○概要
今城塚古墳より北へ向かうと、高槻市岡本町という地域に至る。住宅街と田んぼに囲まれた一角に小山のようなものがある。郡家車塚古墳である。古墳の周囲は南側が田んぼ、北側が住宅に囲まれており、古墳の周囲を一周しようと思ったが住宅に阻まれ、北側の後円部はフェンスが張り巡らされておりできなかった。古墳の形状は東西に細長い前方後円墳である。全長は85.6mの前方後円墳で墳丘は二段築造で斜面には葺石が施されていたようである。古墳を取り囲む周濠があったそうだが現在ではその位置や規模を確認することはできない。周濠の縁には円筒埴輪が並べられていたようで、墳丘のテラス部にも埴輪が並べられていたようである。元来周濠とは墳墓である聖域と俗世界を仕切るために作られていると考えられるている。今城塚古墳に見られるような周濠沿いに円筒埴輪を整然と並べ、さらにその考えを強調してあるものもある。それは一種の結界のよう役割を担っていると考えられるているようだ。南側から古墳を挑めば前方部分と後円部の括れを確認することができる。 墳丘の高さは7mくらい。古墳の概要を知りたかったので、柱石や掲示板ないようだ。「何故この場所なのか」ということを考えるに、ここは今城塚古墳のある場所よりも少しだけ小高い丘陵地になっている。奈佐原丘陵の麓部にあたるこの場所は現在では住宅地に囲まれ周囲を見渡すことはあまりできないが、当時はどうだったのか、恐らくではあるが郡家や岡本の集落を見渡すことができたのではあるまいか。ここよりさらに北部の丘陵地にいくと岡本山古墳、弁天山古墳があり、ここから少し西に行ったところには前塚古墳がある。これらの古墳の築造年代は岡本山古墳が3世紀後半、弁天山古墳が3世紀末葉、前塚古墳が5世紀とある。3世紀に築造された岡本山古墳と弁天山古墳がともに100mくらいの規模の前方後円墳で、5世紀に築造された前塚古墳は帆立貝形古墳で全長95mくらいと古墳形状と規模が縮小している。古墳時代前期の特徴として巨大な前方後円墳が築かれた時代であり、これらの古墳は北摂山系南斜面にある奈佐原丘陵に築造されている。巨大な前方後円墳が多く築造された3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、日本各地で前方後円墳が造り続けられた時代である。しかし7世紀に突如前方後円墳が築造されなくなる。この女瀬川と安威川に挟まれたこの地域の古墳群のグループは何らかの関係があるのではないのだろうか。この古墳から出土している副葬品も埴輪や鏡、勾玉など結構なものが出土していることを考えるとこの古墳の被葬者はかなりの身分と財力があったことが伺える。位置的に今城塚古墳との因果関係が気になるところだが、築造年代の開きや古墳の規模などを考えると信憑性が薄い。むしろ年代的・古墳の規模的にここから西にある前塚古墳のほうが何らかの血縁関係があったのではないのだろうか。 古墳の名称になっている群家は現在でも町名になっているが、この群家は(むれいえ)言いかえればたくさんの集落があったことを意味する。それが古墳時代まで遡れるかは疑問だが。 出土物は円筒埴輪、鰭付円筒埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪などの埴輪が出土しており、墳丘部にこれらの埴輪が整然と並べられていたようである。その他には倭製四獣鏡、硬玉製勾玉、碧玉製勾玉、碧玉製管玉、竪櫛などが出土している。また墳丘部には葺石が施されていたとみられている。大和政権下における地方領主いわゆる豪族の自らの権威を象徴する古墳築造という既得権は6世紀中頃には終わりを告げることになり、それに伴い古墳築造に必要不可欠であった埴輪製造工場の新池遺跡も終焉を迎えることとなる。
規模:85.6m
築造年代:4世紀末~5世紀初頭
副葬品:円筒埴輪、鰭付円筒埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪、倭製四獣鏡、硬玉製勾玉、碧玉製勾玉、碧玉製管玉、竪櫛など
被葬者:この地域を治めていた豪族(推定)
○交通・アクセス
JR東海道線(京都線)「摂津富田」駅下車。
高槻市バス南平台経由奈佐原行き 今城塚古墳前 下車。
所在地:大阪府高槻市岡本町348
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