開田城は、戦国時代(15世紀後半~16世紀)に活躍した国衆の一人である中小路氏の居館(居城)である。乙訓・西岡地域の土豪、地侍たちはそれぞれの村のリーダーとして活躍し、また国衆として、地域の自治的運営を目指す国一揆を結んだことで全国的にも著名。国衆の居館は彼らの活動の基地として重要な役割をはたしたが、開田城はそうした居館の遺構が残る貴重な事例である。開田城の発掘調査は、昭和53~56(1978~81)年と平成8(1996)年、平成15(2003)年に行われ、開田城が一辺約70メートルの方形居館で、周囲に幅約6.5メートル、高さ約2メートルの土塁と、幅約8メートル、深さ約1メートルの幅をめぐらす、典型的な構造であることが明らかになった。南西部に推定される主要な出入口は、南へ張り出す特徴をもつ。城内からは、東西・南北が3間(9メートル)以上の大規模な堀立柱建物や石組みの井戸、焼けた土や炭がつまった竈とみられる遺構などが発見された。現在、地権者などの努力によって、西辺(この案内板背後の高まり)と南東隅の土塁が残されている(一部は復元)。地域の中世の歴史をとどめ、国一揆の拠点として全国的にも貴重な歴史遺産として保存されている。
所在地:京都府長岡京市今里二丁目
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