2016年4月14日木曜日

宝国寺(志太野坡墓所)

大阪市天王寺区にある浄土宗の寺である。この寺には志太野坡の墓がある。志太野坡は江戸時代初期の俳人で、松尾芭蕉の有名な10人の門人である。碑文には次のように書かれている。
≪碑文≫
野坡は本姓竹田氏。俳人芭蕉の軽みの風潮を示す「炭俵」を編著し、連句は芭蕉と共に名吟を残した。宝永元年(1704)来阪、のち高津無名庵で多数の門人を指導した。志太野坡(しだやば)は江戸時代初期の俳人で、松尾芭蕉の有名な10人の門人、いわゆる蕉門十哲の1人である。本姓を武田といい、通称は弥助といった。寛文2年(1662)に越前福井の商家に生まれ、若くして江戸に出て両替商の番頭などをしたといわれており、宝永元年(1704)10月に来阪した。以後現在の中央区農人橋の近くに樗木社を結成し、ここを本拠にして活躍したが、享保7年(1722)に樗木社が類焼したため、翌年、現在の中央区高津付近に浅生庵を新築し、以来、無名庵高津野々翁と名乗った。野坡の俳諧活動は、元禄6年(1693)頃から活発になり、翌年には彼の代表的編著であり、蕉門七部集の一つに数えられる「炭俵」を刊行した。また、野坡はしばしば西国を行脚しており、とくに九州には10回ほど遊歴した。有力な門人が各地に多く、元文の頃には1,000余人にも上ったといわれる。元文5年(1740)1月3日、79歳で没した。主な編著には、「万句四之富士」、「放生日」などがある。
所在地:大阪府大阪市天王寺区餌差町11-5




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