堀城は、大阪市淀川区にあった城で、別名中嶋城とも言われている。
○概要
堀城もしくは中嶋城は古文献に多く記述されているが、大阪市の中心部にあり遺構や城の場所が明記された石碑は存在せず、城郭、推定地については不明な点が多い。「日本城郭大系」によると、「永禄9年(1566年)に細川藤賢が築城」との記載が見受けられるが、深井の合戦(永正8年(1511年))や桂川原の戦い(大永7年(1527年))が記載されている『細川両家記』等には既に堀城、中嶋城と記述されており、砦のような城が築城されていたと思われ、その後細川藤賢が本格的な城郭を築いたのではないかと考えられている。中嶋の地は、細川澄元と細川高国の細川家の内紛で、阿波国、堺、京の中間地点にあり、防御する側、攻め込む側双方にとって重要な地点ではなかったかと思われる。築城に関しては不明な点が多いが細川氏(細川藤賢の父細川尹賢ではないかという説もある)の誰かが築城したと考えられている。石山合戦で三好三人衆がようする野田城及び福島城の対抗基地(野田城・福島城の戦い)として織田信長方につき、元亀元年(1570年)9月3日に将軍足利義昭が中嶋城に着陣する、との記載が見受けられる。その3年後天正元年(1573年)今度は足利義昭が織田信長と対立、足利義昭についた堀城は織田信長が派遣してきた軍勢と戦い(高屋城の戦い)敗北し開城した。おそらくこの時に廃城になったものと思われている。このように様々な歴史がある堀城であるが場所については諸説ある。堀城は川のほとりに築城されていたと思われるが、この川は明治43年に廃川となった中津川で、近代の淀川改修事業でつけ変わり、城の名残も完全に消滅し推定地が明確にできない。またこの地域は地名が度々変更され、文献によっては現在の地名と違う地区が記載され複雑にしている。また、堀城、中嶋城は、同じ城なのか、同地域の別の城だったのか、詳細については明確にはなっていない。
○所在地(推定地)
大阪市淀川区十三元今里1(現在は十三公園)
武田薬品工業の工場敷地前にこのような看板あり。
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