長寶寺は、大阪市平野区平野本町にある高野山真言宗の寺院。山号は王舎山。院号は長生院。本尊は十一面観音である。「長宝寺」とも表記。
○歴史
創建は、大同年間(806年 - 810年)と伝える。寺伝によれば、開山は坂上田村麻呂の娘で、平野庄領主の坂上広野(坂上廣野麻呂)の妹の坂上春子(慈心大姉)とされる。春子は桓武天皇の妃であった。延暦25年(806年)に桓武が死去すると、春子は空海(弘法大師)に帰依して剃髪し、慈心尼と称した。寺は父の坂上田村麻呂(父)が大同年間(806-810年)に建立したという。
南北朝時代には、後醍醐天皇が大和国・吉野(奈良県)に向かう途中に、当寺を仮の皇居とした。その際に「王舎山」の山号が下賜された。 元亨年間(1321年-1324年)に笠置城(京都府)が落城のときに、61人が戦死し、その妻女たちが当寺で出家したと伝えれている。広大な寺域に多くの堂宇があったが、元弘の乱(1331年)、建武年間 (南北朝の争い)、元和(大坂夏の陣(1615年))の兵火により、灰燼に帰した。「平野郷町誌」によれば、現在の本堂・庫裡は、当寺第三十三代・慈源大師の時、天保年間(1830-1844年)に再建されたと言う。なお、当寺の住職は代々坂上家の女子が補されることになっている。
○境内
本堂 - 本尊として十一面観世音菩薩像(毎年5月18日に開扉)を安置する。寺伝によれば、この像は仏師・春日作で、坂上田村麻呂の念持仏であるという。他に閻魔王(えんまおう)像(毎年5月18日に開扉)を安置する。
密祖堂(大師堂) - 宗祖空海(弘法大師)像を安置する。もと田村堂と称し、江戸時代までは、坂上田村麻呂像(伝・坂上廣野麻呂作))が安置されていたが、明治時代の廃仏毀釈により、田村麻呂像は杭全神社(くまたじんじゃ)に移され、杭全神社境内の大師堂にあった弘法大師像が長寶寺に移された。
護摩堂 - 役行者像を安置する。
境内の手水鉢には、水神に祈願するため、瓢箪を模した石に、柄杓で水を掛けるようになっている。
境内には他に鎮守社があり、山門前の右側には「後醍醐天皇行在所跡」の石碑がある。
○閻魔王に関する伝承
寺に所蔵される『よみがえり草紙』によれば、本堂に安置される閻魔王は、永享11年(1439年)6月6日、慶心坊尼を頓死させた。頓死させた理由は、存命中に仏道の修行を怠(なま)けると地獄に堕ちるということを知らせるために、地獄の恐ろしさを見聞させ、逆修を勧めさせるためであった。閻魔王は「閻魔大王の証判を持つ物は地獄に落ちない」といい、閻魔王の証判をもっていた慶心坊尼は地獄に堕ちた3日後に蘇生したという。その後、嘉吉元年(1441年)10月15日、読経中の慶心坊尼が青蜘蛛(くも)をつかむと青蜘蛛は舎利に変わったという。嘉吉2年(1442年)、慶心坊尼が逆修供養を営んだ際に、客僧が来訪し、閻魔王の木像を刻んで姿を消した。その客僧が閻魔王であったという。「青蜘蛛の舎利」、「閻魔大王木像」、「閻魔大王実判」は現在も、長寶寺に伝わっている。慶心坊尼が、この出来事を書いたものが、『よみがえりの草紙』で、逆修を勧めるために書いたものが『逆修講縁起』である。年に一度、5月18日に本尊十一面観世音菩薩とともに、閻魔王木像が開扉されて、僧侶により法要が行われる。また、僧侶が閻魔王像の前にて宝印を参拝者の体に触れて加持を行う。現在、授与品として、「閻魔大王実判宝印」、「閻魔大王実判御札」があり、朱色(朱印)で閻魔大王実判(書き判・花押)が記してある。
○文化財
重要文化財
絹本著色仏涅槃図(建武2年(1335年)に坂上利増が寄進)
梵鐘(建久3年(1192年)作)
その他
よみがえりの草紙
逆修講縁起
開山慈心大師霊牌
○年中行事
5月18日 本尊十一面観世音菩薩・閻魔大王の厨子開扉
7月14日 「神輿(みこし)渡御」
8月23・24日 地蔵盆
10月18日 大般若転読法会
毎月21日 お大師参り
○札所
摂津国八十八箇所第38番札所
○交通アクセス
JR大和路線 平野駅 から徒歩約5分
大阪市営地下鉄谷町線 平野駅 から徒歩約5分
○所在地
大阪市平野区平野本町3丁目4-23
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