと言われる。
兜神社旧蹟碑 - 現在は開口神社へ合祀されている。
白夜の兎群像
堺ふれあいサロン
○交通
阪堺電気軌道阪堺線宿院駅
○所在地
大阪府堺市堺区宿院町東2丁1-6





日部神社

日部神社は、大阪府堺市西区草部にある神社である。式内社で、旧社格は村社。
○祭神
彦坐王・神武天皇・道臣命を主祭神とする。彦坐命は日下部首氏の祖神である。日下部首氏はこの一帯を拠点としていた豪族で、一族には浦島太郎もいたという。当社は明治時代に鶴田村大字草部字輪之内にあった日部神社、同字寺山の八坂神社、大字原田の熊野神社、大字上の菅原神社を合祀したもので、社名と主祭神は式内社である旧日部神社のものを採用している。他に旧八坂神社の素盞嗚尊、旧熊野神社の伊弉冉尊、旧菅原神社の菅原道真を合せ祀る。
○歴史
日部神社の創建の由緒は不詳であるが、神武天皇が東征の際に上陸し、長髄彦と最初の戦いをした「日下の蓼津」はこの一帯であると『古事記伝』に記されている。明治44年に八坂神社・熊野神社・菅原神社が日部神社に合祀され、旧八坂神社の社地に遷座した。
○境内
社地および本殿・神門は旧八坂神社のものである。本殿前の石燈籠に製作日の記録として「正平二十四年卯月八日」と彫られていることから本殿は南北朝時代から室町時代にかけての建造とみられ、本殿・石灯籠は大正6年(1917年)、重要文化財に指定された。本殿の蟇股には、さまざまな彫刻が施されてある。拝殿は旧菅原神社のものを移築したものである。日部神社の旧社地は現在地の南300mの所で、道臣命が埋葬されていると伝えられる御山古墳の側にある。遷座後の旧社地は大正初年に民間に買却され、現在は住宅地となっている。
○祭事・年中行事
7月13日:夏祭
10月5日:五穀豊穣を祈願し地車祭がとり行われている。
○所在地
大阪府堺市西区草部262

大鳥大社

大鳥大社(正式名:大鳥神社)は、大阪府堺市西区鳳北町にある神社。式内社(名神大社)、和泉五社の一つで和泉国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は別表神社。埼玉県の鷲宮神社とともに全国の「大鳥信仰」の本社とされる。
○社名について
「大鳥大明神」「大鳥大神宮」などともいわれた。現在の正式な社名は大鳥神社であるが、一般には大鳥大社の社名の方が広く使用されている。
○概要
日本武尊は西征して熊襲を平定し、東征して東国を平定したが、伊吹山で病に倒れ、伊勢国能褒野で薨去する。遺体はその地に葬られたが、その陵墓から魂が白鳥となって飛んでいき、大和国琴引原で留まり、また飛び立って河内国古市に降りたが、最後に大鳥の地に舞い降りたので、社を建てて祀った。これが大鳥神社の始まりだとされる。神域は千種森と呼ばれ、白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったと言われる。本殿は大鳥造という独自の古形式を保っている。日本武尊を守護神として信仰していたが、「おとりさま」と称されて開運・商売繁盛の神と信仰され、11月酉の日には熊手の酉の市が開かれる。
○祭神
日本武尊
大鳥連祖神
元来の祭神は大鳥連の祖神であるらしかったが、一時期天照大神が祭神とされるようになった。「和泉国大鳥五社大明神并府中惣社八幡宮縁起」によると本地仏は釈迦如来となっている。その後、日本武尊が祭神と考えられるようになり、これが定着した。これは大鳥神社の「大鳥」という名称と日本武尊の魂が「白鳥」となって飛び立ったという神話が結び付けられたために起こった習合であると考えられる。以来、長い間にわたって日本武尊を祭神としてきたが、明治29年(1896年)に政府の祭神考証の結果を受け内務省の指示により、大鳥連祖神に祭神を変更した。その後、昭和36年(1961年)に大鳥連祖神にくわえて、日本武尊を祀った。大鳥連は中臣氏と同じく天児屋命を祖神としていたので、大鳥連祖神は天児屋命ということになる。
※各神の祭祀については、大鳥氏が単に一宮の神官であったというには、後世の倭武伝説を差し引いたにしても、その変遷ぶりには謎めいた部分も残っており、大鳥連の、領主あるいは神官という職業以外の何らかの役割を古代豪族社会で担った可能性も含め、今後も検証が必要と思われる。
○歴史
大鳥連が祖神を祀ったのが始まりだと考えられている。弘仁14年7月4日(ユリウス暦823年8月14日)に積川神社とともに朝廷の祈雨の奉幣を受ける(『日本後紀』)。承和9年10月9日(ユリウス暦842年11月15日)に和泉国泉穴師神社・積川神社とともに神階昇授を受け、従五位下から従五位上になる(『続日本後紀』)。貞観元年(859年)1月27日には全国諸神とともに神階昇授を受け、従五位上勲八等から従四位下になり、同年9月8日に朝廷より風雨のため、畿内諸神とともに奉幣を受ける(『三代実録』)。貞観3年(861年)に紀伊国御船神とともに神階昇授を受け、従三位となる(『三代実録』)。延喜22年(922年)の「大鳥大神宮五社流記帳」では神階は正一位勲八等とあり、祭神が天照大神となっている。延長5年(927年)の『延喜式』神名帳では、和泉国唯一の名神大社となっている。別当寺は大鳥山勧学院神鳳寺。開山は和銅元年(708年)で行基によると言われる(『行基年譜』)が、天平12年(740年)とする説もある。鎌倉時代初期には、同郡の式内社の大鳥美波比神社・大鳥鍬靫神社・大鳥井瀬神社・大鳥濱神社とともに「大鳥五社」を形成する。また南北朝時代よりは泉穴師神社・聖神社・積川神社・日根神社とともに「当国五社大明神」を形成するにいたる。中世には和泉国一宮として国衙などから崇敬を受けるが、一方、従来、大鳥神社を祀ってきた大鳥氏は主導権を国衙勢力などに奪われて衰退していく。織田信長は天正3年(1575年)に所領1300石を安堵している。中世の兵火により、神鳳寺とともに焼失するが、片桐且元を奉行とした豊臣秀頼の一連の社寺造営で慶長7年(1602年)に再建されるが、大坂の役で十三重塔を残して再び灰燼に帰した。その後、寛文2年(1662年)に幕命により堺町奉行石河利政が大鳥神社及び神鳳寺を再建した。元禄14年(1701年)には幕命により柳沢保明が修営した。延宝-元禄年間になると、快円恵空が神鳳寺に入って勢力を拡大し、柳沢氏の保護を受けたこともあって、神鳳寺は全盛期を迎える。神鳳寺は「真言律宗南方一派」の本山となり、畿内を中心に76寺もの末寺を擁した。神鳳寺の繁栄を影に大鳥神社は衰退ていたが、幕末より国学の発展に連動して神社復権を求める声が高まった。社家である大鳥氏は断絶し、その後は和泉総社の神職が祭祀を引き継いだ。明治になると神仏分離により神鳳寺は廃寺となり、末寺であった光明院が仏像・記録などを引き継いだ。近代社格制度のもと、明治4年(1871年)5月に官幣大社に列格された。明治9年(1876年)の政府の祭神考証の結果を受け、政府は大鳥連祖神(天児屋命)に祭神を変更した。神社側の反発があったが、明治29年(1896年)の内務省社寺局の通達により変更が確定した。神社側は祭神の日本武尊への復帰をたびたび求めたが、大鳥連祖神に加えて日本武尊を祀ることに至ったのは、国家管理を離れた戦後の昭和36年(1961年)になってからだった。 明治38年(1905年)8月15日、落雷により社殿は焼失し、明治42年(1909年)12月に再建されたのが現社殿である。戦後は神社本庁に所属し、別表神社に指定されている。
○摂末社
・境内摂社
大鳥美波比神社 - 式内社。大鳥五社の一社。明治12年(1879年)に境内に遷座した。明治42年(1909年)に式内社押別神社・菅原神社4社を合祀した。
祭神:天照大神
配神:菅原道真、押別命
・境外摂社
大鳥北濱神社 (堺市西区浜寺元町3丁) - 式内社。大鳥五社の一社、大鳥鍬靫神社。明治6年(1873年)に改称。
祭神:吉備穴戸武媛命
大鳥井瀬神社 (堺市堺区宿院町東2丁) - 式内社。大鳥五社の一社。大正11年(1922年)に住吉大社と大鳥大社の御旅所である宿院頓宮に遷座した。
祭神:弟橘姫命
大鳥羽衣濱神社 - 大阪府高石市羽衣5丁目。式内社。大鳥五社の一社、大鳥濱神社。羽衣濱神社とも。慶雲3年(706年)に鎮座した。
祭神:両道入姫命、井戸守稲荷大明神
○主な祭事
例祭は8月13日にとり行われる。増祀記念大祭は3月15日、4月13日には「花摘祭」、6月中旬には「菖蒲祭」が行われ、7月31日には宿院頓宮への「渡御祭」、10月第1土曜日にはだんじり宮入り(鳳だんじり祭り)が行われる。酉の市神事は、11月酉の日に行われる。毎月2日、12日、22日は「にいび」と呼ばれる縁日が開催されている。
○現地情報
・所在地
大阪府堺市西区鳳北町1-1-2
・交通アクセス(鉄道)
JR西日本阪和線 鳳駅 (小栗街道を北上、徒歩約5分)
南海本線 浜寺公園駅 (徒歩約15分)
阪堺線 浜寺駅前駅 (徒歩約15分) - 平日のみ南海バス「91 西区役所前 行」が運行(本数が少ないので事前に確認のこと)

石津太神社

石津太神社は、大阪府堺市西区にある神社である。旧社格は村社。同市堺区石津町の石津神社ととも、式内小社「和泉国大鳥郡 石津太神社」の論社であり、どちらも「日本最古の戎社」を称している。
○祭神
蛭子命・八重事代主命・天穂日命(石津連の祖神)を主祭神とし、天照大神(靱大神宮)を配祀する。神社合祀により建御名方富命を合わせ祀る。
○歴史
この地は元は浜辺であり、伝承では、伊奘諾命・伊奘册命によって流された蛭子命がこの地に漂着し、携えてきた五色の神石を置いたという。蛭子命が漂着した場所を「石津の磐山」、「五色の石」を置いた場所を「石津」という。鳥居の前の交差点に「五色の石」を地下に埋めたとされる場所があり、その場所を示す地上部分に石が置かれている。孝昭天皇7年8月10日、勅命により蛭子命を祀る社殿を造営し、八重事代主命・天穂日命を合祀した。平安朝以後、朝廷の崇敬を受け、幾度の御幸の記録もある。かつては広大な社領を有していたが、元和年間以後、数度の兵火により社殿を焼失した。豊臣秀吉が大阪城を築城した際、裏鬼門の鎮守神として崇敬し、木村重成は社殿復興のために黄金を寄進した。明和5年、神札頒布について係争していた西宮神社(西宮戎)と和解した。全国に崇敬者があり、明和6年には江戸湯島天神、坐摩神社で出開帳をしている。石津川北岸の大阪湾手前の河口には、葦舟に乗った蛭子命(戎大神)が漂着したと伝えられる場所があり、現在は御旅所として祀られている。明治5年(1872年)に村社に列格した。明治41年、近隣の諏訪神社を合祀した。鳥居の前には紀州街道が南北に走っている。
○社殿
江戸時代前期に造営された本殿が二殿あり、蛭子命・八重事代主命・天穂日命を祀る北殿は一間社流造、建御名方富命・天照大神を祀る南殿は一間社春日造である。宝暦年間に造営された両殿に共有する割拝殿は入母屋造となっている。境内末社に磐山稲荷社、八幡神社、白蛇社がある。境内には、蛭子命が腰を掛けたと言われる大石が存在する。蛭子命が漂着されたと伝承される御旅所は石津川北岸の元海岸の地にある。鳥居の扁額は三条実美が参拝時に書いたとされている。
○祭事
毎年、12月14日には「泉州の奇祭」と言われる「ヤッサイホッサイ祭り」と呼ばれる火祭が行われる。これは、往古蛭子命が漂着した際、付近の住民が篝火を炊いて迎えたと言う古儀に因む。108束の薪を参道に積んで点火し、戎神に火葬した神人を担ぎ、火渡りを3度繰り返し社地を3周する際に「やっさいほっさい」と言う掛声をする。
○所在地
大阪府堺市西区浜寺石津町中4丁12-7
○例祭
10月5日に近い土曜日
○主な神事
十日戎、初午、八幡祭、やっさいほっさい

野々宮神社

野々宮神社は大阪府堺市中区にある神社。深井だんじり祭りで有名。
○祭神
素盞嗚命
火産霊命
菅原道真公
火産霊命に因む発火と鎮火の神として「火の宮」とも称され、菅原道真公からは文字の神ともされる。
○由緒
創建は不詳だが約400年前と言われる。和泉国大鳥郡深井荘野々宮香林寺の略縁起によると、天正年間に細川氏の兵火に遭い、春日社領であった奥山(現深井清水町)に転座し、再建されたとされる。明治4年(1871年)までは中村(現深井中町)の香林寺(行基建立49院の1院)と併存していたが、神仏分離で同寺と離れ、翌5年に郷社に列した。1万平方メートルの境内には、稲荷社、春日社、八幡社、厳島社があり、明治42年に畑山の愛宕神社、東山の厳島神社、百済(現北条)の東山神社、八幡神社、楢葉の八阪神社、高揚(現深井北町)の菅原神社、八田(現東八田)の菅原神社を合祀した。
○神事
例祭では深井だんじり祭りも併せて行われ、だんじりの宮入等で賑わう。宮入は深井地域のほか、隣接する久世(くぜ)地域も行う。また、祭神(火産霊命)に因んで毎年10月5日と、12月12日に火祭りの神事が行われる。
○末社
稲荷神社、春日神社、八幡神社、厳島神社の4末社があり、伊勢神宮の遙拝所も設置されている。
○境内
境内には堺市指定保存樹林「常陵郷(とこはか)の森」がある。神紋は桜であり、野々宮神社に宮入する各町の紋も、この桜の紋を基本にデザインされている。
○所在地
大阪府堺市中区深井清水町3889番地
●深井だんじり祭り
深井だんじり祭りは、大阪府堺市中区深井周辺で行われる野々宮神社の秋祭り。
○概要
深井地域には各自治会に全部で8台のだんじりがあり、泉北1号線(大阪府道34号堺狭山線)を境に2つの地区に分かれる。
東部連合:深井水池町、深井東町、深井沢町、深井畑山町
西部連合:深井清水町、深井中町、深井北町、深井中町西
深井連合には平成10年まで深井阪和町が参加していたが、同年の事故以来、深井阪和町はだんじりの曳行を休止し平成23年に解体廃絶となった。
毎年10月の第一土曜日と翌日曜日(平成24年度は10月6日・7日)に行われる。2日間の祭礼には、早朝午前6時頃から一斉に各町のだんじりを各々のだんじり小屋から曳き出し、準備を始める。初日は「宵宮(よいみや)」、2日目は「本宮(ほんみや)」と呼び、大阪府堺市中区深井清水町にある野々宮神社に宮入する。両日とも深井地域内を曳行(えいこう)し、夜間は午後7時頃から午後10時頃までだんじりに100~150個ほどの提灯が装飾された「灯入れ曳行(ひいれえいこう)」を行う。また、本宮の2週間前の日曜日(平成24年度は9月23日)には、祭礼に先立って「試験曳き」と呼ばれる、曳行コースの路面状況確認や、だんじりの走行状態確認・調整が行われる。東部連合、西部連合共に、自地区内でそれぞれ東部連合パレード、西部連合パレードを行う。泉北高速鉄道深井駅周辺での八町連合パレードも行われ、駅前の下り坂を一気に駆け下りた後の、右方向へのやりまわしは最大の見せ場(通称「りそな前」)であり、多くの観客を集める。祭礼時には、管轄署である、堺南警察に曳行許可を取って曳行され、周辺道路は通行禁止、または交通規制が敷かれる。
○安全曳行祈願
試験曳きや宵宮の日の早朝には、野々宮神社にて神前に榊と玉串を奉納し安全曳行祈願を行い、御神酒を授かる。曳行関係者全員が出席する。
○出発式
出発に際して行われる。町内会長を始め、曳行責任者などが挨拶をし、安全曳行祈願で授かった御神酒で乾杯する。
○やりまわし
だんじり祭り最大の特徴にして見せ場である「やりまわし」は大阪弁の「やって回す」が転訛したものと「槍を廻す」を言い換えたものとがあると言われる。京都の祇園祭の鉾では、車輪の下に、割った竹を敷いて滑らせる「辻まわし」を行う。祇園祭発展系の、飛騨高山祭の山車は、「戻し車」という進行方向に対して横向きに付けられた車輪を使い、変則の三輪となって角を曲がる。だんじり祭りでは、慎重に角を曲がるのではなく、走りながら直角に向きを変える。その迫力とスピードにおいては、だんじり祭りを上回るものは無いと言える。だんじりを前へ曳く青年団、旋回のきっかけをつくる前梃子(まえでこ・まえてこ)、舵取り役の後梃子(うしろでこ・うしろてこ)、後梃子に合図を送る大工方(だいくがた)、それぞれのタイミングを合わせるのが難しく腕の見せどころである。転倒や衝突の事故が最も多い場面であり、高度な技術を要する事から、速く正確に「やりまわし」を行うには、それぞれの持ち場を受け持つ各団体の息が合うことが重要となる。このため、多くの地域や地区においては、夜間の灯入れ曳行時には合図の視認性が低いことや、路面の状況を把握しにくい等の理由から「やりまわし」を行わない。しかし、深井地区のだんじり祭りでは、夜間の灯入れ曳行時にも、「やりまわし」が行われ、宵宮の夜八町連合パレードは非常に有名で多くの観客が訪れる。他の地域、地区にはみられない深井だんじり祭りのみの特徴である。
○セレモニー
パレードの開始前に各町の青年団によって行われるセレモニー。数百発の大型クラッカーを使うなどしてパレードの雰囲気を盛り上げる。
○仕舞太鼓
祭りを終え、だんじりを小屋へしまうときに行われる普段とは違った太鼓の打ち方。夜遅くではあるが、2日間の嵐のような祭りを終えた人たちの喜びと別れがある。

陶荒田神社

陶荒田神社は、大阪府堺市中区に所在する神社で、和泉国大鳥郡の式内社。須恵器(日本の陶器の祖)の発祥地に鎮座しており、別名、陶器大宮と呼ばれている。陶器のえびす様として有名で、1月の初戎祭には、技術・製造業・商売にかかわる業者達でにぎわう神社である。
○祭神
高魂命、劔根命(つるぎねのみこと)、八重事代主命、菅原道真公
摂社
戎殿 「八重事代主命」
弁天社 「市杵嶋姫命」
山田神社 「活玉依姫命」 (太田田根子命)
太田神社 「太田々弥古命」 (太田田根子の母)
玉の緒神社 「天御中主命」
○由緒 [編集]崇神8年(紀元前90年)、崇神天皇により、陶邑の大田の森(現在地)に住む太田田根子が神主として選ばれた。彼の祖霊を祀る目的で創建された神社が、当神社である。創建年は崇神8年前後であろうとされている。
当時大規模な疫病がはやり、国土が荒廃した。ある夜、大物主の神が崇神天皇の夢枕に立ち、太田田根子を神主に立てて自分を祀るなら、病を治めようと告げた。天皇は、茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえむら)に太田田根子を探しあて、奈良の三輪山の神主として選び、大物主神を祀らせた。
名前の由来は、同じ陶邑の大田の森に住む「荒田直」(あれたのあたひ)にあやかってつけられた。 荒田直は祭神である高魂命の直系の子孫だったとされている。

夫婦塚古墳

市の指定文化財です。墳丘の周囲や墳頂部が削られていますが、もとは円形を2つ合わせた双円墳と考えられ、両方の墳丘には横穴式石室が築かれています。
所在地大阪府東大阪市東石切町2丁目5

二本松古墳

6世紀後半から7世紀の初めにあたる古墳時代後期には、力を持っていた中小の豪族達の古墳が群集して造られた。この古墳もそのうちの一つで、横穴式石室を内部主体としており、これは巨大な石を積み上げて造られたものである。石は多くが花崗岩と閃緑岩で構成され、かなり大きな石室となっている。
所在地:〒579-8061大阪府東大阪市六万寺町1丁目1568