「高札」とは、立て札ともいい、江戸時代 法度、掟書、犯罪人の罪状などを記し、交通の多い市場、辻などに掲げらた板札をいう。その目的は一般の人たちに法令を徹底させるためのものでした。
旧石橋村の高札場跡
ここは、京都と山陽地方とを結ぶ「西国街道」、大阪と池田・能勢方面とを結ぶ「能勢街道」(江戸時代は「大阪道」あるいは「池田道」)が交わる場所です。かつて、多くの人々や物資が行き来したこの辻には、幕府や奉行所などから庶民に周知させる法令や禁令、生活の規範などを掲げた高札場 がありました。江戸時代の石橋村は麻田藩青木家(一万石)の領地になっていました。この時代の戸籍台帳である『宗門御改帳』などによると、元禄三年(690)に29軒1928人、幕末の文久元年(1861)には24軒104人の人々が暮らしていたようです。 江戸時代の村の様子はあまりわからないものの、次のことがうかがえる史料があります。嘉永6年(1853)の黒船(アメリカ艦隊)来航以降、幕府は初版に海岸の防備を強化するよう命じました。 同年七月、石橋村庄屋元二郎が江戸に行っていた同村の仁右衛門・徳次郎に宛てた手紙が残されており、そこには「異国船が来たと驚いている、幕府をはじめ諸藩の苦労がしのばれる。旱魃やほうき星が外国の仕業であると皆が評判している」といった内容がしたためられています。アメリカ、ロシアの相次ぐ来航という歴史を動かした幕末の動揺が、ここ石橋村にも及んでいたことがわかります。近代以降 明治22年(1889)の町村制の施行によって、石橋村は北豊島村の大字となりました。昭和10年(1935)、北豊島村は、秦野村、細河村、池田町と合併、昭和14年には市制が施行されて池田市になり、「石橋」は町名としてその名を今日に残しています。 平成22年4月池田市教育委員会
所在地:大阪府池田市石橋3丁目
石橋村高札場跡:阪急石橋駅の近くの踏切そば
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