顕家は、父の親房とともに後醍醐天皇に仕え、1333(正慶2・元弘3)年陸奥守となり、奥州平定に当たった南北朝時代の武将である。「太平記」には、「暦応元(1338)年5月22日和泉の境阿倍野にて討死し給いければ」とあり、この地は、顕家が20余騎の手兵で、足利尊氏配下の高師直率いる1万8千人の大軍を迎え撃ち、21歳で戦死した場所と伝えられている。しかし、実際の戦没地は堺の南の石津原(現、堺市堺区)で、石図側の貴誌に墓がある。公園内の墓は二重台石に伏亀をおき、高さ120㎝・幅33㎝の竿石を載せたもので、京の儒学者並川誠所によって、1733(享保16)年に建てられた。大名塚と呼ばれたと伝えられる。
所在地:大阪府大阪市阿倍野区王子町3-8
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