大塩平八郎の乱は、江戸時代の天保8年(1837年)に、大坂(現・大阪市)で大坂町奉行所の元与力大塩平八郎(中斎)とその門人らが起こした江戸幕府に対する反乱である。大塩の乱とも言う。旗本が出兵した戦としては寛永年間に起きた島原の乱(1637年 - 1638年)以来、200年ぶりの合戦であった。
○経緯
前年の天保7年(1836年)までの天保の大飢饉により、各地で百姓一揆が多発していた。大坂でも米不足が起こり、大坂東町奉行の元与力であり陽明学者でもある大塩平八郎(この頃は養子の格之助に家督を譲って隠居していた)は、奉行所に対して民衆の救援を提言したが拒否され、仕方なく自らの蔵書五万冊を全て売却し(六百数十両になったといわれる)、得た資金を持って救済に当たっていた。しかしこれをも奉行所は「売名行為」とみなしていた。そのような世情であるにもかかわらず、大坂町奉行の跡部良弼(老中水野忠邦の実弟)は大坂の窮状を省みず、豪商の北風家から購入した米を新将軍徳川家慶就任の儀式のため江戸へ廻送していた。このような情勢の下、利を求めて更に米の買い占めを図っていた豪商に対して平八郎らの怒りも募り、武装蜂起に備えて家財を売却し、家族を離縁した上で、大砲などの火器や焙烙玉(爆薬)を整えた。一揆の際の制圧のためとして私塾の師弟に軍事訓練を施し、豪商らに対して天誅を加えるべしと自らの門下生と近郷の農民に檄文を回し、金一朱と交換できる施行札を大坂市中と近在の村に配布し、決起の檄文で参加を呼びかけた。一方で、大坂町奉行所の不正、役人の汚職などを訴える手紙を書き上げ、これを江戸の幕閣に送っていた。新任の西町奉行堀利堅が東町奉行の跡部に挨拶に来る二月十九日を決起の日と決め、同日に両者を爆薬で襲撃、爆死させる計画を立てた。
○決起
ところが決起直前になって内通離反者が出てしまい、計画は奉行所に察知されてしまった。跡部を爆死させる計画は頓挫し、完全な準備の整わぬままに2月19日(3月25日)の朝、自らの屋敷に火をかけ決起した。天満橋(現大阪市北区)の大塩邸を発った大塩一党は、難波橋を渡り、北船場で鴻池屋などの豪商を襲い、近郷の農民と引っ張り込まれた大坂町民とで総勢300人ほどの勢力となった。彼らは「救民」の旗を掲げて船場の豪商家に大砲や火矢を放ったが、いたずらに火災(大塩焼け)が大きくなるばかりで、奉行所の兵に半日で鎮圧されてしまった。大塩は養子・格之助と共におよそ40日余り、大坂近郊各所に潜伏した。せめて先に江戸に送った建議書が幕府に届くことを期待したのである。だが建議書は江戸に届いたものの大坂町奉行所が発した差し戻し命令のために発送先に届けられず、大坂へと差し戻しの途中、箱根の関で発見され、押収されてしまう。失意のまま大坂に舞い戻った大塩は、美吉屋五郎兵衛の店(現西区靱油掛町付近)に匿われたが、出入りする奉公人によって大坂城代土井利位(古河藩主)に通報され、土井とその家老鷹見泉石らの率いる探索方に包囲された末、火薬を使って自決した。遺体は顔の判別も不可能な状態であったと伝わる。
○事後
大塩の挙兵は半日で鎮圧され失敗に終わったが、幕府の元役人だった大塩が、大坂という重要な直轄地で反乱を起こしたことは、幕府・諸藩の要人たちに、そして幕政に不満を持つ民衆たちに大きな衝撃を与えた。この事件を境に生田万の乱を始め全国で同様の乱が頻発し、その首謀者たちは「大塩門弟」「大塩残党」などと称した。また、最期の状況から「大塩はまだ生きている」「海外に逃亡した」という風説が流れた。身の危険を案じた大坂町奉行が市中巡察を中止したり、また同年アメリカのモリソン号が日本沿岸に侵入していたことと絡めて「大塩と黒船が江戸を襲撃する」という説まで流れた。これに、大塩一党の(遺体の)磔刑をいまだ行っていなかったことが噂に拍車をかけた。幕府としても、叛徒が元役人で武士でもあり、遺体の状況をも鑑みた上での処置であったと考えられるが、そのため余計に生存説が拡大してしまった。仕方なく幕府は、事件1年後に磔を行うが、それは塩漬けにされて人相も明らかでない遺体が十数体磔にされる、という異様な光景で、保存技術も進んでいなかったため当然大塩本人の遺体の真贋判断などできるわけもなく、さらに生存説に拍車をかけることとなった。大塩の発した檄文は幕府に反感を持つ庶民の手で、取締りをかいくぐって筆写により全国に伝えられ、越後国では国学者の生田万が、柏崎の代官所を襲撃する乱を起している。さらにその檄文は寺子屋の習字の手本にされたほどだった。また、大坂が都に近いということで、2月25日に京都所司代松平信順から光格上皇および仁孝天皇に対して事件の報告が行われ、以後大塩の死亡までたびたび捜索の状況が幕府から朝廷に報告された。一方、朝廷からは諸社に対して豊作祈願の祈祷が命じられ、また朝廷の命により幕府がその費用を捻出している。尊号一件などで大政委任を盾に朝廷に対して強硬な姿勢を示していた幕府が朝廷の命令をそのまま認めたことに、幕末に向かい、幕府の権威が下がり、朝廷の権威が上昇していく兆しと見ることができる。
○備考
大塩が幕閣に送りつけた建議書の中には、文政12年(1829年)から翌年にかけて行われていた、与力弓削新左衛門らを仲介者とした武家無尽に関する告発が書かれていた。武家及びその家臣が無尽に関与することは禁じられていた(『御仕置例類集』第一輯)が、財政難で苦しむ諸藩は自領内や大都市で無尽を行って莫大な利益を得ていた。大塩は大坂で行われていた不法無尽を捜査した際にこの事実を告発したが、無尽を行っていた大名たちの中には幕閣の要人も多くおり、彼らはその証拠を隠蔽して捜査を中断させてしまった。大塩はその隠蔽の事実を追及したのである。大塩が告発した中には、水野忠邦や大久保忠真ら、事件当時の現職老中4名も含まれていた。建議書が箱根で押収されたことには、皮肉にも当時の社会の汚職が飛脚にまで及んでいたことが背景にあった。大塩の告発状が入った書簡を江戸に運んでいた飛脚は、その中に金品が入っていると思って箱根の山中にて書簡を開封し、金品がないと知るや書簡ごと道中に放り捨ててしまっていた。それを拾った者によって、書簡が韮山代官江川英龍の元に届けられ、内容の重大性に気付いた江川が箱根関に通報した、というのが顛末であった。更に3月、今度は幕府から朝廷に対して大塩追跡の状況を知らせた文書が、同じ箱根山中で同様の被害に遭い、事情を知った関白鷹司政通が武家伝奏徳大寺実堅を通じて京都所司代に対して抗議したことが、同じ武家伝奏の日野資愛の日記に記されている(ただし、資愛自身は事件当時は江戸下向中で、帰京後に聞いた話を記したものである)。
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