2015年3月27日金曜日

榎並猿楽発祥の地

猿楽は能楽の母体となった中世芸能で、社寺の祭事に奉仕をしているが、京都法勝寺に参加する猿楽には3座あり、そのうち丹波矢田郷(亀岡市内)を本座、榎並を新座と称した。榎並猿楽はこの付近に座を構え、住吉神社の御田植神事に奉仕をし特権を得ていた。その後、室町時代に有名であった山と猿楽に移り衰退していった。
○所在地
〒536-0006大阪市城東区野江4丁目1番28号


榎並城

榎並城は、大阪市城東区にあった日本の城。ここの東側に存在した室町幕府料所河内十七箇所に因み、別名を十七箇所城とも言った。
○概要
榎並城は江口の戦いで8ヵ月間籠城した堅城であるのにもかかわらず、城郭については不明な点が多い。この地は古来「榎並荘」と言われる旧大和川右岸と淀川の合流地点で、低地にあり淀川が氾濫すると被害を受け野江水神社一帯だけがわずかに高台になっていた場所に築いたのではないかと思われる。しかしその城跡も元禄17年(1704年)年2月27日から始まった大和川の付け替え工事に伴って、現在と大きく地形が変化し場所の特定など困難になってしまっている。
『万松院殿穴太記』によると、

此城は元来も宗三が館なれば、究竟(きゅうきょう)の要害を拵(こさ)へ、日来は子息衛門大夫政勝を籠置たり
 ”
?万松院殿穴太記
との記載が見受けられる。宗三は三好政長の事で衛門大夫政勝は政長の息子三好政勝の事を指し、かなり強固な城郭を築いたのではないかと推察されている。
○沿革
城史については大きく3つに分けられる。
・楠木時代
榎並の地の初見は南北朝の争乱の時で、『花宮三代記』によると楠木正儀が応安2年(1369年)3月、天王寺から榎並に退いて陣をしいたという記録がある。この時の陣所はどこか定かではないが、『日本城郭大系』によると、地勢からいって野江水神社周辺であったと解説している。ただ、この時の陣所が後の強固な城郭に繋がっていたのかは定かではない。
・三好時代
城として明確に記述されているのが『細川両家記』で、天文17年(1548年)10月28日、この時三好長慶方が榎並城を攻め、後に摂津各地で放火されるが、この時が城としての文献上の初見である。江口の戦いの先端がひらかれたのが、この10月28日の記述ではないかと思われている。その後三好政長は江口城で討死、三好政勝も父の死をきっかけに瓦林城に逃げ去って行った。廃城については記録がないので解らないが、その後文献から姿を消したことから、この時に廃城になったと思われる。
・石山本願寺時代
榎並城が廃城になった後、この城跡を石山本願寺が再利用したと推定されている。石山合戦の時に51の支城が作られたが、『陰徳太平記』によるとその51の支城の中に「野江」という名前が見受けられる。これにより『日本城郭大系』では、「野江城、野江砦は榎並城跡を再利用し、その位置は野江水神社付近が最も有力である」と解説されている。
○城跡へのアクセス
電車でのアクセス 大阪市営地下鉄谷町線野江内代駅徒歩約5分
車でのアクセス 阪神高速道路守口線森小路出入口→国道163号近隣に駐車場無し(野江水神社に参拝者用の駐車場が1,2台あり)
○所在地
〒536-0006大阪市城東区野江4丁目1番28号


関目神社

大阪市城東区にある神社である。創建年代は不明であるが、豊臣秀吉が大坂城築城のときに、鬼門除けとして小さな社を建てたのが始まりともいう。関目神社内には、関目発祥の地の石碑がある。関目という地名は、平安時代後期の榎並庄の時代からあったもので、この地に見張り所(目で見る関所)があったことからおこったといわれる。
所在地:大阪府大阪市城東区成育5-15-20




野江水神社

大阪市城東区にある神社である。1533(天文2)年、三好政長が榎並城の守護神として、水火徐難の神をまつったのが始まりといわれ、水波女大神を祀る。
所在地:大阪府大阪市城東区野江4-1-39
http://www001.upp.so-net.ne.jp/water-shrine/index.html





大阪俵物会所跡

俵物とは、長崎輸出品として干なまこ・干あわび・乾燥ふかひれなどの水産物を俵詰めにしたものである。江戸時代、海外貿易の決済に、金・銀・銅があてられていた。しかしその流出が激しいので一部がこの俵物に置き換えられた。延享元年(1744)これらを集荷するため請負商人が生まれ、大坂と長崎に会所を設けた。会所の場所は移転を重ねたが、この場所に設置されたのは安永6年(1777)のことである。しかし会所での買上価格が安かったので、集荷はおもわしくなかった。そこで天命4年(1784)幕府により機能は停止され、幕府の独占集荷体制をとったが、会所そのものは明治維新まであった。
所在地:大阪府大阪市中央区北浜2-2-15


大阪銀座跡

銀座の期限は、慶長3年(1598)徳川家康が伏見に銀貨鋳造所を設けたことに始まり、銀の品位を決め通貨を製造したが、同13年には京都に移された。時を同じくして大阪に銀座が置かれたが、通貨の製造は行わなかった。主に生野・石見銀山の産銀や、粗銅から抽出した銀を京都に回送する役割をになったようである。ちなみに江戸の銀座は、慶長17年(1612)駿府から移された物である。
所在地:大阪府大阪市中央区東高麗橋2(三精ビル前)

大阪金相場会所跡

江戸時代の貨幣制度では、金・銀・銭の3種類の貨幣が流通していたが、大別すると係数制と秤量制であった。金は両(両目・品位に関わらず枚数で数える)、銭は貫、銀は秤ではかる匁など複雑な面があった。その上、関西は銀、関東は金と流通範囲が自然に分かれていた。そして相互の交換は法定されてはいたもののあまり信用されず、実際には両替商立会いの下に相場が立てられ、それが標準になったため金相場の会所は存在価値が高かった。会所は最初高麗橋付近にあったが寛保3年(1743)この地に移り、維新後、銀目取引廃止に伴い閉鎖した。
所在地:大阪府大阪市中央区北浜1丁目8-16(証券取引所ビル入り口壁面)


大阪活版所跡

明治3年、五大友厚の懇望を受けたわが国活字印刷の創始者といわれる、本木昌造が設計創設した活版印刷所の跡で、大阪の近代印刷はここから始まったといえる。昌造は幕末長崎のオランダ通詞(通訳)で職業がら洋書に広く接し、外国に後れを取るわが国の印刷術の現状(木版印刷)を憂い、主主文献により研究を続けた。その苦心の結果、ついに寛永4年(1851)わが国最初の鉛の流し込みによる活字の鋳造に成功して、この地に長崎につぐ2番目の活版印刷所を設けた。昌造はその後、大阪最初の鉄橋高麗橋の架橋にも加わるなど、いろいろの事業に携わったが、常に活版を忘れず、活版伝習所を作り1日も早くその技術を全国に普及しようと努力を続けた。明治8年没、52歳。
所在地:大阪府大阪市中央区大手通2丁目4


大阪府庁跡

明治維新後、町奉行所の廃止に伴い、その跡へ大阪府庁が置かれた。府庁は奉行所のままを使い、明治7年になって大阪市西区江之子島に移り、府庁の跡地には明治8年に大阪博物館が設けられた。博物館には、動物園・美術館・図書館などの設備があって賑わった。最近、跡地の1部が発掘され、奉行所が置かれる以前の状態からの複合した様子が判明してきた。
所在地:大阪府大阪市中央区本町橋2(マイドーム大阪前)

大阪会議所開催の地

明治維新間もない頃、新政府の方針をめぐり政局は混迷を極めた。体制を固めようとする大久保利通は当時反対を唱え下野していた木戸孝允や板垣退助を引き入れるため、伊藤博文・井上馨らとともに明治8年大阪で会合した。紆余曲折を経た会議は1ヶ月にもおよび、国会開設の準備、司法権の独立、地方官会議の開催、内閣と各章の分離などが話し合われた。そして2月11日木戸孝允の常宿、花外楼(加賀伊を木戸孝允が改称させた)で妥協した。これを称して大阪会議という。ここでの話し合い花が続きせず、6ヵ月後には再び混迷度を増したが、この会議は立憲政体を宣言した意義あるものであった。
所在地:大阪府大阪市中央区北浜1丁目1(花外楼前)





石山本願寺推定地

「大坂」という地名が歴史上初めて姿を現すのは、明応7(1498)年に本願寺第8世蓮如が書いた「御文」の中だ。その蓮如が明応5(1496)年、摂津国に築いたのが大坂御坊であり、天文元(1532)年に京都の山科本願寺が炎上した際に本山の機能を大坂御坊に移転し、「石山本願寺」と呼ばれるようになった。第11世顕如のときは元亀元(1570)年から11年、織田信長との熾烈な石山合戦を経験。最終的には講和が成り、顕如が石山本願寺を退去することで決着を見た。その後、石山本願寺は消失している。消失後にその立地条件のよさに目をつけた豊臣秀吉が大坂城を築き、そして現在に至るまでの大阪の繁栄へち続いていくのである。「推定値」とされているのは、秀吉による大坂城建設、さらに大坂夏の陣ののち徳川大坂城建設による大規模な工事により、石山本願寺の正確な場所が不明だからである。
所在地:大阪府大阪市中央区大阪城2
最寄駅:地下鉄谷町線・中央線谷町4丁目駅



舎密局跡

舎密とはオランダ語の理化学を意味する言葉で、大阪で初めての公立教育機関である。この舎密局は、もとは江戸幕府が計画したものだが、明治政府が受け継ぎ、大坂城西定番屋敷跡に設立した学校で、1869(明治2)年5月に、オランダの第2等官医ハラタマを教頭として招いた。後に名称も、大阪開成所分局理学所大阪開成学校と変更されたが、1889年には京都へ移って、第3高等学校となり、京都大学へと発展する。
所在地:大阪府大阪市中央区大手前3
最寄駅:大阪市営地下鉄谷町線・中央線谷町4丁目駅徒歩3分




旧陸軍第4師団(もと大阪市立博物館)

建設されたのは昭和6(1931)年。昭和35(1960)年に博物館として開館する以前は、旧陸軍第4師団司令部、旧大阪市警視庁本部として使用されていた。旧陸軍第4師団は昭和6(1931)年から終戦まで使用。又、大阪市警視庁は後に大阪府警察本部へとつながり、現在は大手前3丁目に移転している。博物館として利用されたのは平成13(2001)年まで。大阪市の歴史に関する史料や資料を多数扱う本格的な博物館だった。同年に大手前4丁目に開館した大阪歴史博物館へ、業務や展示を引き継ぐ形で閉館した。現在は施設として使用されておらず、戦争遺跡として大阪城公園内、天守閣前に残されている。重厚なロマネスク様式が特徴である。
所在地:大阪府大阪市中央区大阪城公園内
最寄駅:地下鉄谷町線・中央線谷町4丁目駅



顕孝庵

もともと玉泉寺と呼ばれ、寛文元(1661)年、鴻池家が一族の墓の菩提寺として顕孝庵と改めて復興した。境内のほとんどが一族の墓で占められ、五輪等は70数基もある鴻池家始祖の山中幸元は清酒の製法を偶然に発見し、また清酒の江戸送りに成功し、海運業にも乗り出し、鴻池家の基盤を築いた。3代目山中宗利のときに今の東大阪市鴻池新田の開発に1万両を当時、経営に着手。飛躍を遂げる。この頃より酒造・海運業などから大名貸しを中心とする両替商を専業とするようになり、大坂随一の豪商となった。
所在地:大阪府大阪市中央区中寺2-4-6
最寄駅:地下鉄谷町線・千日前線谷町9丁目/近鉄線上本町駅




教育塔

1934(昭和9)年の室戸台風のとき、校舎の倒壊などによって、大阪府下で教職員18人、生徒児童676人の犠牲者が出た。その慰霊のために、全国の教職員や生徒児童の醵金によって、1936年に建てられたものである。その維持と祭祀は、帝国教育会、日本教育会、日本教職員組合へと受け継がれ、毎年10月30日に教育祭を行っている。
所在地:大阪府大阪市中央区大阪城公園内
最寄駅:地下鉄谷町線・中央線谷町4丁目駅


法性寺

日蓮宗のお寺で、維新時のオランダ人医師・ボードウインの宿舎となった。現在もガラスの菓子入れや、ボードウインの写真など遺品が残されている。ボードウインは浪華仮病院のお雇い医師で、負傷した大村益次郎や労咳だった小松帯刀の主治医であった。また、ここは薩摩藩御用商人薩摩屋半兵衛の菩提寺でもあり、その縁か、坂本龍馬が新選組に追われた際に、潜伏したという言い伝えが残されている。
所在地:大阪府大阪市中央区中寺1-1-32






天五に平五・十兵衛横丁

大阪の両替商は天王寺屋五兵衛が寛永5年(1628)にはじめたのが最初といわれている。江戸時代の通貨の流通の複雑さ(金相場会所跡)と経済制度発展に伴い、今日の銀行的業務が必要となってきた。手形の振り出しの法を初めて行ったのも天王寺屋五兵衛といわれている。その後寛文10年(1670)には幕府により十人両替が行えるなど増加してきた。ここはこの中でも最大手の天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛の2軒がが道を挟んで店を構えたところで、このようにいわれた。
所在地:大阪府大阪市中央区今橋1丁目5開平小学校前

蕪村生誕の地

与謝蕪村は享保元年(1716)この付近の毛馬村で生まれた。20歳の頃江戸に出て俳諧を学んだ。写生画・南宗画・文人画にも秀で、芭蕉を敬愛し、その没後即席を訪ねて東国を放浪している。明和3年(1766)蕪村が中心になって三菓社を結成、芭蕉復興を図った。旅の途中、たびたび大阪を訪れたが、故郷毛馬へは立ち寄らなかったという。しかし、蕪村の「春風馬堤曲」は切々たる望郷の詩である。。天命3年(1783)没、68歳。
所在地:大阪府大阪市都島区毛馬町3-7(堤防)