2018年11月10日土曜日

京都御所

京都御所は、京都府京都市上京区にある皇室関連施設。14世紀から明治2年(1869年)までの間の「内裏(禁裏)」、すなわち歴代天皇が居住し儀式・公務を執り行った場所である。現在は宮内庁京都事務所が管理している。
○概要
平安遷都(延暦13年・794年)時の内裏は、現在の京都御所よりも1.7キロ西の千本通り沿いにあった。現在の京都御所は、もと里内裏(内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏)の一つであった土御門東洞院殿の地である。南北朝時代(14世紀半ば)から北朝側の内裏の所在地として定着し、明徳3年(1392年)の南北朝の合一以後、ここが正式の皇居となって明治2年(1869年)、明治天皇の東京行幸時まで存続した。明治以降は京都皇宮とも称される。土御門東洞院殿は、元弘元年(元徳3年・1331年)、後醍醐天皇が京都を脱出した後に鎌倉幕府が擁立した光厳天皇がこれを里内裏として以降、明治天皇の東京行幸に至るまで約550年間にわたって使用され続けた内裏である。当初は一町四方の敷地だったが、足利義満によって敷地が拡大され、その後織田信長や豊臣秀吉による整備を経て現在の様相がほぼ固まった。内裏は江戸時代だけでも慶長度(1613年)、寛永度(1642年)、承応度(1655年)、寛文度(1662年)、延宝度(1675年)、宝永度(1709年)、寛政度(1790年)、安政度(1855年)と8回も再建されており、このうち慶長度と寛永度は旧殿を取り壊しての建て替え、それ以外は火災焼失による再建となっている。特に寛政度の再建は、裏松光世による平安内裏の考証を多く取り入れた復古様式となった。現存の内裏は幕末の嘉永7年(1853年)に火災で焼失したのち、安政2年(1855年)に、寛政内裏の様式をほぼ踏襲して再建されたもので、安政内裏と呼ばれている。なお、南朝と呼ばれることになる大覚寺統の天皇の御所は二条富小路内裏であった。現代の京都御所は土御門東洞院内裏そのものではなく、土御門東洞院内裏を基に拡充され、幕末の慶應年間に今日の敷地面積が確定したものである。1877年(明治10年)、東京の皇居に移っていた明治天皇が京都を訪れた際、東幸後10年も経ずして施設及び周辺の環境の荒廃が進んでいた京都御所の様子を嘆き、『京都御所を保存し旧観を維持すべし』と宮内省(当時)に命じた。明治から大正にかけ、内侍所(賢所)や対屋(女官宿舎)などの建物が撤去されたが、1945年(昭和20年)には、総建築面積の半数近くが建物疎開(空襲による類焼防止)の名のもとに解体された。また、1954年(昭和29年)には、近隣で打ち上げられた花火が飛来して小御所が焼失している。その後1970年代前半にかけて、焼失した小御所や戦時中に解体された渡廊下などの一部が復元され、現在に至っている。 京都御所に隣接して京都大宮御所、仙洞御所がある。京都大宮御所は、後水尾天皇の中宮の東福門院のために造進されたのに始まり、現在の建物は英照皇太后(孝明天皇女御)のために造営され、慶応3年(1867年)に完成したものである。現在は天皇、皇后、皇太子及び皇太子妃の京都府への行幸啓(旅行)の際の宿泊や国賓の宿泊に使用されている。仙洞御所は後水尾上皇の退位後の住まいとして造られたものだが、現在は庭園と茶室を残すのみである。 現在は京都御所、京都大宮御所と仙洞御所は国有財産で、宮内庁が管轄する「皇室用財産」に分類されており、これらの周囲の国民公園である京都御苑を環境省が管理している。京都市民は京都御苑も含めて、単に「御所」と呼ぶ事が多い。京都御所に現存する主な建物としては、紫宸殿、清涼殿、小御所、御学問所、御常御殿、迎春、御涼所、皇后宮御常御殿、若宮・姫宮御殿、飛香舎などがある。
○現存施設
・概要
京都御苑の北西寄り、築地塀で囲まれた面積約11万平方メートルの区域が京都御所である。御所の敷地は東西約250メートル、南北約450メートルの南北に長い長方形で、そこにはかつての内裏に属していた多くの建物と庭園が残っている。御所の建物は近世を通じ、天正(1591年)、慶長(1613年)、寛永(1642年)、承応(1655年)、寛文(1662年)、延宝(1675年)、宝永(1709年)、寛政(1790年)、安政(1855年)の9度にわたり造営が行われている。うち、天正度、慶長度、寛永度の造営は焼失に伴うものではなく、時の為政者(豊臣秀吉および徳川家)の威勢を示す目的のものであったが、それ以降の6度の造営はすべて火災焼失に伴うものであり、現存する御所の建物は安政度造営のものである。建物群は大きく3つのブロックに分けられる。南寄りには内裏の正殿であった紫宸殿、天皇が政務を執った清涼殿をはじめ、儀式や政務のために用いられた表向きの建物が残る。その北側、敷地のほぼ中央のブロックは、天皇の日常生活や内向きの行事、対面などに使用された内向きの建物群で、小御所、御学問所、御常御殿などがここにある。御所敷地のもっとも北寄りのブロックはかつての後宮だった場所で、多くの建物が取り払われているが、皇后御常御殿、飛香舎(ひぎょうしゃ)をはじめ、皇后や皇子皇女などの住まいだった建物が残っている。建築様式は、表向きの建物である紫宸殿や清涼殿が平安時代の住宅建築様式である寝殿造を基調としているのに対し、これらの北にある内向きの建築群は書院造や数寄屋造の要素が強くなっている。ただし、表向きの建築物にしても外向きの建築物にしても寝殿造への復古は平面関係や障壁画や建具などについてであり、外観や立面関係、細部の建築方法は平安時代とは異なった江戸期の技術を用いたデザインとなっている。江戸期の庭園は、紫宸殿の南庭(「だんてい」と読み慣わしている)や清涼殿の東庭が一面に白砂を敷き詰めた儀式の場としての庭であるのに対し、小御所、御学問所、御常御殿などに接した庭は池と遣水(やりみず、流水の意)を中心にした日本式の庭である。各建物の内部は、それぞれの部屋の格や用途に応じた、さまざまの障壁画で飾られている。これらの障壁画には、狩野派、土佐派、円山四条派をはじめ、江戸時代末期の日本画壇の主要な絵師たちが絵筆を振るっている。京都御所は、平安時代の内裏とは位置が異なり、建物も江戸時代末期の再建であるが、建築、庭園、障壁画が一体となって日本の伝統文化の粋を今に伝えている。
○参観
2016年7月25日までは予約不要の春秋の特別公開と、事前の予約が必要な一般公開の2つの参観がおこなわれてきたが、参観希望者の利便性をより高めるため、2016年7月26日から予約不要の通年一般公開に再編された。なお、月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始(12月28日から1月4日)、行事等の実施のため支障のある日は休みとなる。公開時間は、4月から8月は9時から17時まで(入場は16時20分まで)・9月及び3月は9時から16時30分まで(入場は15時50分まで)・10から2月は9時から16時まで(入場は15時20分まで)となっている。入場門は清所門(せいしょもん)で反時計回りに京都御所を見学し、清所門から退出する。入場時に手荷物の内容検査が皇宮護衛官により行われる。なお、以前は春秋の特別公開の期間だけは紫宸殿のすぐ前まで行けたが、現在は紫宸殿南庭の南東隅に入って遠望する形に変更されている。
○交通アクセス
通年一般公開は清所門が出入口となる。 京都市営地下鉄烏丸線今出川駅下車。または、京都市営バス烏丸今出川バス停下車。南へ向かい、乾御門を通って清所門まで徒歩8分。京都市営バス烏丸一条バス停下車。少し南の中立売御門を通って清所門まで徒歩4分。ただし、烏丸一条バス停は1時間に1本しか運行されない51系統だけが停車する。
○所在地
京都府京都市上京区京都御苑内







































































































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