橋本亭は河鹿荘から瀧道をさらに北に上った、一の橋のたもとにあります。明治43年に建てられた旅館でした。後継者難や建物の老朽化のため長く閉鎖されていましたが、2004(平成16)年に、街づくり活動の拠点としてリニューアルされ、一旦は店舗やギャラリー、大小貸室などで使われていました。
建築年:1910(明治43)年
設計・施工:不明
所在地:箕面市箕面2-5-37
西国街道に面して建つこの住宅は、切妻造で三面に庇をまわし、表構えに格子と出格子を並べ、大屋根の下の白壁に2か所の虫籠窓を開いています。間口が広く、田の字形の間取りは、京の町家と違い、農家風で独特の風情があります。玄関を入ると、通り庭が奥に続き、煙だしや六寸角の大黒柱、繊細な細工を施した座敷などが住時のまま残されています。この住宅は、神足村の旧家岡本家一族の商家で、江戸時代には「紙屋清兵衛」という屋号で和紙などを商っていたようです。明治以降、町医者などに利用されていたものを、後年になって石田家が購入しました。平成12年10月に国登録有形文化財に登録され、平成15年に長岡京市が取得し、「神足ふれあい町家」として整備しました。
所在地:〒617-0833京都府長岡京市神足二丁目13-10
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○古墳の概要
古墳時代後期の古墳である。現状は削平されており地表に姿を止めていない。全長約30mの前方後円墳。周濠内から大量の円筒埴輪、形象埴輪が出土している。昭和56(1981)年の発掘調査で発見され、周囲に幅約4m、深さ約0.5mの周壕がめぐることが判明しています。現在、古墳の墳丘は削られ、地上にその姿をとどめてうませんが、その規模から、2段に築造されていたと考えられています。周壕の中からは、古墳の上に立て並べられていた多彩な埴輪(円筒・朝顔形・蓋形・盾形・太刀形・家形・人物形・動物形など)や古墳に備えられた土器が出土し、その中には岩見型埴輪と呼ばれる特殊な形のものもあります。このことから、古墳の規模は小さいながらも大きな権力を持っていたことがうかがえ、乙訓地域の首長墓系譜を考える上で重要な古墳であるといえます。また、墳丘は長岡京の道路(六条条間小路)で削られたことが周辺の発掘調査によって明らかになりました。しかし、当地には「西塚本」や「東塚本」といった古墳を思わせる地名が近年まで残っていました当古墳を後世に伝えるため、モニュメントを設置しました(平成26年3月)。
所在地:京都府長岡京市開田3・4丁目(神足小学校の西、阪急長岡天神駅の東)
神足遺跡は、小畑川と犬川に挟まれた標高約20mの低位段丘上に立地する旧石器時代から近世までの複合遺跡で、特に弥生時代中期(紀元前1世紀~1世紀)を中心とした拠点的集落遺跡として知られています。集落の周囲には環濠が巡り、内側には竪穴式建物や高床倉庫の立ち並ぶ居住・倉庫域が、外側には方形周溝墓や土壙墓が密集する墓域が形成されていました。集落内から出土したさまざまな形の土器の中には、現在の大阪府や滋賀県から持ち込まれたものもあり、活発な交易があったことがうかがえます。また、神足遺跡から出土する遺物には石鏃、石刀などの磨製石器が多く見られるほか、石器を製作するための材料も見つかっており、集落内には石器の工房があったと考えられます。外にも京都府内では出土例の少ない青銅製の剣も見つかっています。弥生時代遺構にも核時代で集落が形成された痕跡が認められます。長岡京期には神足遺跡の東端を朱雀大路が通り、遺跡の範囲には宅地が広がっていたことが分かっています。
所在地:京都府長岡京市東神足2丁目17-1(長岡第9小学校前)
長岡京を発見した中山修一の記念館。長岡京復元図や年表などの展示物からその成果を知ると共にガイドさんの話を聞いてその人柄に触れられるのも魅力。
入館料:無料
営業時間:10:00~16:00火曜日休(祝日の場合とガラシャウィーク期間中(11月上旬~中旬)は会館)
電話:075-975-7176
所在地:京都府長岡京市久貝3丁目3-3
八条ヶ池は長岡天満宮の隣にある池である。八条ヶ池には、檜で作られた水上橋があり、そこからは池を中心として境内を一望できる。八条ヶ池の中堤両側の樹齢百数十年のキリシマツツジは有名で、隣接する長岡公園の梅園も広く知られている。キリシマツツジの花の季節に開催される「春の観光まつり」の会場にもなっており、多くの観光客で賑わいをみせる。また、境内には竹林や梅林、あじさい園、桜、ハス、アヤメ・カキツバタ群落もあり四季折々の散策を楽しむことができる。
所在地:京都府長岡京市天神2-15-13(長岡天満宮)
開田城は、戦国時代(15世紀後半~16世紀)に活躍した国衆の一人である中小路氏の居館(居城)である。乙訓・西岡地域の土豪、地侍たちはそれぞれの村のリーダーとして活躍し、また国衆として、地域の自治的運営を目指す国一揆を結んだことで全国的にも著名。国衆の居館は彼らの活動の基地として重要な役割をはたしたが、開田城はそうした居館の遺構が残る貴重な事例である。開田城の発掘調査は、昭和53~56(1978~81)年と平成8(1996)年、平成15(2003)年に行われ、開田城が一辺約70メートルの方形居館で、周囲に幅約6.5メートル、高さ約2メートルの土塁と、幅約8メートル、深さ約1メートルの幅をめぐらす、典型的な構造であることが明らかになった。南西部に推定される主要な出入口は、南へ張り出す特徴をもつ。城内からは、東西・南北が3間(9メートル)以上の大規模な堀立柱建物や石組みの井戸、焼けた土や炭がつまった竈とみられる遺構などが発見された。現在、地権者などの努力によって、西辺(この案内板背後の高まり)と南東隅の土塁が残されている(一部は復元)。地域の中世の歴史をとどめ、国一揆の拠点として全国的にも貴重な歴史遺産として保存されている。
所在地:京都府長岡京市今里二丁目