京都の山崎からほとんど南西の方向に斜め1直線に進んできた西国街道が旧広田村の辺り(御手洗川に行き着く)まで行くと方向を南へ方向を変える。この方向を変える地点の周辺に「高座橋」という御手洗川にかかる橋がある。この橋を渡らないで御手洗川の上流の方に約200m行くと右に上る道があります。その道に入っていくとすぐにこんもりとした雑木林(山みたいになっている)がすぐに見えます。
これがはいる場所の雰囲気。
その道に入って20~30歩歩いていくと左の方にその雑木林に入る石段があるはずです(はっきり行って見つけにくいが)。それを上って道なりに進んで雑木林(山)の山頂を目指します(途中廃墟になったような民家に行き当たりますがそうなるのを避けて左の方に上っていくと数分で山頂にたどり着きます)。その山頂に大きな岩がいくつか落ちていますが、それが具足塚古墳である。
上ヶ原台地突端部丘陵の標高31mに立地するこの古墳は、神宮皇后が具足を埋めたと言う伝承から鎧塚、具足塚と土地の人に呼ばれていた。古墳は、土地所有者の協力を得て昭和49年8月西宮市教育委員会によって発掘調査がなされた。古墳は直径17m、高さ4メートルの円墳である。内部の石室は玄室と羨道にわかれており、横穴式石室と呼ばれている。石室の石材は露光三男録に広く分布する花崗岩が用いられているが石積みの中には甲山山塊の安山岩が使用されている箇所もある。石室の規模は全長8.75m、玄室の長さ3.49m玄室の幅2.07m、羨道の長さ5.20m、羨道の幅1.8m、玄室の高さ2.80m、羨道の高さ1.64mを測る。玄室には副葬品を納めるため阪神地区では珍しい仕切石が設けられ石室から壷、高杯提瓶などの須恵器57点、土師器1点、鉄鏃、鉄刀、鉄銛などの鉄製武器類、轡、鞍、金具などの馬具が多数出土している。
関室内には玄室部に男女各1体、羨道部に幼児1体の3体が埋葬されていたが、これについては詳しくは分からないが1450年ほど前にこの地方を支配豪族とその家族と考えられる。
行ってみた感想としては、この古墳ほど分かりにくい場所にある古墳はないと思う。「看板や石碑がない」「管理があまりなされていない」「道らしい物はあるがきっちりと整備されていない(途中の道が竹やぶや木の枝などに覆われており、それらを掻き分けて進まなければ到達できない)」という理由です。多分近所の人もここに古墳があるとは知らない(雑木林があるという感覚)のではないかと推測される。
所在地:兵庫県西宮市高座
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